遠い空の向こうへ

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太宰についてほそぼそと記事を書いてます

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タグ:太宰治 ( 184 ) タグの人気記事

 先日、仕事帰りに地元のブックオフに立ち寄り、文学のコーナーへ行くと、『太宰治 100の言葉』という本を見つけた。タイトルの通り太宰治の名言を集めた本で、ちょうど最近は仕事で疲れていたりなどして、家と会社の往復だけのような状態であったため、改めて太宰から人生に役立つ、勇気を貰える、共感できる言葉を貰おうと思い購入しました。
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自分の苦悩に狂いすぎて、他の人もまた精一ぱいで生きているのだという当然の事実に気付なかった。』(東京八景)
 仕事や人間関係、病気など色々なことで頭がいっぱいになると、私も自分のことばかりで他人も精一杯生きているんだということになかなか気付けない。辛いのはみんな一緒なのだ。

生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。』(斜陽)

 この言葉は、私が太宰の本を2冊目に読んだ『斜陽』で書かれた言葉で、20代前半に、「人生とは何なんだろう、生きるとは何なのだろう」ともやもやしていた頃に共感した記憶がある。苦しくても、生きて生きて生き抜くというのは、本当に大事業だといまでも思っています。

愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。』(随筆「思案の敗北」)
人間の生活の苦しみは、愛の表現の困難に尽きるといってよいと思う。この表現のつたなさが、人間の不幸の源泉なのではあるまいか。』(惜別)
愛は、最高の奉仕だ。みじんも、自分の満足を思っては、いけない。』(火の鳥)

 太宰は『愛』について語る人であった。愛の苦悩者と言ってよいと思う。数年前に、青森で太宰の親戚にあたる津島廉造さんから太宰治がどういう人間であったか、話を聞かせてもらったが、『彼(太宰治)は、愛に苦悩した人だったと思います。』と語っていたのが印象的であった。
 愛に満ち溢れた人生であれば素晴らしいが、その愛によってすべてに絶望することもある。愛は、たしかに存在する。表現することが難しい。その通りだと思う。

 紹介したこの本から何個か載せましたが、この本だけでなく、自分で太宰の本を読んでいて気に入った言葉がたくさんあり、載せたい名言が山ほどあるが、長くなってしまうので、最後にもう一つだけ、『ヴィヨンの妻』から。
人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合わせな人間です。


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by dazaiosamuh | 2018-05-20 11:01 | Comments(0)
 甲府・御崎町周辺の太宰ゆかりの地を大方歩き回った私は、ちょっと距離があるが武田神社へ行くことにしました。
 それにしても武田神社にはレンタサイクル(電動)で行ったのですが、思っていた以上に距離があり、電動自転車とはいえなかなか酷で、到着した頃には太腿がぱんぱんでしかも時期が8月だったもんだから、全身汗だくで、非常に汗臭い状態で神社に入った記憶があります。
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 太宰は昭和14年6月1日付発行の『月刊文章』6月号に『春昼(しんちゅう)』という随筆を発表しており、その中で武田神社を訪れた様子が描かれている。
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 神橋を渡り鳥居の前まで行くと、鳥居のすぐ右脇に、太宰がここを訪れたことを示す看板があり、太宰のその『春昼』が全文ではないが引用されていた。せっかくなので全文載せます。以下、赤文字は『春昼(しんちゅう)』
四月十一日。
 甲府のまちはずれに仮の住居をいとなみ、早く東京へ帰住したく、つとめていても、なかなかままにならず、もう、半年ちかく経ってしまった。けさは上天気ゆえ、家内と妹を連れて、武田神社へ、桜を見に行く。母をも誘ったのであるが、母は、おなかの工合い悪く留守。武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、四月十二日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内の桜が満開なのである。四月十二日は、信玄が生れた日だとか、死んだ日だとこあ、家内も妹も仔細らしく説明して呉れるのだが、私には、それが怪しく思われる。サクラの満開の日と、生れた日と、こんなにピッタリ合うなんて、なんだか、怪しい。話がうますぎると思う。神主さんの、からくりではないかとさえ、疑いたくなるのである。

