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 連日の暑さと仕事の疲れで記事を2週間近く怠けて書いていなかったので久しぶりの投稿です。
 先月16日から今月16日まで、三鷹市美術ギャラリーで、太宰治没後70年を迎えるにあたり『太宰治 三鷹とともに』と題して特別展が開催されている。今月初めのうちに仕事帰りに行こうと思っていながら結局行かず仕舞で、気づいたら開催最終日の前日になっていた。今日は仕事も休みだから行こうと思っていたが、東京は気温36度まで上昇するとニュースでやっていたので、どうしようかと悩んだが(暑いのが一番苦手で、春夏秋冬では一番夏が嫌い)、最終日の明日は仕事なので、仕事帰りになると疲れもあり自分の億劫がる性質から行かない可能性が高いので、冷蔵庫の中に居るのかと思うくらいに冷やした部屋のクーラーをオフにし、両手で頬を叩いて気合入れて三鷹へ向かいました。
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 三鷹に着いた時には案の定、全身汗だく状態でしたが、三鷹市美術ギャラリー内へ入ると涼しくさらに暑さも忘れて展示品に見入ってしまったので、やはり来てよかったです。
 この特別展は『三鷹で生きた太宰治の人生を、三鷹の歴史を辿りながら、太宰治と彼を支えた人々との交流に焦点を当てて…』紹介してあります。
 太宰治は昭和14年(1939)~昭和23年(1948)まで三鷹に暮し、昭和23年6月13日に山崎富栄と玉川上水に投身し、生涯を終えました。
 太宰治の関連書籍を読み漁ったり、ゆかりの地を歩いたりなどした私としては目新しい展示物はあまり無いのかと思っていましたが、初めてみる太宰治の写った写真や本特別展で初公開のものもありました。
 この特別展で初公開となる『荻窪の碧雲荘で使用していた椅子』が展示されていました。現在碧雲荘は大分県湯布院に移築されていますが、この椅子というのは、太宰治が小山初代と別離する際、小山初代が家具類を整理することになり初代が井伏鱒二に処分を託し長らく保管していたが、太宰死後、太宰の遺族に渡りさらに遺族が三鷹市に寄贈したもののようです。林檎柄の布地で、郷里・青森を想わせます。碧雲荘は和洋折衷の造りであったというから、この椅子が置いてある部屋の景色を想像しても何ら違和感は感じない。太宰が座っていたかと思うと触りたくなるが、触れるのは厳禁なため首を亀のように懸命に伸ばして仔細に眺め、匂いはないかと鼻孔を広げて嗅いでみたが、よく分からなかった。その様子をすぐ横でパイプ椅子に座って見ていた監視員は冷や冷やしていたことだろう。
 また昭和2年に官立弘前高等学校文科甲類に入学し、縁戚にあたる藤田家に下宿していた際に使用していたランプ(藤田家にて撮影された写真に太宰治とそのランプもしっかり写っている)も展示されており、こちらも私は初めてお目にかかった。実に綺麗な状態で残っているものだなと思っていたら、ランプシェードは複製とのことであった。この展示されたランプの複製されたランプシェードの布地は若葉色で、ランプの光でなんともやわらかく心落ちつかせる明かりを燈していたが、実際に太宰が藤田家で使用していたランプのランプシェードもこのような若葉色だったのだろうか。複製とのことだからそうなのかもしれない。
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 写真も初めてみるものが数点あったが、太宰治が阿佐ヶ谷将棋会にて将棋を打っている写真も1枚展示されており、この写真も初めてであった。太宰がその長く綺麗な指に駒を挟んで敵陣に打ち込んでいる写真であった。(相手は誰なのか見ていなかった)指に挟んでいるので当然何の駒かは分からないが、果敢にも敵陣に攻め入っている様子が伺える。しかし、私は将棋は下手なので、その写真に写っている盤面を見ても優劣、形勢判断はつけられない。敵陣に駒を打ち込む太宰治の姿をよくみると、和服で胡坐をかいており、膝から下が露わになっていた。じっくりとその露わとなった脚をみてみると、男らしい立派な毛脛が足首まで満遍無く生えそろっていた。逞しい胸毛も生えているとのことであるから、その他の体毛も立派であるに違いないと思っていたので、今回初めて太宰治の逞しい立派な毛脛を確認することができ、私は大変満足でした。

