山小屋で寝るも3時間後には目が覚めてしまった。これ以上眠れそうにないので身支度を整えて、先に起きている同僚と談話しながら、再び登るその時を待つが、なんと、7人のうち私ともう一人のその同僚の二人のみで、残り5人は体調不良によりダウンとなってしまった。そんな心細いまま夜中1時に頂上目指して登山がスタート。
 夜中は寒いためパーカーやレインウェア、ダウンジャケットを着込むが、風が強く手袋(私は軍手)をしても手が冷たくなる。顔も寒いためダウンジャケットのフードを被るが、動きにくい。明かりはヘッドライトが頼りだが、どうにも締め付けられるのが嫌なのと、煩わしかったので外す。すると頭が軽くなりむしろ歩きやすくなった。列を成す登山客のヘッドライトの明かりが沢山あるため、別段、自分がヘッドライトを付けなくても足元はそれほど暗くなく一度も躓くことも無かった。
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 写真は1時半頃。手が冷たくて上手く動かせなかったのもあり、ぼやけてしまいました。上の明かりは町中で、下の波打っている明かりは我々登山客のヘッドライトです。
 同僚二人と雑談しながら登るが、やはり前日の疲れもあり徐々に口数も減ってくる。同僚がふいに、「オレは、何でこんなことをしているのだろう…」とぼそりと言い出す。そんなこと言わないでくれ、心が折れそうになる。しかし、自分も内心、「山小屋に残った5人は今頃ぐっすりと寝ているのだろうな、いいなあ、俺もリタイアして寝てりゃあ良かった…」と何度も心の内で弱音を吐いてしまった。しかし、ふと心に『富嶽百景』の一節が思い出された。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には月見草がよく似合う。
 月見草は富士山を前に堂々と『立派に相対峙し、みじんもゆるがず』立っていたのだ。太宰の描いた月見草は素晴らしい。自分と富士山と比べればちっぽけで、富士山から見向きもされないだろう、月見草のように立派に相対峙するほどの人間でもない、ならばせめて、この足で頂上まで登ってやる、そんな気持ちが密かに胸中で心の火が燃え上がってくるのが実感され、岩場を登る際のふんばりに力が入った。それからは頂上までの時間があっというまで、たしかに過酷であったが、出発から約3時間後の4時頃に頂上に到達した。
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 頂上から撮った4時50分頃の写真。
 頂上はやはり寒かった。寒さに耐えきれず同僚と二人で豚汁(800円)を食べたが、こんなに豚汁が美味く有難いと思った事は無い。しかし、そんな中、頂上で半袖にハーフパンツの外国人がいた。信じられない。いくら登ってきて身体が熱くなったからといっても、この時の頂上は気温4~6度くらいで、強風もあり、御鉢巡りは中止になったくらいだ。(御鉢巡りが中止となったのは本当に残念であった。)
 御来光の出るまで神社で手を合わせたり、同僚は御朱印をしてもらったりなどしてその時を待った。
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 写真、中央の湖は河口湖で、その先の方角には太宰治が滞在し嫌というほど富士山と向き合った場所である御坂峠の天下茶屋がある。ここからははっきりとは見えない。それでも、太宰が富士を眺めた御坂峠を、富士山頂上から眺め見るのは、なんだか感慨深いものがある。まわりの人たちは皆、御来光が顔を出す方角に向かって一生懸命にカメラを構えたり、場所取りをしている。
 私と同僚もそれにならってそちらの方角を眺めていると、次第にその姿を焦らすかのようにゆっくりと見せ始めた。
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 頭を出すところがなんとも可愛らしい。
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 初めての富士山頂上からの御来光です。ありがたい!!なんともありがたい!! 登って良かった!! と素直に思える。苦難を乗り越えたからこその喜びである。
 この時の富士山の印象、想いは太宰の言葉を借りれば、
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。