 看板には『太宰治の愛でた桜』とあり、横には桜の木がある。きっと春には綺麗な桜を咲かせて、訪れる人々を迎えてくれるのだろう。太宰の有名な頬杖ポーズの写真も載っており、訪れた人のなかには熱心に読んでいく人の姿も多く見受けられた。それにしても、太宰は実際に武田神社に来たのだろうか。
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桜は、こぼれるように咲いていた。
「散らず、散らずみ。」
「いや、散りず、散りずみ。」
「ちがいます。散りみ、散り、みず。」
 みんな笑った。
 お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていいものだ。境内は、塵一つとどめず掃き清められていた。
「展覧会の招待日みたいだ。きょう来て、いいことをしたね。」
「あたし、桜を見ていると、蛙の卵の、あのかたまりを思い出して、……」家内は、無風流である。
「それは、いけないね。くるしいだろうね。」
「ええ、とても。困ってしまうの。なるべく思い出さないようにしているのですけれど。いちど、でも、あの卵のかたまりを見ちゃったので、……離れないの。」
「僕は、食塩の山を思い出すのだが。」これも、あまり風流とは、言えない。
「蛙の卵よりは、いいのね。」妹が意見を述べる。「あたしは、真白い半紙を思い出す。だって、桜には、においがちっとも無いのだもの。」
 においが有るか無いか、立ちどまって、ちょっと静かにしていたら、においより先に、あぶの羽音が聞えて来た。
 蜜蜂の羽音かも知れない。
 四月十一日の春昼。

『春昼』にあるように、境内は本当に綺麗に掃き清められ、天気が良かったこともあり、清々しい気持であった。気持ち悪かった全身の汗も、気づいたら引いていた。神社に来ると、気持ちが落ち着くから不思議だ。
 武田神社は、言うまでもないが武田信玄公を祀った神社で、信玄公の父である信虎公が1519年(永正16年)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に、1919年(大正8年)に創建された。武田信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われ、現在も毎年信玄公祭りが開催されている。
 ところで太宰は実際に武田神社へ来たことがあるのだろうか。『春昼』に対して、『この文章では、どうも、本当に出かけた感じが伝わってこない』と書いている書籍もあった。歩いて武田神社に行くには結構な時間がかかる。そうそういつも来れるわけではないはずだが、気分転換に、一度は来た事があるのではと私は思っているが…。
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 さすがに電動のレンタサイクルとはいえ疲れたので、信玄アイスを買って食べました。きな粉と黒蜜がかかっており、甘くてとても美味しかった。アイスにきな粉と黒蜜の組み合わせは最強ですね。
 帰りは長い下り坂なので、気持ちの良い風を受けながら、来るときの苦労を吹き飛ばすかのように下って行きました。


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by dazaiosamuh | 2018-05-14 08:26 | 太宰治 | Comments(0)
 昭和20年(1945)7月6日。甲府市街はアメリカ空軍機B29型重爆撃機による空襲を受けた。
蒸し暑い夜で寝苦しく、漸く眠りについた午後十一時過ぎ、警戒警報、続いて空襲警報、灯火管制のくらやみがにわかに、真夏のま昼どきのように明るくなった…』(回想の太宰治)
 午後11時40分過ぎ、市街北方の塚原地区と東北の愛宕山付近に照明弾が落とされ、次いで131機のB29から焼夷弾が投下された。B29が甲府市街の上空から姿を消したのは、日付が変わって午前1時半過ぎであった。この焼夷弾により、石原家は全焼、昭和13年に住んだ寿館、昭和14年に新居とした御崎町の住居も焼失した。
 この時、太宰一家は朝日国民学校(現在の朝日小学校)へ避難した。