 その他にも貴重な資料や中々お目にかかれない代物などの展示品が揃っており、非常に見応えがあった。上記に書いた通り、碧雲荘で使用していた椅子、藤田家で使用したランプ、阿佐ヶ谷将棋会での将棋を打っている写真を見れたことが何よりも貴重で嬉しい限りであった。
 それにしても碧雲荘で使用していた林檎柄の布地の椅子が残っているなんて、何で今まで公開されなかったのであろう。来年は生誕110年だ。他にも初公開の展示品が数多く登場するに違いない。今から楽しみである。
 三鷹の太宰治没後70年特別展『太宰治 三鷹とともに』は明日16日まで!!


by dazaiosamuh | 2018-07-15 19:23 | 太宰治 | Comments(0)

 先月6月28日、新宿のbar『風紋』は開業から57年の歴史に幕を下ろした。経営者の林聖子さんは今年90歳。体を悪くし、立っていることが辛い状態であることなどからお店をたたむことにしたようだ。
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 入口には聖子さんの歩行器(?)があった。風紋は地下にあるため、階段を上り下りしなければならない。立っていることも辛い聖子さんには難儀であろう。
 私が訪れたのは先月22日。ちょうどその日は風紋閉店にあたって『風紋 終幕の会』が行われる日であった。私はネットで偶然にも風紋が閉店することを20日過ぎに知り、22日が『終幕の会』とは知らずに行ったのでした。
 『終幕の会』とあって、長年通っている常連さんや聖子さんと親しい人たちが大勢集まっていた。そんな中、私は今回で3回目でそしてこれが最後になります。初めて訪れたのは、2014年11月のことで、太宰治短編作品『メリイクリスマス』のモデルである林聖子さんの存在を知り、開店50周年を記念して出された本『風紋50年』を携えて、ドキドキしながらお店の中へと入っていった記憶が思い出される。その時に『風紋50年』にサインももらった。
 そして2回目に訪れたのは、2016年3月16日。聖子さんの誕生日(米寿)だ。この日も大勢集まり、ケーキや花などで祝福した。照れ臭そうにする聖子さんの姿が印象的だった。この時は、『風紋30年』を持参し、こちらもサインをもらった。
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 そして終幕の会(写真は風紋終幕の会にあたっての記念配布で、聖子さんが2014年に世田谷文学館で講演した時の記録が記載されている)。風紋はずっとあり続けると、なぜか思っていた。自分でも分からないがそう思っていたのだ。そのため風紋閉店は非常に衝撃であった。これならもっと定期的に通っていれば良かったと後悔した。
 長年の常連さんや懇意にしている人たちと聖子さんは笑顔で話していたが、やはりどこか少し寂しいような感じであった。閉店を惜しむ声も聞こえてきた。

 風紋に来るのもこれで最後になるので、私はまだサインを貰っていない残り1冊の『風紋25年』を持ってきていた。この日も聖子さんは快くサインして写真も撮らせて頂いた。誰にでも気さくで優しいからこそ、みんなに愛され、57年間続けてこれたのだと思います。
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 写真は風紋を記念して出版された本で、右から『風紋25年』『風紋30年』『風紋50年』です。

 林聖子さんは最後のあいさつで、『57年。みなさんのおかげで何とかやってこれました。ありがとうございました。もっと沢山話そうとすると、泣いちゃいそうなので……。ありがとうございました。』と感謝の言葉を述べていた。
 お店を出るとき、聖子さんに「お身体に気をつけてお元気でいてください」と言うと、聖子さんも「あなたもお元気で気をつけて働いてね」と言い、手を握ったときの聖子さんの暖かい温もりのある手を忘れない。
 聖子さん、風紋57年間お疲れ様でした。いつまでもお元気でいてください。


by dazaiosamuh | 2018-07-03 12:45 | 太宰治 | Comments(0)

 今年の太宰治の桜桃忌、生誕祭は群馬県水上を選んだ。去年一昨年は青森、金木の太宰の故郷へ足を運び、生誕祭に参加した。そこへ行けば、長女の津島園子さんにも会える。朗読会など色々なイベントにも参加できる。しかし、なぜか私は今回は群馬県水上を選んだ。なぜか行きたいと思った。惹かれたのだ。
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 1泊2日で太宰ゆかりの旅館たにがわに宿を取り、前日の6月18日に水上を訪れた。迎えの車はあえて断った。のんびりと自然を楽しみ、太宰も通った道を味いながら歩きたかったからだ。

