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 2018年も最後となった。今年は今までで一番太宰治の聖地めぐりや記事を書くのが捗らなかった。捗らないというよりも、単に細かいところをのぞけば、7,8割は歩いてしまっているので、残りをまわりきるのがもったいない、というのが正直な思いで、そのため敢えてゆかりの地を歩かなかったのである。(過去に歩いたがそれも敢えてまだ記事にしていないのもある)
 来年は、太宰治生誕110年ということでまだ歩いていないゆかりの地を歩こうと思う。

 さて、今日で2018年も終わりますが、来年は太宰以外にも何かしたいなと思っていて、実は前々から自分の字の汚さ、醜さには辟易していました。そこでちょっとしたことではあるが、綺麗な字で書けるように、ここは一つ来年は字の練習でもしようと思い、わざわざ今年最後の日に練習帳を買いに書店に向かいました。

 本棚を端から順に目で追っていくと、悲しいかな、すぐにある文字が目に留まり気付いたら手にとっていました。

『なぞって美文字 書いて味わう 太宰治』
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 すぐに『太宰治』の名前に反応してしまいます。
『読んでなぞって書くだけで美文字に!』
 しかもワンコインです、迷うことなくレジに向かいました。
 そういえば、丁度1年前にも太宰治作品をなぞり書きする本を買っています。あの時は今ほど自分の字を気にしていませんでした。あの時買ったのは、『なぞり書きで楽しむ太宰治』で、『走れメロス』『富嶽百景』『人間失格』『女生徒』『ヴィヨンの妻』『斜陽』『満願』『お伽草紙』『グッド・バイ』の9作品。
 そして今日買ったのも9作品収録で同じ作品は、『女生徒』『走れメロス』『富嶽百景』『斜陽』『人間失格』の5作品で、違うのは、『道化の華』『東京八景』『思い出』『駈込み訴え』の4作品があることです。
 ページ数のボリュームを比較すると少ないが、去年の方はただなぞるだけのものでした。今日買った方は、なぞる行と書き写せる空欄の行があるので実践向けで良い。まえがきにも『みなさんが書き写すのは、太宰の名場面、名文ばかりである。昔は文章修行として、文豪の作品を書き写したものだ。そのことが文章を磨くのにもっとも効果的だったからである。作家の息づかいまで感じとることができる。こんな面白いことはない。』とある。
 書き写すと言えば、ゆかりの地をまわってそれを記事にするときに、太宰治作品や関連作品の文章をただパソコンで打ち込むだけであった。
 今日購入した『なぞって美文字 書いて味わう 太宰治』を終えて少しでも文字に自信が付いたら、自分の好きな太宰作品を全文書き写すことにチャレンジしてみようと思います。文字が綺麗になることと文章力が身に付くことを願って…。(と言っても結局は自分の努力次第ですが)

 小さな目標ではあるが、続けることに意味があるので努力していきたいです。
 そういえば、来年5月の『走れメロスマラソン』に向けた練習は、現在、なぜか走るたびに右膝を必ず痛めてしまうため、10日に一度のペースになっている。いくら休んでも走ると痛めてしまう。骨盤か右足の歪み?が原因だろうか、走り方、フォームが悪いのだろうか。原因が分からない。このままではどうなるものか、原因を発見してなおさないと、まともに練習にならない。

 どうなることやら分かりませんが、来年もよろしくお願いします。よいお年を。


by dazaiosamuh | 2018-12-31 17:50 | 太宰治 | Comments(2)

 太宰治の新たな情報が入った。なんでも小説『津軽』で太宰が自分で購入した鯛を宿で調理してもらった人が判明したのだという。というのも、『津軽』を読んだ人なら分かるが、太宰は故郷・津軽についての小説を書くためにN君、Mさんと一緒に歩いてまわっていた。途中、リヤカーにいっぱい積まれた魚を見て、二尺くらいある鯛を一円七十銭で、つい買ってしまった。つまらんものを買ったねえとN君たちに軽蔑されながらも歩き進め、日が暮れかけた時刻に何とか三厩の宿に落ち着いた。
 宿で太宰はリュックから鯛の包を取り出し、女中に、『これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持って来て下さい』と言った。なんだかあまり悧巧そうでない女中に、何か不安を感じ取ったのか、N君は、『そのまま塩焼きにするんですよ。三人だからと言って、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに、三等分の必要はないんですよ。分かりましたか』と、あまり上手とは言えない説明をした。この女中、先ほどから、返事は「はあ」しか言わない。持参した酒を三人で呑み交わしているうちに鯛が出た。