私たちは、まちはずれの焼け残った国民学校に子供を背負って行き、その二階の教室に休ませてもらった。子供たちも、そろそろ眼をさます。眼をさますとは言っても、上の女の子の眼は、ふさがったままだ。手さぐりで教壇に這い上がったりなんかしている。自分の身の上の変化には、いっさい留意していない様子だ。私は妻と子を教室に置いて、私たちの家がどうなっているかを見とどけに出かけた…(中略)…家の黒い板塀が見えた。や、残っている。しかし、板塀だけであった。中の屋敷は全滅している。焼跡に義妹が、顔を真黒にして立っている。』(薄明)
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 現在の甲府市立朝日小学校。当時、小学校の周辺は草原だったようで、『私たちは東の町はずれに向かって逃げた。のどがいりつくように乾いて苦しかった。小学校の校庭に続く草原まで逃げて一息ついた。』(回想の太宰治)
 またこの甲府空襲の時、妻・美知子は妹にばかり大変な思いをさせた胸の内を語っている。
夜が明けて太宰が水門町の焼跡に行って妹と会い、妹が小学校の教室で休んでいる私たちのところへやってきた。全然消火活動もしなかったくせに、万一の僥倖をたのんでいたのだが、全焼であった。妹はあのとき、茶の間の前の小池に、ミシンを頭からつっこんだりなどしてから、ひとり蒲団をかぶって千代田村の親戚に向かったという。千代田村には荷物が預けてあったから行ったのだろうが、七キロの夜道を若い女一人でよくも辿ったものである。親戚でおむすびをもらってそれを私たちに届けてくれたのだった。この当時のことを回想すると私は良心がとがめる。とにかく妹ひとり置き去りにして私たち一家四人逸早く逃げ出したのであるから。私たちは婚約者が出征中で手のあいていることをよい倖にして、随分この妹の世話になり、生葡萄酒入りの一升瓶を何回も運ばせ、妹が栽培している椎茸を食べ、利用できるだけ利用してきた。その揚句である。一夜乞食となった私たちは、宿無しというものがどんなに肩身の狭いものか実感した。』(回想の太宰治)

 妻・美知子の妹・愛子は、七キロの夜道を蒲団をかぶって一人で親戚の久保寺家へ助けを求めに行ったのであるが、久保寺家の長女・福子は、母・りゆうに愛子が、『おばあちゃん、全部焼けちゃって何もないさ』と泣きながら話しているのを見たという。
 しかし、太宰の『薄明』を読むと、上記の『薄明』の続きで…
兄さん、子供たちは?」
 「無事だ。」
 「どこにいるの?」
 「学校だ。」
 「おにぎりあるわよ。ただもう夢中で歩いて、食料をもらって来たわ。」
 「ありがとう。」
 「元気を出しましょうよ。あのね、ほら、土の中に埋めて置いたのものね、あれは、たいてい大丈夫らしいわ。あれだけ残ったら、もう当分は、不自由しないですむわよ。」
 「もっと、埋めて置けばよかったね。」
 「いいわよ。あれだけあったら、これからどこへお世話になるにしたって大威張りだわ。上成績よ。私はこれから食料を持って学校へ行って来ますから、兄さんはここで休んでいらっしゃい。はい、これはおむすび。たくさん召し上がれ。」
 女の二十七、八は、男の四十いやそれ以上に老成している一面を持っている。なかなか、たのもしく落ちついていた。三十七になっても、さっぱりだめな義兄は、それから板塀の一部を剥いで、裏の畑の上に敷き、その上にどっかとあぐらを掻いて坐り、義妹の置いて行ったおにぎりを頬張った。まったく無能無策である。』と、義妹・愛子は非常に前向きで頼もしい姿を見せている。
 親戚宅へ行ったときは、もしかしたら焼夷弾ですべて無くなってしまったと思っていたために泣いてしまったのかもしれない。それが翌日焼跡を見に来たら、案外に埋めておいたものが大丈夫だったために希望が持てたのか。それとも姉・美知子の一家の前では、心配させないために泣きたいのを堪えて、元気な姿を見せるように努めていたのかもしれない。

 妻・美知子にしても、妹・愛子にしても石原家の人々は実にしっかりした人たちであることが、この甲府での太宰について調べたり、ゆかりの地を歩いて改めてよく分かる。そして、だからこそ太宰も戦時中でも執筆活動を続けることができたのだと思う。


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by dazaiosamuh | 2018-05-07 13:55 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰が短編『美少女』で湯村温泉の旅館明治を舞台にしたことは以前にも書いたが、その湯村へ通う際に、太宰も妻・美知子も甲府四十九連隊練兵場付近を通っている。
家内はからだじゅうのアセモに悩まされていた。甲府のすぐ近くに、湯村という温泉部落があって、そこのお湯が皮膚病に特効を有する由を聞いたので、家内をして毎日、湯村へ通わせることにした。私たちの借りている家賃六円五拾銭の草庵は、甲府市の西北端、桑畑の中にあり、そこから湯村までは歩いて二十分くらい。(四十九聯隊の練兵場を横断して、まっすぐに行くと、もっと早い。十五分くらいのものかも知れない。)家内は、朝ごはんの後片付附がすむと、湯道具持って、毎日そこへ通った。』(美少女)
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 旧歩兵第四十九聯隊の営門跡碑。この付近に営門があった。かつて多くの兵士が大声を出して訓練をしていた場所だが、今はひっそりと碑が、ここに練兵場があったことを示しているのみである。
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 福祉プラザの駐車場の敷地内にさりげなく建てられている。気付かない通行人も多い。