 ここへ初めて訪れたのは、2014年12月末であった。その時は運悪く大雪で、それにも関わらず、なぜかその時も歩いて旅館まで行った思い出がある。文学碑はすべて雪で覆われていた。2回目に訪れたのは、2015年6月19日の桜桃忌だ。その日は雨であった。今回は曇り空であったから、天候には恵まれたほうだ。(翌日19日は青空だった)
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 水上駅から少し歩くと、SL機関車のある綺麗に整備された緑色の芝生の公園がある。3年前はただの砂利であったが、緑色の芝生になり、いっそうSL機関車の姿が映えるようになった。
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 のんびり自然を眺めながら、太宰の姥捨の文学碑のところまで歩く。この付近に地図案内板があるのだが、こちらも新しくなっていた。新しく地図を描き直したようだ。しかし、残念であったのが、以前の地図には太宰の姥捨の文学碑のある箇所にはちゃんと、『太宰治歌碑』と記載されていたのにこの地図案内板には、それがなくなっている。案内板のすぐちかくに文学碑があるから記載しなかったのだろうか。

 鳥の鳴き声を聞きながらカメラで谷川岳の景色を撮影して歩いていると、何だろう、なぜか視線を感じる。それは自分の正面方向から感じ取れる。撮るのをやめ、ガードレールぎりぎりから下の斜面を見下ろすと、50mほど先に、私をじっと見ているものがいた。
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 カモシカだ。私のことをずっと見て観察していたものの正体は野生カモシカであった。それにしてもまったく動かない。本物だろうか、もしかしたら精巧に作られたカモシカのオブジェなのだろうかと思ってしまうほど、微動だにしない。写真を2枚撮り、最後にもう一枚だけ撮ろうと指をボタンに置いた瞬間、カモシカは我に返ったように身を翻して森へと姿を消した。(結局、雲っていたため谷川岳は見えず、良い写真は撮れませんでした。しかも翌日は晴れて谷川岳が見えたのに写真を撮るのを忘れた。代わりにカモシカの良い写真が撮れたが…)
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 太宰ゆかりの旅館たにがわにて疲れを癒した。ここは今さら言うまでもないが、前身は太宰治が滞在した川久保屋で、その後、増改築をおこない現在の旅館たにがわになった。太宰治が滞在した川久保屋は、現在の旅館たにがわの駐車場にあった。その駐車場にも文学碑がある。
 相変わらず料理も美味で、温泉も心身共に癒される。初めて訪れた時は大雪で雪の降るなか露天風呂に入った思い出がある。あれも良かった。雪景色の中で入る露天風呂も最高であった。
 部屋で、この日だけはと、太宰がよく吸っていたゴールデンバットを何本も吸った。普段吸わないのに強いバットを何本も連続で吸うもんだから、ゲホゴホと咽ては頭がくらくらし、何だか体中の血管が絞めつけられるような嫌な感覚になり、血管をどうにかせねばと思い、もう一度風呂に入ったら、その嫌な感覚も消えた。アブないところだった。助かった。温泉はやはりいいもんだ。

 旅館たにがわには太宰治にちなんだオリジナルカクテルがある。初めて泊まった時は、たしか『人間失格』のカクテルを飲んだような気がする。今回は『桜桃』と『斜陽』を飲みました。
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 こちらは『桜桃』で、チェリー、ジンジャーエール、ラムをベースにしたカクテルで甘くて飲みやすかったです。
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 こちらが『斜陽』で、カシス、ソーダ、ジンをベースにしたちょっと苦味のあるカクテルです。どちらも美味しかったです。まだ『走れメロス』(カシスリキュール、スパークリングワイン)とノンアルコールの『創世記』(マンゴー、チェリー、オレンジ)は飲んでいないので、次回の楽しみです。

 翌日、6月19日。太宰治の誕生日で桜桃忌。この日を太宰治の命日と勘違いしてる人がたまにいるが、命日は6月13日で、遺体が発見されたのが太宰治の誕生日である6月19日。今年は生誕109年ですね。2009年の太宰治生誕100年はかなり盛り上がりましたが(実はその頃はまだ私は太宰治のことは好きでも無ければ、本も読んでません)、今年は没後70年ということで、本、雑誌なども色々出て、特集も組まれたりなど若い世代のファンもどんどん増えつつあり、嬉しいかぎりですね。
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 この日、群馬のテレビ局がきているということで、旅館のスタッフ(旅館たにがわに勤める女性スタッフの1人は太宰ファンで青森・金木町の生誕祭に行ったとのこと)と共に2カ所の文学碑に献花に行きました。最初に姥捨の文学碑の前で献花を行い、それから旅館たにがわの駐車場にある文学碑にて献花をしました。そこでその群馬のテレビ局からインタビューを受けることになったのだが、如何せんインタビューなど今まで受けたことがなく、しかも小柄な可愛い女性アナウンサー(名前は知らない)を前に緊張し、背中を汗がツーっと流れれば尚更緊張し、しどろもどろになり、自分でも何を言っているのか何を言いたいのかよく分からないインタビューになってしまった。あの日の群馬テレビのスタッフさん、申し訳ありませんでした。
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 今年の桜桃忌はこんな感じで終わってしまったが、来年は太宰治生誕110年ということで、かなりの盛り上がりを見せることは間違いないはず。太宰治の『斜陽』の映画化や、三鷹に太宰治文学館が建てられる話など、生誕110年に合わせて計画されていると思うので、他にも各地で特別展や特集が組まれたり、2019年は新たな太宰治旋風を巻き起こしそう。
 来年2019年の太宰治生誕110年が楽しみですね。