ことさらに三つに切らなくてもいいというN君の注意が、実に馬鹿々々しい結果になっていたのである。頭も尾も骨もなく、ただ鯛の切身の塩焼きが五片ばかり、何の風情も無く白茶けて皿に載っているのである。私は決して、たべものにこだわっているのではない。食いたくて、二尺の鯛を買ったのではない。読者は、わかってくれるだろうと思う。私はそれを一尾の原形のままで焼いてもらって、そうしてそれを大皿に載せて眺めたかったのである。食う食わないは主要な問題でないのだ。私はそれを眺めながらお酒を飲み、ゆたかな気分になりたかったのである。ことさらに三つに切らなくてもいい、というN君の言い方もへんだったが、そんなら五つに切りましょうと考えるこの宿の者の無神経が、癪にさわるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思いであった。
「つまらねえ事をしてくれた」お皿に愚かしく積まれてある五切れのやきざかな(それはもう鯛では無い、単なる、やきざかなだ)を眺めて、私は、泣きたく思った。せめて、刺身にでもしてもらったのなら、まだ、あきらめもつくと思った。頭や骨はどうしたろう。大きい見事な頭だったのに、捨てちゃったのかしら。さかなの豊富な地方の宿は、かえって、さかなに鈍感になって、料理法も何も知りやしない。…(中略)…いま思い出しても、あの鯛は、くやしい。だいたい、無神経だ。

小説『津軽』は全編を通して面白く印象深いが、この鯛事件も『津軽』の中で印象に残りやすく、読んだことのある方はこの場面で太宰に同情したことを覚えているだろう。
 そしてなんと、この鯛を調理した人物が判明したというのだ。その料理した人物を特定したのは、元三厩村役場総務課職員だった外ヶ浜町三厩の牧野和香子さん(67)という方のようで、1年に及ぶ独自の調査により探し当てたという。実に素晴らしい。まさか『津軽』のこの鯛を調理した人を探し当てるとは…。詳細はまだ分からない。『津軽』を執筆するために、太宰が故郷を歩いたのは昭和19年5月のこと。太宰たちが泊まった旅館というのは丸山旅館のことで、すでにない。よくぞ探し当てたと思う。しかし75年前のことだ。その調理した方はもう亡くなられているのだろうか。
 詳細な情報があとで出るのかどうか、待ち遠しい。


by dazaiosamuh | 2018-12-23 21:28 | 太宰治 | Comments(0)

 太宰治にとって昭和11年から12年にかけては、パビナール中毒とそれにともなう入院、妻・小山初代の不倫、初代との群馬県水上での心中未遂と離別など、心身共に疲弊の時期であった。だが次第に落ち着いてきて、5月に入ると、友人の檀一雄、伊馬鵜平とともに大いに男女交歓を楽しもうということになり、3人が発起し『青春五月党』というグループを作った。以下、赤文字は檀一雄著『小説 太宰治』より

船橋の頃の不健康は、失せてしまって、太宰は例のユーモラスでチャーミングな快活を取り戻していた。もっとも、心の楽屋裏の方は、私は知らない。太宰と私と伊馬と発起して、「青春五月党」というのを結成した。
 例のヤケクソからである。私の妹の友人を呼び集めた。女子美術の生徒達である。それから高橋幸雄、堀内剛二、猪口富士男等を呼んできた。
 女達にめいめい弁当を作らせ、桜が丁度終わった頃、大はしゃぎで、石神井の池畔に出掛けていった。

 昭和12年5月、『青春五月党』のメンバーで石神井の池畔に遊びに出掛けたのであった。メンバーは、太宰治、檀一雄、伊馬鵜平、高橋幸雄、猪口富士男、塩月赳、檀一雄の妹・寿美と女友達の12人である。

