高校を退学後、オダサクは作品を書きつつ昭和14年(1939)、宮田一枝と結婚。日本工業新聞社に入社するも翌年には辞職。その後、昭和19年(1944)に最愛の妻・一枝が子宮がんで亡くなってしまう。昭和21年(1946)に声楽家笹田和子と結婚し笹田家に同居したが、10日ばかりで義兄竹中方に帰る。この年の11月に、東京銀座のバー・ルパンで太宰、安吾らと座談会で知り合うが、12月に結核による大量の喀血を起こし、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)に入院する。
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 オダサクの眠る楞厳寺は、高津高校から徒歩で僅か数分の場所にあった。私が訪れたときは、人通りも少なくお寺もがらんとしていた。
 オダサクの病状は一進一退を繰り返すが、徐々に悪化し、年が明けて昭和22年1月10日、午後7時10分に永眠。楞厳寺で告別式をおこない、同寺に葬られた。
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 立派なお墓ですね。ここでオダサクは最愛の妻・一枝と共に眠っています。なぜか私はお墓の前に立つと緊張してしまいます。オダサクなら「よう来たな」と言ってくれるでしょうか。

 太宰治は『織田君の死』というタイトルで文を昭和22年1月13日に東京新聞に寄せている。
織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短編小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附合いがあったわけではない。
 しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。
 はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。
 こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。(中略)
 彼のことたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
 織田君! 君は、よくやった。


 太宰が『死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がした』と思ったのも無理もない。なぜなら、ルパンでの座談会で写真家の林忠彦も『チラッチラッと気になって見ていると、やたらに咳き込む。ハンカチにパッと咳き込んで痰をだすと、血痰が出ているように見えたんですね。あっこれはいけねぇな、と思いました。この作家は、あんまり長くないから撮っておかなければ、と思いました。』(文士の時代)と死の近いことを感じとっていたのだ。
 太宰の言うとおり、この時点ですでにオダサクの病状はどうしようもない状態まで来ていたのだと思います。
 もともと林忠彦はオダサクを撮るために来ていた。たまたま太宰が「俺も撮れよ」なんて言い、この場で初めて、最近流行の太宰治だと聞き、最後の1枚を太宰に使ったのだ。オダサクのおかげで太宰のルパンでの有名な写真が生まれたのだ。オダサクには感謝しています。

 もしかしたら、空の上で太宰、オダサク、安吾の3人でたまには座談会でもやっているかもしれませんね。
 オダサクの大阪は、これで終了になります。


by dazaiosamuh | 2015-12-19 09:32 | 太宰治 | Comments(0)

 前回載せた高津宮からオダサクが通った旧制高津中学校は徒歩で10分以内と近い。裏長屋の賃借人の倅は小学校を出たら奉公に出るのが当り前だった時代に、高津中に合格したことに、周囲は驚きを隠せなかった。
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 現在は大阪府立高津高等学校になっていますが、ここがオダサクの通った旧制高津中学校になります。
 オダサクはここに大正15年・昭和元年(1926)に入学した。ここでオダサクは吉井栄治や中谷栄一らと出会った。翌年、長姉タツの婚家が日本橋二丁目に店を持ったため、オダサクはそこでほとんどを寝起きした。そして、長姉タツの嫁ぎ先の電気屋・竹中商店を自分の家だと嘘をついていたらしい。下寺町には、次姉の千代が芸者を辞めて駆け落ちした末、ぐうたら亭主と苦労して出したサロンもあった。
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 オダサクは中学校だけでなく、その後、昭和6年(1931)に猛勉強の末、第三高等学校(後の京都大学教養部)に合格し、文科甲類に入学する。周囲は中学だけでなく高校にも合格したオダサクに騒いだのであった。しかし、学業に身が入らず落第を繰り返し、この高校時代に肺を悪くし肺結核を発病。
 昭和9年(1934)卒業試験の最中に下宿で喀血。酒場『ハイデルベルヒ』に勤める宮田一枝と出会い同棲を始める。その後、昭和11年(1936)に高校を退学することになる。

 肺結核を患いながらも煙草は最後まで辞めなかった。亡くなる約1カ月半前の銀座バー・ルパンでの太宰、安吾との座談会では煙草を指に笑顔で写るオダサクの写真が残っている。
 肺を悪くした時点で煙草を辞めていれば、もっと長生きしたのではあるまいか。

 オダサクの大阪は、次回で最後になります。

by dazaiosamuh | 2015-12-15 19:47 | 太宰治 | Comments(0)