『美少女』で、『とにかく別天地であるから、あなたも、一度おいでなさい』と言われ、自分もさっそくその温泉へと向かう。
早朝、練兵場の草原を踏みわけて行くと、草の香も新鮮で、朝露が足をぬらして冷や冷やして、心が豁然とひらけ、ひとりで笑い出したくなるくらいである、という家内の話であった。私は暑熱をいい申しわけにして、仕事を怠けていて、退屈していた時であったから、早速行ってみることにした。朝の八時頃、家内に案内させて、出掛けた。たいしたことも無かった。練兵場の草原を踏みわけて歩いてみても、ひとりで笑い出したくなるようなことは無かった。湯村のその大衆浴場の前庭には、かなり大きい石榴の木が在り、かっと赤い花が、満開であった。甲府には石榴の樹が非常に多い。』(美少女)

 『練兵場の草原を踏みわけて行くと…』とあるが、練兵場というのは自由に中を行き来できるものなのでしょうか。『朝露が足をぬらして冷や冷やして、心が豁然とひらけ、ひとりで笑い出したくなる…』などとは妻・美知子は言わないと思われるので、太宰の誇張であろう。

御崎町を西の端まで歩いて相川の橋を渡るともう市外で、甲府四十九連隊の練兵場に続いている。連れ立って散歩していて、兵隊さんの行進に出くわして、工合のわるい思いをすることもあった。朝夕は近くの甲府中学に通う中学生がぞろぞろ通る。中学生と兵隊さんとをのぞけば、この町は人通りも少なく、大きな商店街もなく、格子作りのしもたやの並んだ眠ったような町であった。』と妻・美知子は御崎町のことを『回想の太宰治』の中で語っている。
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 写真・車道の橋が相川橋で、歩道の橋は竜雲歩道橋となっている。
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 川幅は狭いが、長閑な風景だ。
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 甲府四十九連隊は、現在の緑ヶ丘スポーツ公園全体を練兵場として使用していた。かなり大きな練兵場だったようだ。『連れ立って散歩していて、兵隊さんの行進に出くわして、工合のわるい思いをすることもあった』とあるので、太宰と二人でときおり練兵場周辺や湯村まで散歩して、二人だけの穏やかな時間を過ごしたのだろう。
 甲府は太宰のゆかりの場所が多くあり、歩いていてなかなか飽きない。


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by dazaiosamuh | 2018-04-29 13:01 | 太宰治 | Comments(2)
 太宰治の行きつけの酒屋は、朝日5丁目の信号機のところにあった『窪田酒店』という酒屋であった。
酒は一円五十銭也の地酒をおもにとり、月に酒屋への支払が二十円くらい。酒の肴はもっぱら湯豆腐で……』(回想の太宰治)
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 写真の右側、道路沿いに面した場所に窪田酒店がありました。現在は大きな駐車場とファミリーマートになっています。無駄に駐車場が大き過ぎる気がしないでもない…。
 太宰はこの時、生家から月90円の仕送りがありましたが、酒代に20円を当てていたのですね。御崎町の新居に移り住む前の寿館に居た頃、『いつもお銚子三本が適量だと言って、キリよく引きあげていたが、適量どころか火をつけたようなもので、このあと諸所を飲みまわって異郷での孤独をまぎらわせていたらしい。ある飲み屋の女の人から「若様」とよばれたなどと言っていた』らしい。主に窪田酒店から地酒をとっていたが、太宰は至るところで酒を飲み歩いていた。当時あった飲み屋はあらかた飲み歩いていたのではないでしょうか。
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 写真手前すぐの道路沿いに窪田酒店があった。書籍や甲府で買った『まちミューガイドブック 甲府市朝日町界隈編』などの冊子に、窪田酒店の写真やイラスト、窪田酒店の場所が印された地図が載っていたので、簡単に見つけられると思っていたが、ここを初めて訪れた時、どこにも見当たらず何十分もうろうろした。近くの薬局で尋ねてみるも、首を傾げるだけであった。冷静に写真やイラスト、地図をみて、その周辺などを照らし合わせると、この場所で間違いなかった。すでに無くなった後ということで、残念であったが、これも時代の流れだ、仕方がない。格安で販売するスーパーなどのお店ができたり、お店を継ぐ人がいなかったりなど、いつまでも残れるものでもない。
 なるべく少しでも早く、他の太宰のゆかりの地もまわらなくては!!