素晴らしい五月の太陽だった。もうブヨがうるさくつきまとってきた。荻窪から石神井まで徒歩で抜け、三宝寺池畔の茶店の籐影に、縁台を据えた。

 どうやらその日は太陽が顔を出した良い天気だったみたいですね。私がここを訪れたのは、10月も終わりに近づいている時で、それでも歩いていると少し汗ばむ陽気だったように覚えています。石神井公園駅の観光案内所で販売している『文学散歩マップ』にも、太宰治等が結成した『青春五月党』が石神井公園の三宝寺池を訪れたことが記載されている。
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 写真は石神井公園の石神井池(ボート池とも言われている)です。ボートがありますが、乗っている人は一人もいませんでした。長閑で気持ちも落ち着きまね。ベンチに座って池を眺めながら缶コーヒーを飲んでいる人、新聞を読んでいる人、ラジオを聞いている人、釣りを楽しむ人など様々に休日を過ごしている様子が分かります。
 この石神井池は、石神井風致協会が、1934年(昭和9年)に三宝寺池より流出する川を堰き止めて作った人工池。多くの種類の水鳥が飛来し間近に観察することができるため、それを目当に訪れる人々も多い。『青春五月党』が訪れたのは昭和12年なので、すでにこの人工池はあり、太宰治を含めたメンバーもこの池を眺めているはず。
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 石神井池に沿って歩いていると、今にも池に飛び込みそうな勢いを見せる木が1本あった。水面ぎりぎりで止まっている。なぜこんな成長の仕方をしたのだろうか。
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 道路を挟んで反対側に三宝寺池がある。写真は貴重な植物が管理されている『三宝寺池沼沢植物群落』で、1934年(昭和9年)に国の天然記念物として指定されている。当時50種類ほどの水生植物があったとされるが、近辺の都市化による水温の変化、水質の悪化など環境の変化により減少している。観光案内所で購入した『石神井公園ガイドマップ』によると、『約2万年前の最終氷期に繁茂した遺存種・ミツガシワや、カキツバタ・コウホネ・ハンゲショウなどの「貴重水生植物」は、その他の「保護上重要な植物」と共に中の島(浮島)等の自生地で現在も生育管理されている』とある。
 約2万年前の最終氷期の遺存種が現在でも生えているとはすごいですね。それもあってか、色々な昆虫や野鳥が遊びに来るようで、それを目当にカメラや双眼鏡を片手に人々もまた集まってくるようです。

 鳥の鳴き声を聞きながら、池や木々など自然を眺め歩いていると、都会での仕事や生活で疲れた身体も癒されます。途中、ベンチで真剣に将棋の駒を指す数名の年配者の姿が見受けられた。自然豊かな石神井公園で仲の良い友人と将棋を指すのが、何よりの休日の楽しみなのだろう。
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 三宝寺池一帯は、1915年(大正4年)に武蔵野鉄道が開通してから、都心から近い行楽地として多くの人が訪れるようになった。吉祥寺の井の頭池、杉並の善福寺池と共に武蔵野三大湧水地として知られている。家族連れやカップルのデートスポットでもあった。男女交歓にはうってつけだ。『青春五月党』も例にもれずここを選んだのだろう。
美人がいた。武田明子という名前だったことまで覚えている。しかし、少女達はみんな、甲斐甲斐しい背広姿の高橋幸雄に誘われて、ボートの方に降りていった。太宰と私と伊馬鵜平だけが、縁台の上に、置きざりになるのである。

 つまり、大いに男女交歓しようと発起し結成した太宰治、檀一雄、伊馬鵜平の男3人がよりによって、女性たちに相手にされなかったのである。なんとも寂しい限りである。女性5人もいながら…。

「もう駄目だね、我々は」と、伊馬。
「こりゃ、ひでえ。全く駄目だ。もう、こうなったら、立派になる以外はない。髭をはやすさ。やけくそだ。カイゼル髭だ。伊馬君も檀君も、思い思い、立てたがいいよ。こりゃ、ひでえ。ワッ」
 と、太宰は例の叫び声をあげながら、酒をあおった。
「もうこうなったら、坐禅だ。達磨だ。面壁九年だ」
 太宰は縁台の上に、結跏を組んで、又酒をあおるのである。
「そうだ、檀君。男は、女じゃねえや。ワァひでえ。意味をなさん。ナンセンスだ。自分ながら、驚いたね」

 太宰治の悔しさ、惨めさが良い意味で伝わってきますね。ヤケクソ感がいいです。『意味をなさん。ナンセンスだ。』そりゃそうだ。男女交歓が目的で、女性たちにわざわざ弁当も作らせ、大はしゃぎで池に遊びに来たのに、発起人の3人が相手にされないのだから。
 しかし、それでも太宰は大はしゃぎであったようだ。
この日の大はしゃぎの太宰を思い出す。私と太宰は、池畔で何枚も写真を撮って貰って、やがて池をグルリと廻り、いつ迄もボートを漕いでいる、高橋や少女達を呼びかえした。
 やがて、少女達と別れて、荻窪の裏の畑地を、三人で歩いた、モヤモヤと媚めいた夕暮れのことを覚えている。