 オダサクの『アド・バルーン』に登場する高津宮は、『仁徳天皇を祀る神社で、かつて大阪城附近にあり、昭和20年3月の大阪大空襲で全焼した。現在の社殿は戦後に再建された』ものらしい。
 オダサクゆかりの生魂小学校を探すのも少し迷ったが、高津宮も見つけるのに時間が掛かってしまった。今に始まったことではないが、私は地図を見て、地形、距離を目測することが苦手なのだ。現在地と照らし合わせるために、地図を逆さまにしたりすると、文字が逆になるため、頭が混乱するときがたまにある。方向音痴というのは治せないものかしら。
 道行く人に尋ねると、あっさり発見することができた。
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 こちらが高津宮の入り口です。こんな立派な鳥居を自力で発見できないなんて…。

高津神社の裏門をくぐると、すぐ梅ノ木橋という橋があります。といっても子供の足で二足か三足、大阪で一番短いというその橋を渡って、すぐ掛りの小綺麗なしもたやが今日から暮す家だと、おきみ婆さんに教えられた時は胸がおどったが、しかし、そこには既に浜子という継母がいた。』(アド・バルーン
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『アド・バルーン』では『梅ノ木橋』と書いてありますが、実際は『梅の橋』というみたいです。本当に数歩歩いただけで渡り切ってしまう小さな橋です。シャッターを切った瞬間、黒猫が写ってしまいました。この橋の下の川は流れていないようですが、かつては道頓堀川へと流れていたようです。

私を送って行った足で上りこむなり、もう嫌味たっぷりに、――高津神社の境内にある安井稲荷は安井さん(安い産)といって、お産の神さんだのに、この子の母親は安井さんのすぐ傍で生みながら、産の病で死んでしまったとは、何と因果なことか……と、わざとらしく私の生みの母親のことをもちだしたりなどして、浜子の気持を悪くした。』(アド・バルーン
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 梅の橋のすぐ横の岩の上で、先ほどの黒猫が、流れていない川跡を眺めて黄昏ていた。もしかしたらと思い、黒猫に『おまえもオダサクのゆかりの地をまわっているのか』と聞いてみたが、無視されてしまった。そこで今度はカメラを構えてみるが、全く私に興味のかけらも示さず、結局一度も私のほうを振り向いてくれはしなかった。その時に撮ったのが上の写真です。
 黒猫というのは少しミステリアスなところがあるような、ないような…。

『アド・バルーン』を書いたのは昭和20年、オダサクが32歳で亡くなる2年前に執筆された。この時点ではまだ太宰治とは出会っていない。出会うのは翌年の昭和21年11月25日の銀座バー・ルパンである。出会ってから、僅か1カ月半後にオダサクは亡くなりました。

 もっと長生きしていれば、太宰と長く交流する間柄になっていたはず。早世が惜しまれますね。

by dazaiosamuh | 2015-12-11 09:42 | 太宰治 | Comments(2)

 大正9年(1920)、オダサクが7歳の時に入学した大阪市立東平野第一尋常高等小学校は、現在の大阪市立生魂小学校にあたる。
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 こちらが現在の生魂小学校です。オダサクはどんな子供でどんな小学校生活を送ったのでしょうか。オダサクが小学校に入学した大正9年は、太宰は12歳で、『五年になって以後、高等科1年までの小学校3年間、無欠席で通した。5年になって、担任訓導川口豊三郎に、「将来の希望」というアンケートを与えられて、「文学」と回答した、と伝えられる。』と年譜に記載されています。オダサクより五つ上の太宰は、12歳ですでに文学を意識していたのだ。すごいですね。

 話が変わりますが、オダサクはお酒は殆ど飲めなかったようですがそのかわり、コーヒーが非常に大好きであったらしい。しかし、残念ながらオダサクがいた当時の喫茶店などはほとんどが無くなっています。そんな中、オダサクがいた当時から今も残っている喫茶店があります。
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 写真の丸福珈琲店は、創業昭和9年に大阪・千日前にできました。昭和9年だとオダサクが21歳の時にすでに建てられているので、コーヒー好きのオダサクならきっと何度も訪れたことに違いないと思います。この丸福珈琲店は、昔から多くの文化人や芸人、建築家などジャンルを問わず色々な方から愛されてきたようです。
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 私も折角なので、コーヒーとケーキ(名前は忘れてしまいました)を頂きましたが、さすが老舗、とても美味しかったです。夫婦善哉もそうですが、甘い物が大好きな私には至福のひとときでした。創業が昭和9年と古いですが、オダサクが訪れたことがあるかどうか、有力な情報がないことはちょっと残念です。
 ケーキを頬張りつつコーヒーを飲み、つくづく、こう思いました。
「美味い、こんなコーヒーの美味い店にオダサクが来ないはずはない。」ということで、一応、オダサクが来たであろう、ということにしておきましょう!