by dazaiosamuh | 2018-06-24 13:45 | 太宰治 | Comments(0)

 太宰治の短編『新樹の言葉』の中で、『眼をあげると、大丸デパアトの五階建の窓窓がきらきら華やかに灯っている。もう、この辺は、桜町である。』と書いているが、『桜町』は、明治8年から昭和39年まで使われた町名で、今は使われていない。
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 現在は、丸の内、中央、北口等の町名に変わっている。かつて桜町として栄えたことを記す看板があった。
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 町名としての桜町は消えたが、前回に書いた松林軒デパートがかつてあり、現在ホテルとなっている場所の通りは、『ぺルメ桜町』としてその名を残している。『甲府で一ばん賑やかな通りで、土地の人は、甲府銀座と呼んでいる。』とあるが、しかし、かつては賑わっていたであろうと思われるが、閉店した店などがちらほらと見受けられた。

 前回載せた老舗和菓子店の松林軒には、時間の都合上、行くことができなかった。無理してでも何か買って帰ればよかったと今さらになって思っている。次回甲府へ旅行したさいに立寄りたいと思う。


by dazaiosamuh | 2018-06-17 14:09 | 太宰治 | Comments(0)

 今月発売の『東京人』は太宰治だ。今月は太宰治の命日(6月13日)と誕生日(6月19日)があり、今年で没後70年を迎える。それにあわせて太宰治の特集が組まれたのだ。
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 生前の太宰治と会ったことがあり、短編『メリイクリスマス』のモデルにもなった林聖子さんが太宰治との思い出を語っている。その中で、聖子さんは太宰治を初めてみた時の第一印象は、顔ではなく手であったと述べる。
煙草を持っている太宰さんの指、その関節が長くてすごくきれいでした。うちの父(洋画家の林倭衛)は反対にごつい手でしたが、男の人って、人によって指の形が違うんだなと思ってね。それが第一印象。顔よりも手でした。

 他にも、今までに起きた太宰治ブームをその時代の変化や背景を見ていきながら、どのように太宰治は読み継がれてきたのかを検証するコーナーもあり見応え十分な内容になっている。

 目新しい情報などはいまさらない。しかし、文学小説というのはその時の自分の年齢や体験、おかれた境遇などによって感じ方、読み方はまるで変わる。読むたびに新たな発見がある。作品が書かれた時代背景を知り、太宰治という人間を知ったうえで読めば、いっそう面白さは倍増する。太宰治没後70年の今年、私は20代から30代へと移行する。人生に対する考え方など、色々と変わってくるだろう。今年は、改めて太宰治の作品をすべて読み直してみようと思う。



by dazaiosamuh | 2018-06-10 16:25 | 太宰治 | Comments(0)

 太宰治が甲府を舞台に書いた作品には他にも『新樹の言葉』があり、昭和14年3月上旬から中旬にかけて脱稿した短編作品で、幼少時代の懐かしい記憶(乳母、子守タケとの記憶)から生まれた、甲府を舞台にした架空の物語で、『黄金風景』に近いものがあり、似た印象を受ける。

眼をあげると、大丸デパアトの五階建の窓窓がきらきら華やかに灯っている。もう、この辺は、桜町である。甲府で一ばん賑やかな通りで、土地の人は、甲府銀座と呼んでいる。東京の道玄坂を小綺麗に整頓したような街である。路の両側をぞろぞろ流れて通る人たちも、のんきそうで、そうして、どこかハイカラである。植木の露店には、もう躑躅(つつじ)が出ている。
 デパアトに沿って右に曲折すると、柳町である。ここは、ひっそりしている。けれども両側の家家は、すべて黒ずんだ老舗である。甲府では、最も品格の高い街であろう。』(新樹の言葉)