 本当に富士にはかなわないと思った。この日を決して忘れない。
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 写真は火口で、御鉢巡りができないのでせめて近づいて写真を撮ろうと思ったが、ロープでそれ以上近づけないようになっていたため、火口を覗くことができなかった。しかし御鉢巡りができなかったことは残念であったが、今回はこれで良かったのかもしれない。いつかまた来る日のお楽しみだ。
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 御来光をたっぷりとこの目に焼き付け、パワーをもらい、5時15分過ぎくらいに下山。下山は自分のペースで進んでよいとのことで、山小屋の5人もすでに下山していると思い、私と同僚は二人で山小屋を出た5人に追いつく気持でハイペースで下りた。頂上までの行きで体力を相当消耗し疲労困憊であったように思われたが、御来光の力なのか、それほど疲れることなく下りる事ができ、五合目のスタートした施設に到着する前に5人に追いつくことができた。登りは5合目から頂上まで8時間半ほどであったが、下山は頂上から5合目まで2時間半であった。登りのスタート直後、ガイドが、「下りて来る人の顔はみな笑顔がない」と言っていたが、思ったほど疲れはなく、体調を悪くした5人もしっかり回復し、7人全員笑顔で帰って来ることができた。

 今回、まさか太宰治の名作の主役ともいえる富士山を登ることができ、また頂上まで到達し御来光を拝むことが出来て、感慨無量であった。
 今思えば、私がはじめて歩いた太宰治のゆかりの地は、御坂峠の天下茶屋であった。残念ながら富士は顔を出してくれなかったが、初めての聖地巡りだったためとても印象に残っている。すでにあれから6年が経つ。早いものだ。
 昭和13年9月、太宰治は師である井伏鱒二の勧めにより、それまでの怠惰な生活にピリオドを打ち、再起をかけて「思ひをあらたにする覚悟」で御坂峠の天下茶屋へとやってきた。嫌というほど富士と対峙し、また翌年には甲府で石原美知子と見合い、結婚し、その「思ひをあらたにする覚悟」に偽りはなく、その後の作品は、さんざん述べたように『富嶽百景』や『女生徒』『駆込み訴え』『走れメロス』などの明るく、健やかな作風を思わせる作品を次々と世に出していく。
 これには富士の助力があったことであろう。太宰治と富士は切っても切り離すことはできない。

 私もせっかく富士山から、そしてその頂上から見た御来光から力をもらったのだから、「思ひをあらたにする覚悟」で色々なことに挑戦し、懸命に生きていきたいと思う。
 

by dazaiosamuh | 2018-09-07 23:46 | 太宰治 | Comments(6)

 先月の8月30日に富士山を登りに行った。今まで富士山はおろか登山自体ほとんど経験がなく、記憶にあるのは小学生のころに故郷の岩手山を学校の行事でいやいやながら登ったことぐらいである。太宰治の名作『富嶽百景』で『富士には、月見草がよく似合う』という名言が登場し、太宰文学作品のなかでもこの作品は非常に評価が高く、太宰を代表する作品の一つだ。そんな名作の主役と言える富士山を、いつかは私も登ってみたいと密かに思っていたところ、偶然、会社の同僚から富士登山に誘われ、その機会を得たのでした。

富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西及南北に断面図を作ってみると、東西横断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士をさえ描いている。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとえば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらわれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、それだけ訴え得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがっている割に、低い。あれくらいの裾を持っている山ならば、少なくとも、もう一・五倍、高くなければいけない。
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『富嶽百景』の冒頭は、富士の頂角におけるそれぞれの数字を列記し、それを実際の数字を提示して広重や文晁、北斎の鋭角な富士に対して『鈍角も鈍角』と言い、富士の裾の拡がり具合をみて『少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない』と指摘している。また、富士山を一切知らぬ者が富士山を目にしたときに、その純な心に、どれだけ訴え得るかということに対して、『多少、心細い山である』と批評している。さらにその後、東京のアパートから見た時の富士のことを『クリスマスの飾り菓子』と言ったり、御坂峠の天下茶屋から見た富士を、初めは『軽蔑さえ』し、『ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめ』、『これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった』とまで言い切っている。