by dazaiosamuh | 2015-12-07 18:34 | 太宰治 | Comments(0)

路地の多い……というのはつまりは貧乏人の多い町であった。同時に坂の多い町であった。高台の町として当然のことである。「下へ行く」というのは、坂を西に降りて行くということなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口縄坂……と、坂の名を誌すだけでも私の想いはなつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口縄坂である。』(木の都
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 『木の都』で口縄坂(くちなわざか)やその近辺でのエピソードが、オダサクの懐かしい思い出として綴られている。口縄坂はたびたび登場するのですが、実は私はこの口縄坂をなかなか発見することができなかった。というのも、源聖寺坂を上り、ついでにそのまま口縄坂を見つけて下ろうと思っていたのですが、なぜか発見できず源聖寺坂附近に居た近所の高齢の女性に尋ねると、下から行った方が分かりやすい、どこどこを目安に見ていけば云々…と教えてもらい源聖寺坂をまた下り、下から口縄坂を、まだかな、まだ先なのかな、と焦燥しながら探すと、ようやく口縄坂の入り口を見つけることができました。口縄坂は源聖寺坂から思っていた以上の距離があり、もっと近くにあるものとばかり勘違いしていた私の安易な憶測が原因でした(本当に思っていた以上の距離を歩き疲れました)
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口縄(くちなわ)とは大阪で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口縄坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といってしまえば打ちこわしになるところを、くちなわ坂とよんだところに情調もおかし味もうかがわれ、この名のゆえに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私は口縄坂という名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想いが傾いた。』(木の都

 オダサクの『木の都』には『蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である』とありますが、現在のような直線の道ではなかったということでしょうか。入口の立て札には、『坂の下から眺めると、道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところから、この名が付けられたという。』と書いてありましたが、道の起伏も蛇に似ているとは思えませんでした。それとも歩行しやすいように整備し現在の坂にしたということなのでしょうか。
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 口縄坂を登り切ると、オダサクの碑がありました。そこには『木の都』の最後の段落が刻まれていました。
口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。

 青春を胸に前へ進もうとする淡い気持が読み取れる。この『木の都』を読んだ後は、オダサクを詳しく知らない私でも、口縄坂といったらオダサク、と思ってしまうほど印象的な作品でした。

by dazaiosamuh | 2015-12-03 10:52 | 太宰治 | Comments(0)

源聖寺坂や口縄坂を緑の色で覆うていた木々であったり、…』(木の都

 オダサクにとって、『私の幼時の記憶は不思議に木と結びついている』こと以外にも、小さい頃から駆け上がった源聖寺坂や口縄坂がなつかしい思い出となっている。
 天王寺七坂と呼ばれる坂の一つである源聖寺坂(げんしょうじざか)は、オダサクにとって口縄坂の次に愛着のある坂だったのではないだろうか。
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節分の日、もうその歳ではいくらか気がさす桃割れに結って、源聖寺坂の上を、初枝が近所の桶屋の職人の新太郎というのと、肩を並べて歩いている姿が、他吉は見つけた。』(わが町
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 源聖寺坂は、ゆるやかなカーブを描く段差の低い階段の坂であった。お年寄りなどにはやさしい造りですが、正直、私は昔からこの段差の低いタイプの階段は苦手であった。階段を上がる際、歩幅、歩数が上手く合わなくて歩きにくいのだ。(走るとなぜか丁度良い)
 坂の頂上から見下ろすと、高い場所ではないためビルばかりで遠くは望めない。しかし、オダサクがいた当時などは、今よりは見晴らしがよく、黄昏時には夕陽に照らされながら街を眺めることができたのではないでしょうか。
 現代は高層ビルなどが建ち並び、その技術は大いに素晴らしいことであるが、便利さやその土地を有効活用するために高さを上げ、それと引き換えに、風景、景観が失われた場所も少なからずあることは事実で、実にさみしいことでもある。