 上記の文中にある『大丸デパアト』というのは、どうやら当時の甲府における高層の大店舗であった、松林軒百貨店ビルのことらしい。
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 当時、松林軒百貨店は地上6階、地下1階の県内初の大型百貨店で、昭和12年に開業した。しかし、昭和20年7月の甲府空襲により外観を残して焼失した。その後、甲府会館として利用されたりなどしたが、現在は写真の通り、ホテル・ドーミーインとなっている。
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 しかし、現在はホテルとなっているが、その一角には商店街に面して松林軒の菓子店が営業している。

『新樹の言葉』の冒頭部分で、甲府のことを、『沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれに文化の、しみとおっているまちである。』と書いているが、『シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた』という表現は実に見事で高いセンスを感じずには入られない。

 この『新樹の言葉』をもとに引き続き記事を書いていきます。


by dazaiosamuh | 2018-06-03 21:11 | 太宰治 | Comments(0)

 甲府の湯村温泉郷にある太宰治が宿泊した旅館明治のさらに少し奥の方へ行くと、塩澤寺(えんたくじ)というお寺がある。厄除地蔵で有名なお寺で、太宰治の短編作品『黄村先生言行録』にも登場する。
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 黄村先生は山椒魚が大好きで、主人公に山椒魚について熱く語り、あげくに一丈でなくても六尺でもいいから見てみたい、などと滅茶苦茶な事を言い出す。
 それから数日後、主人公は甲府の湯村温泉へ、東京に近いわりに安くて静か、という理由からよく訪れる温泉旅館へ旅行に行くのだが、行った時期がちょうど2月のお祭りの日で…。
それは二月の末の事で、毎日大風が吹きすさび、雨戸が振動し障子の破れがハタハタ囁き、夜もよく眠れず、私は落ちつかぬ気持で一日一ぱい炬燵にしがみついて、仕事はなんにも出来ず、腐りきっていたら、こんどは宿のすぐ前の空地に見世物小屋がかかってドンジャンドンジャンの大騒ぎをはじめた。悪い時に私はやって来たのだ。毎年、ちょうどその頃、湯村には、厄除地蔵のお祭りがあるのだ。たいへん御利益のある地蔵様だそうで、信濃、美延のほうからも参詣人が昼も夜もひっきりなしにぞろぞろやって来るのだ。私は地団駄踏んだ。厄除地蔵の祭りが二月の末に湯村にあるという事は聞いて知っていたのに、うっかりしていた。

 主人公はあきらめて、自分もお地蔵様をおまいりすることにし外へ出ると、山椒魚の見世物小屋を発見する。それを見て黄村先生を思い出し、すぐに電文をしたため黄村先生を呼ぶ。先生は主人公の泊まる旅館の部屋に山椒魚の見世物小屋の主人を呼んでもらい、『私は山椒魚を尊敬している。出来る事なら、わが庭の池に迎え入れてそうして朝夕これと相親しみたいと思っている』などと言うが、まるで取り合ってもらえない。そして、『一尺二十円、どうです』と値段交渉に出る。
「まことに伯耆国淀江村の百姓の池から出た山椒魚ならば、身のたけ一丈ある筈だ。それは書物にも出ている事です。一尺二十円、一丈ならば二百円。』
「はばかりながら三尺五寸だ。一丈の山椒魚がこの世に在ると思い込んでいるところが、いじらしいじゃないか。」
「三尺五寸! 小さい。小さすぎる。伯耆国淀江村の…』
「およしなさい。見世物の山椒魚は、どれでもこれでもみんな伯耆国は淀江村から出たという事になっているんだ。昔から、そういう事になっているんだ。小さすぎる? 悪かったね。あれでも、私ら親子三人を感心に養ってくれているんだ。一万円でも手放しゃしない。一尺二十円とは、笑わせやがる。旦那、間が抜けて見えますぜ。」

 見世物小屋の主人は鼻で笑って去っていき、黄村先生はただ馬鹿々々しい失敗をして終わる。

『黄村先生言行録』は、昭和17年11月20日~30日の間に執筆・脱稿し、昭和18年1月1日付発行の『文学界』新年号に発表された。
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 急な石段を上りきると、国宝の本殿がある。当時、塩澤寺までの道は畑が広がっていたという。

『黄村先生言行録』にあるとおり、毎年2月13日から14日にかけて、厄除地蔵尊大祭が行われ、昼12時まで大護摩供を行い、訪れる人々の開運厄除・家内安全をお祈りしている。さらに百余の軒を連ねる露店が、湯村温泉街から石段まで並び、しかも十万人近くの人波に埋め尽くされるため、他に例のない殷賑を極めたお祭りとなるらしい。