 最終的には主人公にとって、『よくやってる富士』『偉い富士』『ありがたい富士』となんとも頼もしい存在となる富士ですが、さて、富士山を鑑賞するだけでなく、実際に登って見るとどんなものなのか、富士は高い! 頼もしい! ありがい! と思えるのか、もしくは、なんだ、大したことないじゃないか、ご来光? それがどうした、となるのか。今回、富士登山ははじめてということで主観的な視点ばかりになるが、太宰が残した名作の舞台である富士山登頂の紀行文を書いていきます。
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 会社の同僚7人(8人の予定だったが、腰痛により一人はリタイア)でツアーバスに揺られて東京から五合目まで行き、身体を気候に慣らすのも兼ねながら出発前の1時間は、身支度、お昼休憩となり、ガイドを先頭に登山がスタート。7人のうち6人は、装備はほとんどフルレンタルで、リュック、トレッキングポール、トレッキングブーツ、レインウェア上下、ヘッドライトを借りる。

 最初は、それぞれ雑談したり五合目からの景色を眺めながら悠々と歩きはじめる。歩いているとガイドの男性が「下山してくる登山者の人たちの顔をよく見てください。どうですか? みな笑顔がないでしょう。それだけ体力を消耗し、疲れて帰って来るのです。」
 なんて恐ろしいことを言うのだ。ビビらせるつもりなのか。次の日は自分たちもこのルートを下山してくるのだ。果たして笑顔で戻ってくることはできるのか。下手したら体調を悪くし、山頂に到達できずに下山するはめになるかもしれない、そんなことを考えながら景色を眺めつつどんどん進んでいきます。ゆっくり歩きますので、とガイドは言っていたが、慣れないズシリと肩に響く思い登山リュックを背負っていることもあってか思っていた以上にペースが早く感じる。
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 たしか出発したのは昼12時を少し過ぎたくらいであった。出発から約1時間半後の写真。数十分おきに休憩を入れ、水分補給や持参したナッツやチョコなどを口に放り込み、適度に栄養を補給。ここまではメンバー7人(男性6人、女性1人)距離も離れることなく足取りは軽い。しかし…。
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 出発から約2時間半後。メンバ―の歩く距離間が徐々に拡がって来る。7人のうち1人だけ遅れだす。本人は大丈夫だとは言っているが、明らかに荷物が多いのだ。たいていリュックを一つだけ背負って登るものだと思うが、彼はリュックにビニール製の袋が結わえ付けてあり(しかもそれもなかなかな重量)、さらにショルダーバックまで持ってきている。リュックに入っている水の量はなんと5リットル! 持ち過ぎだ。私の2倍じゃないか。体力の消耗は他の人より多いはずだ。
 そしてさらに、もう一人の息が荒くなってきてペースダウンが始まる。股関節の痛みに耐えながらとなる。彼は服装が良くなかった。サバイバルゲームで使っている安価な上下迷彩柄の通気性の悪い服装で、しかも速乾性も皆無。挙句の果てにズボンを2枚重ねで穿いている。いくら何でも富士山を舐め過ぎだ。