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by dazaiosamuh | 2018-04-21 10:57 | 太宰治 | Comments(0)
豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す

 これは太宰治が妻・美知子に言っていた言葉だ。なぜか妙に格好良く聞こえる。がしかし、私は煙草は吸わないので分からないが、いくらなんでも味噌汁では煙草の毒は消せないだろう。豆腐は私も大好きで、湯豆腐食べながら日本酒をちびちび飲むことがあるので、豆腐で酒の毒が本当に消えてくれたらいいなと思う。

引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利良かった。』(回想の太宰治)
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 喜久の湯を出てすぐの交差点の角に、よく買いに行った豆腐屋があった。写真中央の茶色の建物の場所に、豆腐屋がありました。現在は人家となっているようです。
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 写真の少し奥へと進むと、太宰と美知子の住んだ新居跡があります。新居と喜久の湯の間にあったので、銭湯の帰りに買って帰り、酒を肴に飲んだのでしょう。
 この豆腐屋は、大通りに面した側が入口で、中に豆腐を入れておく大きな水槽があった。屋根は瓦葺きで、新居へと続く道側(写真の中央の道路)は、硝子戸になっていた。
 昭和13年(1938)の「国民新聞」に「九月十月十一月」と題した随筆の中で、「ふと豆腐屋の硝子戸に写る私の姿もなんと、維新の志士のように見えた」と書いている。この豆腐屋を横目に歩いたことが伺えますね。

 太宰は喜久の湯でゆっくりしたあと、新居での晩酌となるのだが…、
酒の肴はもっぱら湯豆腐で、「津島さんではふたりきりなのに、何丁も豆腐を買ってどうするんだろう」と近隣で噂されているということが、廻り廻って私の耳に入り、呆れたことがある。
 噂されるほど沢山豆腐を買っていたのですね。昔は、それぞれの家庭が鍋を持って豆腐屋さんに行き、切り分けてもらっていた。嫌でも人目につくので、妻・美知子も噂話に耐えながら毎日食べる太宰のために買いにいっていたのでしょう。
 ところで、豆腐は酒の毒を消す、と太宰は妻・美知子に言っていたそうだが、美知子の鋭い洞察によると、『太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯がわるいのと、何丁平らげても高が知れているところから豆腐を好むのである。』と断言している。なるほど、そういうことだったのか。

 今度、会社の同僚と飲みにいったら、湯豆腐頼んで、「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」と格好良く言ってみようかなと思います。


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by dazaiosamuh | 2018-04-15 09:04 | 太宰治 | Comments(0)
 甲府には太宰治が通った銭湯が今でも残っている。昭和9年(1934)創業の天然温泉、『喜久の湯』だ。写真は現在の喜久の湯。
 
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 妻・美知子の『回想の太宰治』によると、太宰は、『毎日午後三時頃まで机に向かい、それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておりて、夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六、七合飲んで、ときには「お俊伝兵衛」や「朝顔日記」、「鮨やのお里」の一節を語ったり、歌舞伎の声色を使ったりした。「ブルタス、お前もか」などと言い出して手こずることもあった。』らしい。

