三ツ峠を登った、翌々日の9月18日の日曜日の午後、斎藤夫人が井伏鱒二と太宰を甲府市水門町29番地の石原家に案内した。石原美知子とお見合いをするためである。
 この天下茶屋に来る前、太宰はパビナール中毒で入院していたり、入院中に小山初代が男と過ちを犯していたことからのショックなどもあり、精神が不安定であった。心配した周囲は、師である井伏鱒二に太宰のための嫁探しを懇願したのである。
 この時の太宰の服装は、黒っぽいひとえに夏羽織をはおり、白メリンスの長襦袢の袖。井伏は登山服で石原美知子はデシンのワンピースであった。美知子夫人は「回想の太宰治」で『服装の点でまことにちぐはぐな会合であった。』と書いている。
 他人の家で自分で交渉するなど太宰にはできなかったようで、主に井伏と美知子の母によって話が交わされていたようであった。
 太宰はこの時の様子を「富嶽百景」で結婚の決意とともに書いている。

『私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、「おや、富士」と呟いて、私の背後の長押を見あげた。私も、からだを捻じ曲げて、うしろの長押を見あげた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮の花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。』

 井伏夫妻は翌朝に帰京し、太宰はまた御坂の天下茶屋の2階に籠り、少しずつ執筆を進めた。
私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見ていた。富士は、のっそり黙って立っていた。偉いなあと、と思った。
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。』
c0316988_19372387.jpg

 太宰は約3ヶ月の間、ここで嫌でも富士と対峙しながら執筆を進めたのだ。
 この2階の太宰が執筆に使っていた部屋から、私も富士を見たかったのだが、いくら待っても、やはり、曇り空で富士が見えることはありませんでした。
 井伏の帰京後、寂しがり屋の太宰は、ずっとこの部屋に籠っていたわけではなく、郵便物の投函や受取を口実に、茶店の前からバスで河口湖や吉田の町へ行ったり、反対のトンネルをくぐって甲府市街へおりたことも度々あったようです。
 下の写真は茶店のすぐ横にあるトンネルで、文字は見えにくいですが、「天下第一」と彫り込まれている。
c0316988_19370039.jpg

 2階の部屋は、小さな記念館にもなっていて初版本や当時の写真なども展示されている。
c0316988_19373426.jpg
 現在、1階は当時のように食事もとることもでき、少しではあるがお土産も売っている。太宰はここに逗留している時、「ほうとう鍋」をよく食べたらしい。「天下茶屋」のホームページでは、この時のちょっとしたエピソードを載せているので引用させてもらった。

『滞在中の太宰治に、ほうとうを出したところ、「僕のことを言っているのか」と不機嫌になったとの事、先代が「ほうとうは甲州の郷土料理である」と説明したところ、太宰治は安堵して喜んで食し、好物になったようです。その様子から先代は生前、太宰治は自身が「放蕩(ほうとう)息子」と勘違いしていたようだと当時を語っておりました。』

 なるほど、生家の体面を汚してきた太宰にとって、「ほうとう(放蕩)」という言葉は心に刺さるものがあるのも無理はないですね。太宰が食べた「ほうとう鍋」を私も食してみました。
 
c0316988_19371160.jpg
 写真を見て分かる通り、撮る前に少し食べてしまいました。本当なら具が上に綺麗にのせられていたのですが、混ぜてしまいました。これだから聖地巡り初心者は困るのである。本当に阿保である。
 ちなみに、「ほうとう」とは何かというと、甲州地方の郷土料理として知られ、小麦粉を練った平打太麺を南瓜やジャガイモ、人参などの野菜と煮込み、味噌で味付けをした食べ物で、特に、スープに甘味ととろみを加える南瓜は欠かせないのだ。一般的には温かい鍋料理を「ほうとう」、つけ麺を「おざら」とよび分けるそうです。10月の肌寒い時期に来た私には、この「ほうとう鍋」は芯から温まる郷土料理でした。