 太宰が実際にお祭りに行ったのかは不明。太宰が甲府で生活したのは、寿館が昭和13年11月中旬~昭和14年1月まで。御崎町の新居には昭和14年1月~8月までいた。昭和17年2月9日頃に、湯村温泉の旅館明治に滞在し『正義と微笑』の続きを執筆。翌年の昭和18年3月中旬頃にはまた湯村温泉の旅館明治にて滞在し、途中であった『右大臣実朝』の稿を継いだ。
『黄村先生言行録』の描写などを読むと、祭りに行ったことがあるような印象を私は受けたがどうなのだろうか。
 ちなみにこの黄村先生はシリーズ化しており、他に『花吹雪』『不審庵』がある。
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 塩澤寺には『舞鶴のマツ』があり、山梨県の指定天然記念物になっている。このマツを撮ろうと思いカメラを構えたところ、妙な緊張を強いるような羽音が聞えて来た。嫌な予感がして音のする方へ顔を向けると、スズメバチだった。彼を刺激しないようにまるで自分がお地蔵様になったかのようにじっとその場で身動きせずに固まり、どうにかやり過ごしてからマツの写真を撮り、一目散に階段を駆け下りて、近くに置いていたレンタサイクルにまたがり、その場を急いで去りました。この時は、本当に危なかった。特大サイズのスズメバチが『舞鶴のマツ』のまわりを世話しなく飛んでいた。これでは『雀蜂のマツ』ではないか。危うく刺されるところだった。
 ちなみに『舞鶴のマツ』の由来は、鶴がまるで両翼を広げて舞い上がろうとしている姿に似ていることからその名が付けられた。もしかしたらスズメバチは鶴と一緒に飛んで遊んでいたのかもしれない。




by dazaiosamuh | 2018-05-27 17:09 | 太宰治 | Comments(0)

 先日、仕事帰りに地元のブックオフに立ち寄り、文学のコーナーへ行くと、『太宰治 100の言葉』という本を見つけた。タイトルの通り太宰治の名言を集めた本で、ちょうど最近は仕事で疲れていたりなどして、家と会社の往復だけのような状態であったため、改めて太宰から人生に役立つ、勇気を貰える、共感できる言葉を貰おうと思い購入しました。
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自分の苦悩に狂いすぎて、他の人もまた精一ぱいで生きているのだという当然の事実に気付なかった。』(東京八景)
 仕事や人間関係、病気など色々なことで頭がいっぱいになると、私も自分のことばかりで他人も精一杯生きているんだということになかなか気付けない。辛いのはみんな一緒なのだ。

生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。』(斜陽)

 この言葉は、私が太宰の本を2冊目に読んだ『斜陽』で書かれた言葉で、20代前半に、「人生とは何なんだろう、生きるとは何なのだろう」ともやもやしていた頃に共感した記憶がある。苦しくても、生きて生きて生き抜くというのは、本当に大事業だといまでも思っています。

愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。』(随筆「思案の敗北」)
人間の生活の苦しみは、愛の表現の困難に尽きるといってよいと思う。この表現のつたなさが、人間の不幸の源泉なのではあるまいか。』(惜別)
愛は、最高の奉仕だ。みじんも、自分の満足を思っては、いけない。』(火の鳥)

 太宰は『愛』について語る人であった。愛の苦悩者と言ってよいと思う。数年前に、青森で太宰の親戚にあたる津島廉造さんから太宰治がどういう人間であったか、話を聞かせてもらったが、『彼(太宰治)は、愛に苦悩した人だったと思います。』と語っていたのが印象的であった。
 愛に満ち溢れた人生であれば素晴らしいが、その愛によってすべてに絶望することもある。愛は、たしかに存在する。表現することが難しい。その通りだと思う。

 紹介したこの本から何個か載せましたが、この本だけでなく、自分で太宰の本を読んでいて気に入った言葉がたくさんあり、載せたい名言が山ほどあるが、長くなってしまうので、最後にもう一つだけ、『ヴィヨンの妻』から。
人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合わせな人間です。


by dazaiosamuh | 2018-05-20 11:01 | Comments(0)