 この喜久の湯は、一般的な銭湯と違い、湯沸かし湯ではなく、天然温泉が使われている。それもあってか、私が訪れた時まわりのお客さんは皆、お肌がつるつるな印象を受けた。自分も将来、年を重ねても綺麗な肌でいたいものだ。昔はお風呂が家にない家庭がほとんどだった。今ではその逆で風呂があるのが当たり前で、銭湯を利用する人はいなくなってきている。それでもこれだけ多くの人に愛され、利用されるというのはすごいことだ。建物の外壁などは改装されているが、中はというと、昔ながらの銭湯だ。ここには今でも昭和が残っている。
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 番台を見るのも久しぶりだ。脱衣所には木の鍵のロッカーがある。壁に貼られた古い広告なども目を引く。番台に座るおばあちゃんに、太宰治について尋ねると、「その当時は、まだ有名な人ではなかったから、記憶に残っている人もほとんどいない。」と言っていた。たしかにそのとおりだ。しかし、太宰が住んだ御崎町の新居から一番近い銭湯はこの喜久の湯で、妻・美知子の証言もある、やはりここによく湯に浸かりに来た事は間違いないだろう。浴槽はひょうたんの形をしている。太宰もこのひょうたんの浴槽でのんびり天然温泉の湯で体を癒した。入ってみると、何だろう、とても落ち着く。太宰ゆかりの地をまわることをそっちのけで、このままずっと入っていたい。昭和の雰囲気が、むしろ現代の生活に見慣れてしまっている私には新鮮で心地よい。そうか、ここによく来るお年寄りの方々にとっては、昭和を、当時を懐かしむことのできる場所でもあるのか。いつまでも残ってほしいですね。

 太宰は喜久の湯の後、酒を6、7合飲んでは上機嫌でふざけて、妻・美知子を困らせる。
ご当人は飲みたいだけ飲んで、ぶっ倒れて寝てしまうのであるが、兵営の消灯ラッパも空に消え、近隣みな寝しずまった井戸端で、汚れものの片附けなどしていると、太宰が始終口にする「侘しい」というのは、こういうことかと思った。』と妻・美知子は回想している。

 有名でなかった当時、本当に毎日銭湯に行っていたとなると、なかなかの贅沢だったと思います。しかし、妻・美知子はどうだったのでしょう。夫婦揃って毎日銭湯にはさすがに行けなかったはず。太宰も苦労人だが、その妻である美知子も、太宰と同じかそれ以上に大変だったような気がします…。
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 喜久の湯は本当に良い銭湯でした。甲府へ旅行に行ったら、一度は必ず行くべき場所だと思います。


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by dazaiosamuh | 2018-04-09 10:43 | 太宰治 | Comments(2)
 伊藤潤二作『人間失格』の第2巻が発売した。第1巻は、主人公・葉蔵がツネ子と鎌倉で心中し自分だけ助かり、その後、保証人・渋田の世話になっていたが家出。堀木の家を訪れたところで終わっている。
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 第2巻も作者の独特の解釈、世界観で圧倒するが、しかし第1巻の記事でも書いたが、葉蔵の言動が原因で竹一を自殺させたり、下宿先の姉妹が殺し合い(セッちゃんがアネサを殺す)をしたりなど、これはやりすぎで原作と違いすぎる。罪に対する意識がまるで変わるはずだが、この第2巻でどのように描かれているのかと読んでみると、自分が原因で死んだ竹一やアネサに対する自責の念も特にない。自分がもしこの漫画の主人公だったら、きっと耐えられなくて……。

 セッちゃんが産んだ、竹一に似た子供がなぞで、第2巻では登場しないが、今後どのように書いていくのだろうか。
 他にも色々と指摘したいところが多くあるが、あえて書きません。どう結末を迎えるのか、見届けようと思います。


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by dazaiosamuh | 2018-04-03 22:06 | 太宰治 | Comments(0)
 太宰治と妻・美知子が住んだ新居からすぐ目と鼻の先に、御崎神社がある。太宰は執筆の合間などでよく御崎町界隈を散歩していた。当然御崎神社にも立ち寄り、気分転換をしたり思案に暮れてみたりなどしたことだろう。
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 住宅地のなかにひっそりとある。私がこの日、甲府を訪れた時は8月の終りの方で、非常に暑い日であったのだが、御崎神社へ足を踏み入れると、涼しく感じられた。神社というのは不思議である。太宰が新居に住んだのは、昭和14年の1月から8月頃だから、太宰も気晴らしを兼ねて、涼みに御崎神社へ行っていたかもしれない。
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 御崎神社について、『まちミューガイドブック 甲府市朝日町界隈編』から少し引用させてもいらます。
御崎神社は、武田信虎がいた石和の館の鎮守としてまつられていました。永正十六(一五一九)年、信虎は石和から甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)に館を移します。その際、御崎神社は稲荷曲輪(いなりくるわ)に遷座(せんざ)。文禄三(一五九四)年、甲府城築城のとき、城の北西の守護神として現在地に移されました。
 武田氏滅亡後、神社は甲府城の守護神となり、それぞれ、移転したまちの地名の由来にもなっています。
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 御崎神社は、武田家の館や甲府城の守護神としてまつられていたのですね。
 ちなみに、太宰が新居にいた当時のことで、この界隈を風変りな格好をした男が歩いてた、という目撃場がちらほらあるとか…。はたして太宰のことなのか、しかし、その異様な印象を与えるエピソードを妻・美知子が『回想の太宰治』で書いている。
井戸端で秋山さんと燐家の女の子たちがよく遊んでいたが、その傍を私たちが通ると遊びをやめて太宰を見上げたり、ささやき合ったりする。玄関の前のたたきに「夫婦の家」といたずら書きされていたりした。勤めにも出ないし、少々変わった風体なので、子供心にも異様に感じたのだろう。