 もしかしたら自分たちの滑稽さが可笑しく、それがまた愉快でならなかったのかもしれない。
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 文学散歩マップによると、『三宝寺池畔の厳島神社はもと弁天社で、三宝寺、氷川神社などとともに、江戸時代の小旅行ガイド『遊歴雑記』や『嘉陵紀行』『江戸名所図絵』にも登場する。弁天社には、江戸市中の弁天講の人々が巳待ちの日に訪れ、舟を出したり芝居を見たりと、にぎやかな信仰対象だったことが名書物には記されている。』とある。由緒ある神社なのですね。写真中央付近にあるのが厳島神社。

太宰はもう饒舌らなかった。私と伊馬の後ろから、とぼとぼついて来ていたが、折々、丁度、かすかに光り始めた星などを、いぶかしそうに仰ぎ見たりしていた。が、私達が振り返って、しばらく待つと、あわてて微笑を浮かべながらやってきて、
「ナポリを見てから、死ね」
 畔の溝を一つ跳びこし、ワハハハと、夕暮に金歯を閃めかせながら、意味もなくそう笑った。これらの日の太宰の面影は、今、たくまぬ明暗の美しさで私の眼の中に浮かんでくる。遠い稲妻に折々反照される、不可思議な孤独の立像としてだ。

 太宰治との深い友情も含め、檀一雄にとって、思い出深い日となった。この思い出をきっかけに、檀は石神井に移り住むようになる。檀一雄は1942年(昭和17年)より、戦中の不在期間を除いて、生涯を石神井で過ごした。
『青春五月党』の石神井・三宝寺池での集合写真は、書籍等に掲載されており、確認することができる。

 石神井公園は、自然にできた天然の三宝寺池と人工のボートで遊べる石神井池(ボート池)を中心に構成されている。都内とは思えないような豊かな自然を味わうことができる。石神井公園には他にも、記念庭園や石神井城址、氷川神社、石神井松の風文化公園、旧内田家住宅など見所が多くある。石神井は多くの文士が住んだ場所としても有名で、檀一雄は中心的存在であったという。文士だけでなく、俳人、歌人、詩人やまた学者や芸術家も多く住んだ土地で、名前を挙げるのが大変なほどで、それだけでも魅力ある土地であることは言うまでもない。
 季節の花や生物、四季の景観を楽しむことができる。今度訪れる時は、花見で賑わう春に訪れてみたい。


by dazaiosamuh | 2018-12-08 12:20 | 太宰治 | Comments(0)

 太宰治の名作『人間失格』の誕生秘話をテーマにした映画が製作されることが分かった。タイトルはそのまま『人間失格』。
 小栗旬主演で、蜷川実花監督がこの映画の主演は小栗旬しかいない、と本人にオファーして決まったそうだ。
 製作される『人間失格』は上記の通り、誕生秘話を描いたストーリーで実写化ではなく、「太宰治自身と3人の女性目線から実話を基にしたフィクション」とのことだ。

 2019年公開とのことで、おそらくこの映画も太宰治生誕110年に合わせたものだろう。『人間失格』の誕生秘話をどのように描くのか、楽しみだ。蜷川監督が小栗旬しかいないと主演に抜擢したようだが、太宰治役が合うのか合わないのか、これは映画の出来具合とあとは好みで意見が別れそうな気がする。

by dazaiosamuh | 2018-12-04 19:51 | 太宰治 | Comments(0)

 去年の夏、太宰治ゆかりの地を歩くために1泊2日で甲府を訪れ、某ホテルへ泊まった。猛暑で歩き疲れたためベッドでぐったりと横になっていた時、備え付けのテーブルの上に置いてあった冊子に目がいった。
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 内観体験記。内観?
 内観とは何でしょう。何気なくその冊子を開き1行目を読むと…
もしも、太宰治が「内観」を体験していたら、日本の近代文学史は変わっていたろう。ヒトラーがしていたら人類の歴史は違ったものになっていたろう。六月末からの一週間、奈良・大和・郡山で内観を体験して、そう思った。太宰はおそらく、その才能と感受性とで、人の心を根こそぎ揺り動かす種類の「文豪」になっていたかもしれないし、ヒトラーの演説は狂気をあおるのではなく、チャップリンの映画『独裁者』そのままに人への愛を説いただろう……