 次回は、オダサクが最もなつかしく愛着を持っていた口縄坂(くちなわざか)を書きます。



by dazaiosamuh | 2015-11-29 19:34 | 太宰治 | Comments(0)

 大阪最古と言われる神社・生国魂神社は、大阪人から通称・生玉(いくたま)さんと呼ばれている。オダサクはこのすぐ近くの生玉前町に生れた。家業は「魚鶴」という鮮魚店兼仕出屋だった。オダサクにとって最も身近にあった神社であったと言える。
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それは、生国魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、中寺町のお寺の境内の蟬の色を隠した松の老木であったり、源聖寺坂や口縄坂を緑の色で覆うていた木々であったり、…私はけっして木のない都で育ったわけではなかった。大阪はすくなくとも私にとっては木のない都ではなかったのである。』(木の都

 神社境内の神社裏には、『巳さんの御神木』と言われる木があるのですが、写真を撮るのを忘れていました。書いてある通り、オダサクは幼少時から木を見て、触れて、そうして木の温もりを感じて育ったのだ。『木の都』とするくらいだから、オダサクの思い出に、いかに木が身近で印象的だったかが分かる。
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 もっと狭いのかと思っていましたがとても広い神社でした。暑い季節にはここで夏祭りなどもあるみたいで、参道には沢山の露店が並ぶらしい。大阪の夏祭りは楽しそうですね。一度来てみたいです。
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 こちらがオダサクの銅像です。見て分かると思いますが、等身大ではありません。てっきり私は等身大だとばかり思っていましたので、ちょっと残念でした。青森の芦野公園にある太宰治の像は立派な渋い表情でなかなか良かったので、このオダサクの像も、もう少し大きさや色合いを気障にできないものかと思ってしまいました。どうやらオダサク倶楽部が平成25年10月26日に建てたようです。まだ作られて2年程しか経っていないため、大阪の人でも見たことのない人は沢山いると思いますので、この大阪最古と言われる生国魂神社にあるオダサクの像を一度見てみるのもいいかもしれません。

 ただ、せっかくなら等身大で像を造っていれば満点だったと思います。オダサク本人はカッコいいですが、像はかわいいです(かわいいと言ったら失礼だったかな)

by dazaiosamuh | 2015-11-24 21:57 | 太宰治 | Comments(0)

 オダサクが27歳の時に書いた出世作『夫婦善哉』(昭和15年)で、柳吉と蝶子が所帯を持ったのが、黒門市場だ。亭主を立派にしてあげたい蝶子とだらしのない柳吉の物語。

日本橋の古着屋で半年余り辛抱が続いた。冬の朝、黒門市場への買出しに廻り道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、連れ戻した。そして所望されるままに曾根崎新地のお茶屋へおちょぼ(芸者の下地ッ子)にやった。』(夫婦善哉)
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 写真が黒門市場になります。関西ではフグを「テッポウ(鉄砲)」、「テツ」と呼ぶらしい。理由は、「フグを食べて当たれば死ぬ」から。黒門市場は現在、生鮮食品を中心に約150店舗が集まり多くの客で賑わっており、外国人も多く見受けられた。一日ではゆっくりまわりきれない。雑貨店などもあるため、ここでほほ全ての買い物が済むと思います。
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 この黒門市場で柳吉と蝶子は部屋を借りて暮し始めるも生活はたちまち窮してしまう。
二、三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのない世帯を張った。階下は弁当や寿司につかう折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月7円の前払いで借りたのだ。たちまち、暮らしに困った。
 柳吉に働きがないから、自然蝶子が稼ぐ順序で、さて二度の勤めに出る気もないとすれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者と相場が決まっていた。
』(夫婦善哉)

 だらしない亭主の為に働く蝶子。こういった夫婦の形、姿は太宰の作品にも登場するので、少し同じ匂いがして(オダサクファンの方、失礼があったらすみません)私は好きです。
 時間が無かったためゆっくり市場を見てまわることができなかったので、次回来たときはのんびり見物してみたいと思います。

by dazaiosamuh | 2015-11-19 11:40 | 太宰治 | Comments(2)