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 出発から約3時間半後の景色。雲より高い場所にいるというのは実に気持ちの良いものだ。空が近い。思わず青空に向かって手を伸ばしたくなる。休憩時間、たとえ数分の時間でも景色を眺めていると疲れが取れる。もっと雄大な景色がみたい!! 頂上から見たい眺めたい!! これが登る原動力にもなる。それにしても、自分たちは一体地上から何メートルの高さにいるのか、何合目のどのあたりなのか、何も考え無しに雑談ばかり喋って登って来たので、写真が地上から何メートルなのか記事を書いている私自身よくわからない。ほかの山は分からないが、ゴツゴツした岩を登らなくてはいけない箇所もなんどもあり、足腰への負担が思っていた以上で、平気で登る年配者や子供が信じられなかった。足をぶつけた時、トレッキングブーツを借りて良かったと思いながら登っていると、普段靴で登る人たちもかなり多く見受けられ、挙句の果てにジーパンで登っている人までいた。普段靴は外国人に多く、やはり海外からすれば、富士山は低く見られ、舐められているのだろうなと、疲れている自分にとっては、なんだか悔しいやら悲しいやら変な感情が込み上げてきた。
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 出発から約4時間半後。途中、同じツアーで一緒に登ってきた、金髪の外国人男性と日本人女性のカップルが残念ながらリタイアする。このカップルは登山中、暇さえあればキスばかりしていた。私たち7人のすぐ目の前を歩いていたためどうにも不愉快でしょうがなかった。女性の方が体調を悪くしたようであったが、愛の力だけでは登れないのが富士山であることを証明し、また実感した。それにしても、空の風景写真ばかり撮って、山を登っている写真や崖の写真などは取り忘れてしまった。似たような写真ばかりで読者には申し訳ない。
 太宰治は『富嶽百景』で富士山のことを『鈍角も鈍角』『裾の拡がっている割に低い』と言っていたが、たしかに海外の山などに比べたら富士山は低く、鈍角かもしれない、しかし、いざ登って見ると過酷。私が登山自体はじめてだからというのもあるかもしれないが、登って見ると、低いなどとばかにできない。『なんのことはない、クリスマスの飾り菓子だ』などとは口が裂けても言えない。このころにはメンバーも口数が減ってきており、メンバーの還暦を過ぎた女性は途中で若干の吐気に襲われ、さきほどキスカップルを一緒に不快に思っていた別の同僚男性も高山病なのか軽度の頭痛を発症している。この同僚男性は、前日、仕事で夜遅くまで働き、睡眠をほとんど取らないできた。寝不足での富士登山は危険極まりない。翌日、山頂まで行けるのか心配であった。それにしても、別のツアーグループは、ガイドがここは何合目です、このような姿勢で休憩ですると体に負担がありません、ここからはこのような服装がおススメです、などと一生懸命に説明しているが、私たちのツアーグループのガイドは、何ら説明もアドバイスも無かった。ほぼ無言で登っていた。こういうのもガイドの人柄などによるのだろう。それとも安いツアーで申し込んだからなのか……。そんなわけないか。
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 出発から約5時間半後の17時半前に8合目あたりの宿泊予定の山小屋・白雲荘にメンバー全員が一応無事に到着。ガイドは今日の風は温かいと言っていたが、結構寒い。寒さのあまり宿泊した山小屋の写真を撮るのを忘れました。山小屋からの景色も疲れて撮り忘れ、しかも山小屋のスタッフから早く山小屋に入り夕飯を食べるように催促され、慌ただしく出されたカレーライスを食べました。明日の朝用のいなり寿司と缶のお茶を渡され、一緒に登ってきたガイドのおじさんが「明日は、0時半起床で、午前1時に出発しますので。それでは明日。」と言い早々に姿を消しました。何ともあっさりしています。横では別のツアーガイドが、「明日、いよいよ山頂へ行きますが、非常に寒いです。私はニット帽にネックウォーマー、それから下着にヒートテック…、山頂には豚汁などの販売もあり…、御朱印をする方は…』等々云々と、自分の率いる登山客に熱心に色々とアドバイスをしていました。