 このような出だしで始まり、冊子のタイトルにもなっているようにある新聞記者の内観体験記が書かれているが、『内観』という言葉を初めて聞いたことと、なぜか冊子の表紙の雰囲気などから怪しい宗教の勧誘なのかと偏見の眼で訝ってしまったが、『内観』とは、『内観療法』という精神療法(心理療法)のことで、すでに1960年代から精神医療現場で導入され、また国際的な評価も得ており、2003年には国際内観療法学会も設立されている。
 では、内観の目的と効果はというと、
 自分自身で自己探求を行い、過去の自分の振る舞いや行いを振り返り、『気づき』を得ることにより自己を確立させる。自己の探究を続けることによって、ある出来事についての新しい見方や事実に気づき、物事の捉え方、考え方に変化が現れるようになる。
 効果の例として、情緒が安定した、思いやりが生れた、責任感が芽生えた、対人関係が好転した、意欲が向上したなどがある。
 これにより、自分や他者への理解・信頼が高まり、自己の存在価値や責任を自覚することによって社会生活の改善につながったり、また何か苦しい状況に置かれたとき、自分の人生を肯定的に捉えられるような、根本的な考え方の変化を得る事ができる。

 少し難しいですね。これは心・精神の安定を得るためということでしょうか。結果として、人間関係の不和、不登校、非行、鬱、アルコール依存症、心身症、摂食障害、神経症、ギャンブル依存症などの精神疾患に対する症状改善もすることがあるとのこと。

 そして内観療法の方法はというと、
 母、父、兄弟、自分の身近な人に対しての今までの関わりを順番に、①してもらったこと(世話になったこと) ②して返したこと ③迷惑をかけたこと の3点について、具体的な事実を思い出し、調べます。これを、小学校、中学校、高校時代…と年代順に思い出し調べていきます。母、父、兄弟…と順に行い、一通り終わったらまた母に戻り…これを繰り返します。
 その結果、上記に述べたような効果、結果が得られるようです。必ずしも絶対に改善するというわけではないようですが、後から効果が見られたり、焦らず根気よく続けることによって変化が現れることもあるようです。
 たしかに私も幼い日の記憶を思い出しているときに、思い出したことのない新たな記憶がよみがえり、はっとしたことがあります。また過去の自分のおこないを振り返ったときに、なぜ自分はあの時、あんな行動を取ったのだろうと、その時の自分の感情を探ぐり、今の自分に活かそうとしたこともあります。おそらく内観とはこれを本格的に一定期間を通して集中して行い、前向きに人生を生きられるようアイデンティティーを確立するためのものだと思います。
 たしかにこの内観を太宰治が行い、何かしらの効果を得ることができたら、作品はまるっきり違ったものに変化したことでしょう。しかし、太宰治が内観の効果により、酒、煙草を断ち、自殺未遂、心中未遂も行わず、愛人も作らず、それこそ人間関係から自身の人生においても健全なものとなっていたら、それはそれで良い作品を残したかもしれませんが、悪い意味で何にも面白味もない作品ばかりを書く作家になっていたかもしれません。どちらも否定はできないですね。『人間失格』ではなく、『人間合格』を書いていたかもしれません。

 内観に興味のある方は是非自分で調べてみて下さい。


by dazaiosamuh | 2018-11-21 13:29 | 太宰治 | Comments(0)

 書店で偶然発見した。『転生!太宰治 転生して、すみません』
 最近は書店でこの『転生』と題された本をよく目にする。私は今まで一度も読んだことがなく、興味もなかったが、それにしてもその種類の多さに驚き、書店の棚に並べられたその『転生』本を何となく眺めていたら、『太宰治』の文字が目に飛び込んできて、そこに『転生!太宰治』とあった。
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 2017年に転生した太宰治。気絶していたところを女性に救われ自宅で看病してもらうも、懲りずにその女性と井の頭公園の池で心中。
 その後、家を追い出されるような形となり、そこからカプセルホテル生活が始まり…メイドカフェを体験したり、自分の本を書店で発見して興奮したり、芥川賞のパーティに乱入しつまみ出されたり…。
 太宰はある日パソコンを手に入れ、カプセルホテルで起動し、寝ることも忘れてとググりまくる。そこでしがない地下アイドルのブログを発見する。それは自分が心中した女性(女性も無事)の妹・乃々夏であった。太宰は文壇に対する復讐として芥川賞を再び狙うことを決め、そのために乃々夏にまずは小説家になってもらうために、小説執筆と並行して、活動している地下アイドルのブログの文章の書き方のコツを教えたりなどし、アクセス数を順調に伸ばしていく。
 そしてある出版社からメールでオファーが届き…。