 甲府・御崎町周辺の太宰ゆかりの地を大方歩き回った私は、ちょっと距離があるが武田神社へ行くことにしました。
 それにしても武田神社にはレンタサイクル(電動)で行ったのですが、思っていた以上に距離があり、電動自転車とはいえなかなか酷で、到着した頃には太腿がぱんぱんでしかも時期が8月だったもんだから、全身汗だくで、非常に汗臭い状態で神社に入った記憶があります。
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 太宰は昭和14年6月1日付発行の『月刊文章』6月号に『春昼(しんちゅう)』という随筆を発表しており、その中で武田神社を訪れた様子が描かれている。
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 神橋を渡り鳥居の前まで行くと、鳥居のすぐ右脇に、太宰がここを訪れたことを示す看板があり、太宰のその『春昼』が全文ではないが引用されていた。せっかくなので全文載せます。以下、赤文字は『春昼(しんちゅう)』
四月十一日。
 甲府のまちはずれに仮の住居をいとなみ、早く東京へ帰住したく、つとめていても、なかなかままにならず、もう、半年ちかく経ってしまった。けさは上天気ゆえ、家内と妹を連れて、武田神社へ、桜を見に行く。母をも誘ったのであるが、母は、おなかの工合い悪く留守。武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、四月十二日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内の桜が満開なのである。四月十二日は、信玄が生れた日だとか、死んだ日だとこあ、家内も妹も仔細らしく説明して呉れるのだが、私には、それが怪しく思われる。サクラの満開の日と、生れた日と、こんなにピッタリ合うなんて、なんだか、怪しい。話がうますぎると思う。神主さんの、からくりではないかとさえ、疑いたくなるのである。

 看板には『太宰治の愛でた桜』とあり、横には桜の木がある。きっと春には綺麗な桜を咲かせて、訪れる人々を迎えてくれるのだろう。太宰の有名な頬杖ポーズの写真も載っており、訪れた人のなかには熱心に読んでいく人の姿も多く見受けられた。それにしても、太宰は実際に武田神社に来たのだろうか。
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桜は、こぼれるように咲いていた。
「散らず、散らずみ。」
「いや、散りず、散りずみ。」
「ちがいます。散りみ、散り、みず。」
 みんな笑った。
 お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていいものだ。境内は、塵一つとどめず掃き清められていた。
「展覧会の招待日みたいだ。きょう来て、いいことをしたね。」
「あたし、桜を見ていると、蛙の卵の、あのかたまりを思い出して、……」家内は、無風流である。
「それは、いけないね。くるしいだろうね。」
「ええ、とても。困ってしまうの。なるべく思い出さないようにしているのですけれど。いちど、でも、あの卵のかたまりを見ちゃったので、……離れないの。」
「僕は、食塩の山を思い出すのだが。」これも、あまり風流とは、言えない。
「蛙の卵よりは、いいのね。」妹が意見を述べる。「あたしは、真白い半紙を思い出す。だって、桜には、においがちっとも無いのだもの。」
 においが有るか無いか、立ちどまって、ちょっと静かにしていたら、においより先に、あぶの羽音が聞えて来た。
 蜜蜂の羽音かも知れない。
 四月十一日の春昼。

『春昼』にあるように、境内は本当に綺麗に掃き清められ、天気が良かったこともあり、清々しい気持であった。気持ち悪かった全身の汗も、気づいたら引いていた。神社に来ると、気持ちが落ち着くから不思議だ。
 武田神社は、言うまでもないが武田信玄公を祀った神社で、信玄公の父である信虎公が1519年(永正16年)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に、1919年(大正8年)に創建された。武田信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われ、現在も毎年信玄公祭りが開催されている。
 ところで太宰は実際に武田神社へ来たことがあるのだろうか。『春昼』に対して、『この文章では、どうも、本当に出かけた感じが伝わってこない』と書いている書籍もあった。歩いて武田神社に行くには結構な時間がかかる。そうそういつも来れるわけではないはずだが、気分転換に、一度は来た事があるのではと私は思っているが…。
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 さすがに電動のレンタサイクルとはいえ疲れたので、信玄アイスを買って食べました。きな粉と黒蜜がかかっており、甘くてとても美味しかった。アイスにきな粉と黒蜜の組み合わせは最強ですね。
 帰りは長い下り坂なので、気持ちの良い風を受けながら、来るときの苦労を吹き飛ばすかのように下って行きました。


by dazaiosamuh | 2018-05-14 08:26 | 太宰治 | Comments(0)

 昭和20年(1945)7月6日。甲府市街はアメリカ空軍機B29型重爆撃機による空襲を受けた。
蒸し暑い夜で寝苦しく、漸く眠りについた午後十一時過ぎ、警戒警報、続いて空襲警報、灯火管制のくらやみがにわかに、真夏のま昼どきのように明るくなった…』(回想の太宰治)
 午後11時40分過ぎ、市街北方の塚原地区と東北の愛宕山付近に照明弾が落とされ、次いで131機のB29から焼夷弾が投下された。B29が甲府市街の上空から姿を消したのは、日付が変わって午前1時半過ぎであった。この焼夷弾により、石原家は全焼、昭和13年に住んだ寿館、昭和14年に新居とした御崎町の住居も焼失した。
 この時、太宰一家は朝日国民学校(現在の朝日小学校)へ避難した。