 太宰はその自身のオーラというのか、見る者に何かしら強い印象を与えるため、当時風変りな男を目撃したという情報があっても、たしかにおかしくない。太宰の写真を見ただけで異様な印象を与えるのだから。
 太宰と妻・美知子は暑さを感じる頃から東京への引っ越しを考えはじめ、昭和14年7月中旬に借家探しに東京へ上京。同年9月には東京・三鷹へと引越しをするのだが、『三鷹の大家からの通知を待っているうちにこの北がふさがっている家は暑くてたまらなくなった。畳まであつくなったが、いま思いえばトタン屋根だったのだろう。トタン葺きの平家では甲府盆地の夏は過ごし難いのである。やはり「六円五十銭」の家賃相応の家だったのだ。』(回想の太宰治)

 そうとう暑かったようですね。なおさら太宰は御崎神社へと涼みにいったと思います。しかし、妻・美知子の著書によると、『暑い夏で終わったのだけれども、田舎ぐらしのようだった御崎町時代のことを後年太宰は「…幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期…」と回想』していたらしい。

 暑さはともかく、太宰にとっては休養のゆとりを感じ、執筆活動と充実した生活を送ることができたのだ。


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by dazaiosamuh | 2018-03-27 12:14 | 太宰治 | Comments(6)
 昭和14年の1月6日、太宰と美知子は寿館から甲府市御崎町56番地(現・甲府市朝日5‐8‐11付近)の新居へと移った。この新居にいたころのことを、太宰と美知子はそれぞれ書いている。
 太宰は『畜犬談』で『ことしの正月、山梨県、甲府のまちはずれに八畳、三畳、一畳という草庵を借り、こっそり隠れるように住み込み、下手な小説をあくせく書きすすめていたのであるが、この甲府のまち、どこへ行っても犬がいる。おびただしいのである。』と甲府に蔓延る犬について書いている。太宰が大の犬嫌いなことは有名で、『畜犬談』の冒頭で、『私は、犬に就いては自身がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。私はきっと噛まれるにちがいない。自身があるのである。』といきなり笑わせてくれる。
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 写真は太宰と美知子が昭和14年1月から約8カ月間暮らしたことを示す『太宰治僑居跡』の石碑とその付近です。
 太宰は『畜犬談』で、『草庵を借り、こっそり隠れるように住み込み…』としているが、てっきり太宰が例によって大袈裟に書いているものだと思っていたが、妻・美知子の『回想の太宰治』を読むと、『大家は鳶職の秋山さんという、彫り物をちらつかせたいせな人で、借りるについてうるさいことは何も言わなかった。色白のおかみさんは表通りに面した店先に糸針駄菓子などを並べて小商いをやっていた。店の左手、木遣りの柱が渡してある大家の軒の下の路地を入ると庚申バラなどの植込を前に、平家が二軒東向きに建っていて、奥の方がこんど借りた家である。大家さんが鳶だから、持ち地所に半ば自分で建て、外まわりもまめに手がけた家作という感じであった。隣は相川さんといって主人は通いの番頭さんのような風体の人、おかみさんも働きに出ていて全く交渉が無かった。』とあり、新居は道路沿いではなく、道路沿いにある大家の家から南に二軒目が太宰と美知子の新居であったから、奥まった場所にあったようだ。