 夕飯を食べ終え荷物を置いた寝床へ向かうも、疲れて着替える気も歯を磨く気も起らず、時計を見るとすでに18時半を過ぎており、6時間後には起きなければいけず、メンバー7人、さっさと耳栓とアイマスクをして蒲団に入りましたが、あまりの狭さとカビ臭さには甚だ閉口しました。ここも写真を撮り忘れましたが、寝床は2段になっており、横の間隔が非常に狭く、しかも蒲団は二人に一つであった。私の横は知らないおじさんで、いびきもうるさく、耳栓をしても効果は薄かったが、疲れているのもあり、いつのまにか眠りに入ってました。

 5合目からこの山小屋まで約5時間半近くかかった。これほど疲れるとは思っていなかった。しかし、水を2,5リットル持って行ったが、トイレに行きたくなるのを恐れて1リットルしか飲まなかった。少なすぎたかもしれない。もう少ししっかり飲んでいれば、疲れも違かったように思う。

 本当はメンバー7人全員で山頂での御来光を見たかったが、すでに2人が翌日の山頂行きは断念している。
 翌日は暗闇での登山となる。ヘッドライトの頼りない灯で登らなければならない。寒さも酷いだろう、気を引き締めて挑まなくてはならない。果たして、無事に御来光を拝むことができるのか。

 次回に続きます。


by dazaiosamuh | 2018-09-01 22:54 | 太宰治 | Comments(0)

 三ツ峠を登った、翌々日の9月18日の日曜日の午後、斎藤夫人が井伏鱒二と太宰を甲府市水門町29番地の石原家に案内した。石原美知子とお見合いをするためである。
 この天下茶屋に来る前、太宰はパビナール中毒で入院していたり、入院中に小山初代が男と過ちを犯していたことからのショックなどもあり、精神が不安定であった。心配した周囲は、師である井伏鱒二に太宰のための嫁探しを懇願したのである。
 この時の太宰の服装は、黒っぽいひとえに夏羽織をはおり、白メリンスの長襦袢の袖。井伏は登山服で石原美知子はデシンのワンピースであった。美知子夫人は「回想の太宰治」で『服装の点でまことにちぐはぐな会合であった。』と書いている。
 他人の家で自分で交渉するなど太宰にはできなかったようで、主に井伏と美知子の母によって話が交わされていたようであった。
 太宰はこの時の様子を「富嶽百景」で結婚の決意とともに書いている。

『私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、「おや、富士」と呟いて、私の背後の長押を見あげた。私も、からだを捻じ曲げて、うしろの長押を見あげた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮の花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。』

 井伏夫妻は翌朝に帰京し、太宰はまた御坂の天下茶屋の2階に籠り、少しずつ執筆を進めた。
私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見ていた。富士は、のっそり黙って立っていた。偉いなあと、と思った。
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。』
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 太宰は約3ヶ月の間、ここで嫌でも富士と対峙しながら執筆を進めたのだ。
 この2階の太宰が執筆に使っていた部屋から、私も富士を見たかったのだが、いくら待っても、やはり、曇り空で富士が見えることはありませんでした。
 井伏の帰京後、寂しがり屋の太宰は、ずっとこの部屋に籠っていたわけではなく、郵便物の投函や受取を口実に、茶店の前からバスで河口湖や吉田の町へ行ったり、反対のトンネルをくぐって甲府市街へおりたことも度々あったようです。
 下の写真は茶店のすぐ横にあるトンネルで、文字は見えにくいですが、「天下第一」と彫り込まれている。
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 2階の部屋は、小さな記念館にもなっていて初版本や当時の写真なども展示されている。
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 現在、1階は当時のように食事もとることもでき、少しではあるがお土産も売っている。太宰はここに逗留している時、「ほうとう鍋」をよく食べたらしい。「天下茶屋」のホームページでは、この時のちょっとしたエピソードを載せているので引用させてもらった。

『滞在中の太宰治に、ほうとうを出したところ、「僕のことを言っているのか」と不機嫌になったとの事、先代が「ほうとうは甲州の郷土料理である」と説明したところ、太宰治は安堵して喜んで食し、好物になったようです。その様子から先代は生前、太宰治は自身が「放蕩(ほうとう)息子」と勘違いしていたようだと当時を語っておりました。』

 なるほど、生家の体面を汚してきた太宰にとって、「ほうとう(放蕩)」という言葉は心に刺さるものがあるのも無理はないですね。太宰が食べた「ほうとう鍋」を私も食してみました。
 
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 写真を見て分かる通り、撮る前に少し食べてしまいました。本当なら具が上に綺麗にのせられていたのですが、混ぜてしまいました。これだから聖地巡り初心者は困るのである。本当に阿保である。
 ちなみに、「ほうとう」とは何かというと、甲州地方の郷土料理として知られ、小麦粉を練った平打太麺を南瓜やジャガイモ、人参などの野菜と煮込み、味噌で味付けをした食べ物で、特に、スープに甘味ととろみを加える南瓜は欠かせないのだ。一般的には温かい鍋料理を「ほうとう」、つけ麺を「おざら」とよび分けるそうです。10月の肌寒い時期に来た私には、この「ほうとう鍋」は芯から温まる郷土料理でした。