 現代に転生し、様変わりした世の中に戸惑いながらも喜びややりがいを見い出し、奮闘する太宰の姿が、「太宰っぽく」描かれている。太宰好きなら一度は考えた、「太宰が今の時代にいたらどんな反応、どんな生活をするかなあ」というのをそのまんま書いたような本です。妄想をそのまま本にしたような…。太宰治の作品の台詞も多く散りばめられているため、太宰の全作品、関連書籍を読んだことのある人ならすべて気付くはず。思わずにやりとしてしまう。太宰が三鷹の書店で自分の『太宰治コーナー』を発見し、店員から、教科書にも載っていますと言われたときの太宰治の嬉しそうな顔が頭に浮かんできます。
 もし太宰が本当に現代に転生したら、自分の本が何千万部も売れていることに驚愕し、それこそ良い意味でくらくらと眩暈し、倒れるかもしれませんね。
 読んでいて個人的に面白かったのは、メイドカフェでの話で、メイドカフェに来ている客の男性達のことを没落貴族と解釈し勘違いしているところ…。
客席に案内されて気づいたのは、店内の装飾が、やたらとピンク色を使っていることと、お客のほとんどが男性で、上等とはいえない格好をしていることでした。おしゃれから遠くはなれた、あるいは、おしゃれを履きちがえた服装が多く、これが本当に貴族なのかと、最初はとまどってしまいましたが、すぐに思い直します。
 彼らは、没落貴族なのです。
 みな、爵位をうばわれ、土地を没収され、おちるところまで落ち、服を買う金さえなく、それでも貴族の時代を忘れられず、妻の着物を質に入れたなけなしの金をにぎって、このメイドカフェに通っているのだと思うと、涙が出そうになりました。くるしい時代なのだ。それでも、生きるために、こうして、ひそひそ、貴族の残り香を嗅ぎに、いらっしゃるのだ。追憶。郷愁。ごっこ遊び。だとしても、私は彼らを、軽蔑しません。

 たしかに1948年から突然現代に転生したら見るものすべてに戸惑い、変な解釈をするかもしれませんが、読んでて「太宰、アホすぎるよ」と思わずクスっと笑ってしまいます。
 あくまで現代に太宰がいたらこんな感じかなあというのを書いてみた、「太宰っぽい感じ」の本ですね。気分転換に読むには良いかもしれません。


by dazaiosamuh | 2018-11-13 14:09 | 太宰治 | Comments(4)

 1933年(昭和8年)7月、檀一雄は友人古谷綱武から勧められて太宰治の作品『思い出』『魚服記』を読み、『作為された肉感が明滅するふうのやるせない抒情人生だ。文体に肉感がのめりこんでしまっている』と心惹かれた。檀は古谷に『太宰治に会いたい』と言い、数日後、古谷の家で会う事ができ、その時は簡単な挨拶で終わりまた三人で会う約束をし太宰はすぐに帰宅する。しかし、檀は家に帰ってから落ち着かなかった。再度『魚服記』『思い出』を読み、『耐えている文脈が、甘美で、不吉だ』と、居てもたってもいられずにその日のうちに太宰を追いかける決心をした。
 前もって渡されていた手書きの地図を頼りに、太宰治の住む飛島家の自宅を探し当てた。
 太宰治は飛島家と共に杉並区天沼1丁目136番地の家で暮らしていた。太宰治と小山初代は同年2月に杉並区天沼3丁目741番地に飛島家が母屋に、太宰夫妻は離れに住んでいたが、荻窪駅から徒歩20分以上かかることから、飛島家の飛島定城の通勤や太宰が通学に不便なために駅に近い場所に移った。太宰夫妻が二階二間に、飛島家家族が階下三間に住んだ。
 檀が太宰の居る二階へ上がると、太宰は緑色の火鉢に手をかざしていた。檀に目をやると、意外だという表情をした。太宰夫人が一升瓶を提げてきて、徳利に移した。