私たちは、まちはずれの焼け残った国民学校に子供を背負って行き、その二階の教室に休ませてもらった。子供たちも、そろそろ眼をさます。眼をさますとは言っても、上の女の子の眼は、ふさがったままだ。手さぐりで教壇に這い上がったりなんかしている。自分の身の上の変化には、いっさい留意していない様子だ。私は妻と子を教室に置いて、私たちの家がどうなっているかを見とどけに出かけた…(中略)…家の黒い板塀が見えた。や、残っている。しかし、板塀だけであった。中の屋敷は全滅している。焼跡に義妹が、顔を真黒にして立っている。』(薄明)
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 現在の甲府市立朝日小学校。当時、小学校の周辺は草原だったようで、『私たちは東の町はずれに向かって逃げた。のどがいりつくように乾いて苦しかった。小学校の校庭に続く草原まで逃げて一息ついた。』(回想の太宰治)
 またこの甲府空襲の時、妻・美知子は妹にばかり大変な思いをさせた胸の内を語っている。
夜が明けて太宰が水門町の焼跡に行って妹と会い、妹が小学校の教室で休んでいる私たちのところへやってきた。全然消火活動もしなかったくせに、万一の僥倖をたのんでいたのだが、全焼であった。妹はあのとき、茶の間の前の小池に、ミシンを頭からつっこんだりなどしてから、ひとり蒲団をかぶって千代田村の親戚に向かったという。千代田村には荷物が預けてあったから行ったのだろうが、七キロの夜道を若い女一人でよくも辿ったものである。親戚でおむすびをもらってそれを私たちに届けてくれたのだった。この当時のことを回想すると私は良心がとがめる。とにかく妹ひとり置き去りにして私たち一家四人逸早く逃げ出したのであるから。私たちは婚約者が出征中で手のあいていることをよい倖にして、随分この妹の世話になり、生葡萄酒入りの一升瓶を何回も運ばせ、妹が栽培している椎茸を食べ、利用できるだけ利用してきた。その揚句である。一夜乞食となった私たちは、宿無しというものがどんなに肩身の狭いものか実感した。』(回想の太宰治)

 妻・美知子の妹・愛子は、七キロの夜道を蒲団をかぶって一人で親戚の久保寺家へ助けを求めに行ったのであるが、久保寺家の長女・福子は、母・りゆうに愛子が、『おばあちゃん、全部焼けちゃって何もないさ』と泣きながら話しているのを見たという。
 しかし、太宰の『薄明』を読むと、上記の『薄明』の続きで…
兄さん、子供たちは?」
 「無事だ。」
 「どこにいるの?」
 「学校だ。」
 「おにぎりあるわよ。ただもう夢中で歩いて、食料をもらって来たわ。」
 「ありがとう。」
 「元気を出しましょうよ。あのね、ほら、土の中に埋めて置いたのものね、あれは、たいてい大丈夫らしいわ。あれだけ残ったら、もう当分は、不自由しないですむわよ。」
 「もっと、埋めて置けばよかったね。」
 「いいわよ。あれだけあったら、これからどこへお世話になるにしたって大威張りだわ。上成績よ。私はこれから食料を持って学校へ行って来ますから、兄さんはここで休んでいらっしゃい。はい、これはおむすび。たくさん召し上がれ。」
 女の二十七、八は、男の四十いやそれ以上に老成している一面を持っている。なかなか、たのもしく落ちついていた。三十七になっても、さっぱりだめな義兄は、それから板塀の一部を剥いで、裏の畑の上に敷き、その上にどっかとあぐらを掻いて坐り、義妹の置いて行ったおにぎりを頬張った。まったく無能無策である。』と、義妹・愛子は非常に前向きで頼もしい姿を見せている。
 親戚宅へ行ったときは、もしかしたら焼夷弾ですべて無くなってしまったと思っていたために泣いてしまったのかもしれない。それが翌日焼跡を見に来たら、案外に埋めておいたものが大丈夫だったために希望が持てたのか。それとも姉・美知子の一家の前では、心配させないために泣きたいのを堪えて、元気な姿を見せるように努めていたのかもしれない。

 妻・美知子にしても、妹・愛子にしても石原家の人々は実にしっかりした人たちであることが、この甲府での太宰について調べたり、ゆかりの地を歩いて改めてよく分かる。そして、だからこそ太宰も戦時中でも執筆活動を続けることができたのだと思う。


by dazaiosamuh | 2018-05-07 13:55 | 太宰治 | Comments(0)