 山梨県立図書館に『御崎町の太宰治碑』と書かれた冊子を発見した。石碑を建てた太宰治記念碑建立実行委員会が作成した冊子で、その中に見取り図が記載されていた。
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 写真は昭和14年頃の太宰が新居を構えた御崎町界隈の見取り図で、よくみると、妻・美知子が書いている通り、道路沿いの『穐山』(あきやま)から『相川』を挟んで『津島』の姓が確認できる。
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 やはり、新居は太宰治僑居跡の石碑がある道路沿いではなく、実際の新居は写真正面の白い建物の奥の方にあった。
 さらに妻・美知子は間取りについても詳細に記載している。
この家の間取りは八畳、三畳の二間、お勝手、物置。八畳間は西側が床の間と押入、隅に小さい炉が切ってあった。東側は二間ぜんぶガラス窓、その外に葡萄棚、ゆすら梅の木、玄関の前から枝折戸を押して入ると、ぬれ縁が窓の下と南側にL字型についている。この座敷の南東の空には御坂山脈の上に小さく富士山が見えた。南側のぬれ縁近く、南天を植えた小庭を前に太宰は机を据えた。
 隣の三畳間は、障子で二畳の茶の間と一畳の取次とに仕切ってあった。縁も玄関の格子戸もお勝手の板の間も古びてはいるが、洗いさらしたようにきれいで、この小家は一言でいえば隠居所か庵のようなおもむきだった。』とあるので、太宰が『こっそり隠れるように住み込み…』と書いたのも別段大袈裟でもなかったようだ。そして太宰は、6円50銭という安い家賃を何より喜んだという。
 妻・美知子は『引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利よかった』と書いている。太宰のため、必要不可欠なその3つのために遠くまで買い出しに走り回る必要がなくて良かったですね。
 しかし、そのかわり、『この家は、家賃が廉い筈で、ガスも水道もなく、一日に何回も井戸端まで往復して水を運んで、ドタバタしなければ手も洗えなかった』とあるので、結局大変な思いをしなければならなかったようです。
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 太宰治僑居跡の石碑は平成元年6月11日に建立。碑文に『太宰治は昭和十四年一月から八カ月間ここ御崎町五十六番地で新婚時代を過ごした 短期間であったが充実した想い出の多い地であった』と書かれてあるとおり、この新居で太宰は、『黄金風景』『続富嶽百景』『女性徒』『葉桜と魔笛』『八十八夜』『春の盗賊』など精力的に執筆活動をし、また夫婦で上諏訪や蓼科へ遊びに出かけたりなど、充実した生活を送った。

『畜犬談』では、太宰の犬嫌いなようすがよく分かるが、妻・美知子も太宰の犬嫌いについて『犬のことでは驚いた』と書いている。少し長いが引用させてもらう。
一緒に歩いていた太宰が突如、路傍の汚れた残雪の山、といってもせいぜい五十センチくらいの山にかけ上がった。前方で犬の喧嘩が始まりそうな形勢なのを逸早く察して、難を避けたつもりだったのである。それほど犬嫌いの彼がある日、後についてきた仔犬に「卵をやれ」という。愛情からではない。恐ろしくて、手なずけるための軟弱外交なのである。人が他の人や動物に好意を示すのに、このような場合もあるのかと、私はけげんに思った。恐ろしいから与えるので、欲しがっているのがわかっているのに、与えないと仕返しが恐ろしい。これは他への愛情ではない。エゴイズムである。彼のその後の人間関係をみると、やはり「仔犬に卵」式のように思われる。がさて「愛」とはと、つきつめて考えると、太宰が極端なだけで、本質的にはみなそんなもののように思われてくる。
 なんて鋭い洞察力、観察力なのだろうか。太宰の性格、いや、太宰治という人間の本質を完璧に見抜いているように思われる。妻・美知子は、太宰と結婚するまで山梨県都留高女で地理・歴史の教師として教壇に立ち、同時に女子寮の舎監をも務めていたという。職業病というのか、まるで生徒をしっかり観察、分析するかのように、夫である太宰のことも冷静に客観的に観察していたのだろう。

 太宰は自分が死んだあと、まさか妻が自分について書いた本を出すとは思っていなかったであろう、空の上で、ハンカチで冷や汗を拭いているはず。


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by dazaiosamuh | 2018-03-20 17:08 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)