鮭缶が丼の中にあけられた。太宰はその上に無闇と味の素を振りかけている。
「僕がね、絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ」
 クスリと笑い声が波立った。笑うと眉毛の尻がはげしく下がる。
「飲まない?」
私は盃を受けた。夫人が、料理にでも立つふうで、階段を降りていった。
「君は…」
 と、私はそれでも、一度口ごもって、然し思い切って、口にした。
「天才ですよ。沢山書いて欲しいな」
 太宰は暫時身もだえるふうだった。しばらくシンと黙っている。やがて全身を投擲でもするふうに、「書く」
 私も照れくさくて、ヤケクソのように飲んだ。
 人はキザだと云うだろうか。然し私は今でもその日の出来事をなつかしく回顧出来るのである。』(小説太宰治 『檀一雄著』)

 檀一雄が太宰治と出会ったばかりの頃の印象的な場面だ。ここから太宰治と檀一雄は親密になり交流は盛んになっていく。
 それにしても、太宰が『絶対、確信を持てるのは味の素だけ』と発言したのは、どのような意味だろうか。食料品に対することなのか、人間関係や世間、社会を含めてのことか、それとも全てをひっくるめての意味なのか。この時太宰は24歳。3年前の昭和5年に共産党支持者の組織への参加や小山初代の上京事件、それに伴う分家除籍、さらに田辺あつみこと田部シメ子との鎌倉心中など、人間関係に慌ただしかった。
 時代が流れても変わらぬ美味しさをもつ『味の素』に妙な安堵感を持ったということか。
 そこで『味の素』がいつ頃から販売されるようになったのか気になり調べたところ、『味の素』がうまみ調味料として生活者向けに一般販売されるようになったのは1909年(明治42年)5月で、『薬品用のガラス瓶』に入れて薬種問屋を通じて薬の小売店に販売を委託したのが始まりとのこと。創業時の『味の素』は純度85%位で、色は褐色がかった粉末状であった。
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 写真は味の素株式会社のほんだし。私は味噌汁(インスタント)などに入れています。(料理を普段しないので味噌汁ぐらいしか使う場面がない)
 それにしても『味の素』がこんなに歴史が古いとは知りませんでした。しかも1909年と言えば太宰治(本名・津島修治)が生れた年(太宰は6月生まれ)と同じではないか。
 1927年(昭和2年)には、宮内省の買い上げ品の指定を受け毎年3回製品を上納するようになり、特別に精製し上納した。その後すべての製品を上納品と同じ品質に向上させるために取り組み、1933年(昭和8年)には、『味の素』の全製品が100%結晶として生産できるようになった。
 ちょうど1933年(昭和8年)は檀一雄が太宰治のいる家に行き、『絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ』の発言を聞いた年です。つまり太宰が鮭缶を丼にあけ、その上からかけた『味の素』は純度100%の『絶対、確信を持てる』完璧なものだったのです。『味の素』が世間に普及し始めたころ、類似品(それも品質的にも問題の多いもの)が多く出回っていたとのことで、もしかしたら太宰の、
『僕がね、絶対、確信できるのは味の素だけなんだ』の発言は、
『僕がね、絶対、確信できるのは、他社商品ではない!!これなんだ!!味の素だけなんだ』という意味だったのかもしれませんね。



by dazaiosamuh | 2018-11-02 12:43 | 太宰治 | Comments(0)

 だいぶ久しぶりの記事になります。太宰治と甲府の記事をもう一つだけ書こうと思っていながらすっかり忘れていました。

 太宰治は昭和14年(1939)1月に石原美知子と結婚し、甲府で新婚生活を送るが同年9月には東京の三鷹へ引越す。太宰治はその後、度々甲府を訪れているが、昭和16年4月に甲府市錦町の東洋館という温泉旅館に井伏鱒二と滞在している。そしてここで書き途中であった長編小説『新ハムレット』を執筆している。