 太宰の結婚の話は順調に進み、昭和13年11月6日、午後4時頃に石原家で、井伏鱒二、斎藤夫人、石原美知子の叔母2人を招き、ささやかな婚約披露の宴が催された。美知子夫人は「回想の太宰治」に『結納は太宰から二十円受けて半金返した。太宰はこれが結納の慣例ということを知らず、十円返してもらえることを知って大変喜んだ。』と書いている。太宰がいかに人任せで生きてきたかがよくわかる一文である。

 それから10日後の11月16日、御坂峠を降りて、石原家が見つけてくれた、石原家と斎藤家との中間辺りにある寿館に下宿した。
 ちなみに滞在時執筆していた「火の鳥」は103枚で未完のまま終わっている。


 私の遠出での太宰治の聖地巡りは、これが初であったが残念ながら富士山を見ることができなかった。美知子夫人は「回想の太宰治」に『盆地からバスで登ってきてトンネルを抜けると、いきなり富士の全容と、その裾に拡がる河口湖とが視野にとびこんで、「天下の絶景」に感嘆することになる。』と書かれている。

 私も太宰や美知子夫人のように「天下の絶景」に感嘆の声をあげたいものだ。今回は太宰についてたいして詳しく知りもしないで来たが、次に来た時は、少しでも人間太宰治について理解してから再び来ようと思った。
 私はこの御坂峠の天下茶屋を後にし、河口湖駅から電車に揺られて帰路についた。夕暮れ時であった。車窓から例のアトラクションが見えた。やっぱりちょっと遊びたい気持ちがちらと動いたが、ぐっと懸命にこらえ、目を閉じ、東京駅まで一眠りすることにした。

by dazaiosamuh | 2014-01-25 14:39 | 太宰治 | Comments(0)

 天下茶屋は、外川政雄によって昭和9年12月、旧御坂道のトンネル脇に建てられた。標高は1297m、富士と河口湖を一望できる。この「天下茶屋」という名は、徳富蘇峰が新聞に紹介したことがきっかけで、定着したものと言われている。
 太宰はこの天下茶屋に、1938年(昭和13年)の9月13日に訪れている。

昭和13年の初秋、思いあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た
c0316988_20352598.jpg
 実は先に、師である井伏鱒二が7月30日頃からここに滞在していて、それを知って太宰はここへ来たのだ。2階の端にある部屋で、荒い棒縞の宿のどてらに角帯を締めて机に向かい、主に「火の鳥」を書き進めた。ここでは今も、井伏鱒二や太宰治が使った机や火鉢があり、じかに触れることもできる。他にも数は少ないが資料なども展示されている。
c0316988_20342375.jpg
 この3日後の9月16日に、井伏の仕事も一段落し、三ツ峠に登ることになった。
「富嶽百景」にも書いているのだが、嘘か本当か、自分の師である井伏鱒二が放屁したことを書いている。

井伏氏は、ちゃんと登山服着て居られて、軽快の姿であったが、私には登山服の持ち合わせがなく、ドテラ姿であった。茶屋のドテラは短く、私の毛臑は、1尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶店の壁にかかっていた古い麦藁帽をかぶってみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石に少し、気の毒そうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないほうがいい、と小声で呟いて私をいたわってくれたのを、私は忘れない。とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断崖の縁に立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった

 自分の師を使い、「放屁なされた」と書いた太宰は流石である。井伏はこれに反論するが、長部日出雄著「富士には月見草」によると、太宰は「いえ、たしかになさいました」といい、さらに、「一つだけでなく、二つなさいました」と言い張ったそうである。
「放屁さないました」なんて、ユーモアがあり読み手には面白いが、むきになって抗議するところを見ると、流石の井伏も恥ずかしかったのだろうか。


 ・井伏鱒二 1898年 広島県出身 早大中退 「鯉」「山椒魚」でデビュー

by dazaiosamuh | 2014-01-18 22:16 | 太宰治 | Comments(0)