行き暮れて ここが思案の 善哉かな』(作之助
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 オダサクがよく歩いた法善寺横丁に、オダサクの文学碑があるのをご存じだろうか。
 上の写真から法善寺横丁に入って数メートル歩いたところに、『行き暮れて ここが思案の 善哉かな』と書かれた碑がある。正弁丹吾亭店先にあるのですが、さりげなく建てられてあるので、昼間でもよく見ながら歩かないと見落とします。
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 写真は見づらいので、一応、文学碑の説明を載せます。
小説家織田作之助は、大正二年十月、生国魂神社の近くで生れた。彼は郷土大阪をこよなく愛し、終生大阪を離れず、出世作「夫婦善哉」をはじめ、大阪の市井人情を描いた名作を多く残したが、昭和二十二年一月、讀賣新聞に「土曜夫人」を連載中、胸患のため惜しくも三十四歳の若さで世を去った、その命日が十日戎の日に当るのも彼らしいと言うべきか』(昭和三十八年秋友人藤澤桓夫識
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 写真は夜の法善寺横丁です。やはり夜のほうがムードがありしっくりきますね。
弁天座、朝日座、角座……。そしてもう少し行くと、中座、浪花座と東より順に五座の、当時はゆっくりと仰ぎ見てたのしんだ程看板が見られた訳だったが、浜子は角座の隣の果物屋の角を急に千日前の方へ折れて、眼鏡屋の鏡の前で、浴衣の襟を直しました。浜子は蛇ノ目傘の模様のついた浴衣を、裾短く着ていました。そのためか、私は今でも蛇ノ目傘を見ると、この継母を想い出して、なつかしくなる。それともうひとつ想い出すのは、浜子が法善寺の小路の前を通る時、ちょっと覗きこんで、お父つぁんの出たはるのはあの寄席やと花月の方を指しながら、私たちに言って、急にペロリと舌を出したあの仕草です。』(アド・バルーン

『アド・バルーン』は戦後に発表された作品だが、昭和20年3月の大空襲で大阪が焼かれた後の戦時下に書かれた。町の名、売り物などが多く出て来るが、戦争でいつどうなるか分からないからこそ、自分の好きな大阪を書き残しておこうというオダサクの大阪に対する大阪愛がちらと垣間見える。
 戦時、戦後などは太宰や当時の作家たちにしてもそうですが、取り巻く環境やその時の自身の心情が大きく振り子のように揺れ動き、それが作品に躊躇に反映してしまうものだと思います。「どういう思いで戦争中にこの作品を書いたのだろうか」と、考えてしまいますね。

by dazaiosamuh | 2015-11-13 09:38 | 太宰治 | Comments(2)

法善寺境内の「めおとぜんざい」へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提燈がぶら下がっているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。』(夫婦善哉
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 オダサクの書いた作品『夫婦善哉』のお店は作中にあるように法善寺境内にある。残念ながら阿多福(おたふく)人形はなく、富山の百河豚(いっぷく)美術館に保存されているらしい。オダサクファンならば一見の価値はあると思います。
 作中では赤い提燈に平仮名で「めおとぜんざい」と書いてあったみたいだが、現在は漢字で「夫婦善哉」と書かれている。私は甘いものに目が無いのですが、どうにも入口に大きく書かれた「夫婦善哉」の文字が、男一人である私を入り難くしている。これだから小心者は困る。法善寺の周りを少しうろうろして、折角来たのだからと、意を決して入ると、2人組の若い女性が談話を楽しみながらくつろいでおり、それを見て1人ほっとして空席に座り定番の夫婦善哉を注文しました。

おまけに、ぜんざいを註文すると、女夫の意味で一人に二杯ずつ持って来た。』(夫婦善哉
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 美味しそうですね。見ているだけでよだれが出てきます。2つのお椀に白玉が1つずつ入っています。

こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか太夫ちゅう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山はいっているように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方が良えいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。蝶子はめっきり肥えて、そこの座蒲団が尻にかくれるくらいであった。』(夫婦善哉

 確かに2杯あると沢山はいっているような贅沢な気分になります。肝心の味はというと、甘すぎず老若男女関係なく食べられる上品な甘さです。後から年配のご夫婦が来て仲良さそうに一緒に善哉を食べる姿に少ししみじみとしました。
 口直しの塩昆布も相性が良かったのですが、塩昆布を食べたら、また善哉をおかわりしたくなってしまい困りました。しかしそれを懸命に堪えてお店を出ました。

 明治16年(1883)に文楽の竹本琴太夫が出した「お福」という甘味処が始まりとのこと。店内には映画「夫婦善哉」に関係したポスターなどの展示や有名人のサイン色紙なども飾ってありました。興味のある方は是非訪れてみてはいかがでしょうか。


by dazaiosamuh | 2015-11-06 12:24 | 太宰治 | Comments(2)