 この東洋館も前回の甲府の記事で書いた『梅ヶ枝旅館』と同じく、旅館明治の館内にある太宰治資料室で太宰ゆかりの地の住所が書かれたボードにその住所と場所が記載されていた。
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 東洋館は当時甲府市錦町18番地(現・甲府市中央1‐6‐3)に温泉旅館として営業していた。太宰治はここに来る前に、同年2月19日に静岡県清水市の『三保松原の突端、白い燈台の下の宿屋三保園』においても『新ハムレット』の執筆に取り組んでいる。
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 現在の東洋館跡。全く面影はないが、よくよく見ると…
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 英文字で『TOYOKAN』とある。さらに…
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 建物の中にも『東洋館ビルご案内』とあり、建物は無くなったが『東洋館』の名前だけは今でも残っているようだ。
 ちなみに、太宰は甲府市錦町東洋館内を住所として昭和16年4月9日の消印で山岸外史に葉書を送っており、『甲府では、どうも酒を飲む機会も多く、仕事が思ふやうに、はかどりません。甚だ心細く、淋しい気持であります。』と記している。
 太宰の師である井伏鱒二にとって山梨は馴染みの場所で、また太宰は甲府にいるとき井伏と共にすることが多かった。井伏は交友関係も豊かで、それもあり山梨の文化人たちともよく酒を飲む機会も多かったというから、酒好きの太宰が仕事がはかどらなかったとするのも無理はない。

 長くだらだらと続いてしまったが、太宰治と甲府の記事は一応はこれで終わりとなります。しかし、山梨、甲府におけるゆかりの地はまだまだあるので、引き続き調べてまた自分の足で歩いて記事にしたいと思います。ひとまずは、太宰の甲府におけるゆかりの地は大まかではあるが、記事に出来たと思います。


by dazaiosamuh | 2018-10-25 13:53 | 太宰治 | Comments(0)

 先週10月3日、毎月1回訪れている銀座のバー・ルパンが開店90周年を迎えた。混むだろうなと思い、開店時間から僅か数分後に行ったにもかかわらず(普段も開店時間とほぼ同時に行ってますが…)、すでにカウンターには客が5、6人座っていた。その後、私のすぐ後からぞくぞくと客が訪れ、あっという間に満席で、空いてる時間帯でしかルパンで飲んだことのない私にはある意味新鮮であった。
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 90周年ということで、『Ardmore』(アイラ島のモルト原酒を使ったウィスキー)のルパンオリジナルボトルがあり、「(ウィスキー好きなら)今日はこれを飲まなきゃいかんでしょ」とマスターがグラスに注ぐ。
 
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 他に記念品として、ルパンオリジナルの付箋紙が配られ(数に限りが…)、また常連客には案内のハガキと交換によるルパン90周年オリジナルグラスを頂くことができた。どちらも使うのがもったいない。私のよこで飲んでいた客が、『Ardmore』を記念として購入していたので、私もつられて買ってしまった(8千円…)。グラスを使うのがもったいないが、せっかくなので記念グラスで飲もうと思います。

 ルパンは1928年(昭和3年)10月3日に開店した。太宰治もまさかここまで長く続いているとは思っていなかったのではないだろうか。最近は客層に変化があり、『文豪ストレイドッグス』の影響で国内だけでなく海外からの女性の客が増え、しかも一人で来店する女の子もいて、(マスターも鼻の下を伸ばして…)大いに賑わっている。

 付箋紙などの記念品はもう無いかもしれないが、これを機に行ったことのない方は、太宰治や織田作之助、坂口安吾が訪れたバー・ルパンに行ってみるのもいいかもしれない。



by dazaiosamuh | 2018-10-09 21:27 | 太宰治 | Comments(0)

 2016年1月5日の記事で岩波文庫の多機能文庫本ケースを紹介したが、つい先日、新たにブックカバーとメモ帳を発見した。
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 多機能文庫本ケースと同じく太宰治の『No Longer Human』『Good bye』の文字の入ったブックカバーだ。対応サイズは『縦148mm、横105mm、厚み25mmぐらいまで』とシールが貼ってあった。
 価格は1600円(税抜き)。高いため購入に少し躊躇ってしまったが、普通に本を読むのであれば多機能文庫本ケースよりも使い勝手は良い。値段が微妙に高いため保存用まで買う気にはなれなかった。
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 メモ帳もデザインは全く同じ。約100ページあり、罫線はなく全くの白紙であるため、自由に色々と書くこともできる。本体価格350円(税抜き)でブックカバーと共にちょっとしたプレゼントに良いかもしれない。好みのブックカバーをつけると本を読むモチベーションがあがるのは私だけだろうか。これによりますます読書量が増えればいいなと自分で思う。


by dazaiosamuh | 2018-09-28 22:52 | 太宰治 | Comments(0)