 太宰の結婚の話は順調に進み、昭和13年11月6日、午後4時頃に石原家で、井伏鱒二、斎藤夫人、石原美知子の叔母2人を招き、ささやかな婚約披露の宴が催された。美知子夫人は「回想の太宰治」に『結納は太宰から二十円受けて半金返した。太宰はこれが結納の慣例ということを知らず、十円返してもらえることを知って大変喜んだ。』と書いている。太宰がいかに人任せで生きてきたかがよくわかる一文である。

 それから10日後の11月16日、御坂峠を降りて、石原家が見つけてくれた、石原家と斎藤家との中間辺りにある寿館に下宿した。
 ちなみに滞在時執筆していた「火の鳥」は103枚で未完のまま終わっている。


 私の遠出での太宰治の聖地巡りは、これが初であったが残念ながら富士山を見ることができなかった。美知子夫人は「回想の太宰治」に『盆地からバスで登ってきてトンネルを抜けると、いきなり富士の全容と、その裾に拡がる河口湖とが視野にとびこんで、「天下の絶景」に感嘆することになる。』と書かれている。

 私も太宰や美知子夫人のように「天下の絶景」に感嘆の声をあげたいものだ。今回は太宰についてたいして詳しく知りもしないで来たが、次に来た時は、少しでも人間太宰治について理解してから再び来ようと思った。
 私はこの御坂峠の天下茶屋を後にし、河口湖駅から電車に揺られて帰路についた。夕暮れ時であった。車窓から例のアトラクションが見えた。やっぱりちょっと遊びたい気持ちがちらと動いたが、ぐっと懸命にこらえ、目を閉じ、東京駅まで一眠りすることにした。

by dazaiosamuh | 2014-01-25 14:39 | 太宰治 | Comments(0)

 天下茶屋は、外川政雄によって昭和9年12月、旧御坂道のトンネル脇に建てられた。標高は1297m、富士と河口湖を一望できる。この「天下茶屋」という名は、徳富蘇峰が新聞に紹介したことがきっかけで、定着したものと言われている。
 太宰はこの天下茶屋に、1938年(昭和13年)の9月13日に訪れている。

昭和13年の初秋、思いあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た
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 実は先に、師である井伏鱒二が7月30日頃からここに滞在していて、それを知って太宰はここへ来たのだ。2階の端にある部屋で、荒い棒縞の宿のどてらに角帯を締めて机に向かい、主に「火の鳥」を書き進めた。ここでは今も、井伏鱒二や太宰治が使った机や火鉢があり、じかに触れることもできる。他にも数は少ないが資料なども展示されている。
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 この3日後の9月16日に、井伏の仕事も一段落し、三ツ峠に登ることになった。
「富嶽百景」にも書いているのだが、嘘か本当か、自分の師である井伏鱒二が放屁したことを書いている。

井伏氏は、ちゃんと登山服着て居られて、軽快の姿であったが、私には登山服の持ち合わせがなく、ドテラ姿であった。茶屋のドテラは短く、私の毛臑は、1尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶店の壁にかかっていた古い麦藁帽をかぶってみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石に少し、気の毒そうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないほうがいい、と小声で呟いて私をいたわってくれたのを、私は忘れない。とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断崖の縁に立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった

 自分の師を使い、「放屁なされた」と書いた太宰は流石である。井伏はこれに反論するが、長部日出雄著「富士には月見草」によると、太宰は「いえ、たしかになさいました」といい、さらに、「一つだけでなく、二つなさいました」と言い張ったそうである。
「放屁さないました」なんて、ユーモアがあり読み手には面白いが、むきになって抗議するところを見ると、流石の井伏も恥ずかしかったのだろうか。


 ・井伏鱒二 1898年 広島県出身 早大中退 「鯉」「山椒魚」でデビュー

by dazaiosamuh | 2014-01-18 22:16 | 太宰治 | Comments(0)