2014年 03月 12日
太宰治 愛着深き船橋時代 №4 太宰旧宅跡①
そこは、細い路地であった。時間帯がお昼時であったこともあり、人通りは皆無であった。路地を、旧宅跡があるであろう箇所をじっと見ながらゆっくりと進んだ。すると、一軒の家の前で、私の視界に石碑の上部が飛び込んできた。
太宰が書いた葉書の案内図だけでは、ここへ辿り着くことはできず、書籍やネット等を利用させてもらい、無事にたどり着くことができてよかった。
さて、太宰治はここ船橋に昭和10年の7月1日に転居してきた。以前の記事にも書いたが、盲腸炎をきっかけに、手術後の腹膜炎を起こし、その苦痛を和らげるために打っていた注射で重度のパビナール中毒に陥ってしまう。そのため心配した周囲の勧めなどもあり、船橋に療養のため転居してきたのだ。
また、『晩年』の『めくら草紙』の中でも移り住んできたことが書かれている。
『私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思った。私は家人に言いつけて、どれでもいいから一本、ゆずって下さるよう、お隣りへたのみに行かせた。家人は着物を着かえながら、お金は失礼ゆえ、そのうち私が東京へ出て袋物かなにかのお品を、と言ったが、私は、お金のほうがいいのだ、と言って、二円、家人に手渡した。』
この時に太宰を診た医師は、長直登と推定されている。転地療養のために船橋へ移ったというのに、パビナール中毒は加速するばかりであった。さらに、転居後、佐藤春夫の義兄から第1回芥川賞の最終候補に『逆行』と『道化の華』が上がっていることを知らされ舞い上がるが、『逆行』は次席に入選し、『道化の華』は落選に終わった。『道化の華』は落選したが、これを推薦してくれた佐藤春夫を以後師事するようになる。
また、『文藝春秋』9月号に芥川賞選考経緯が公表され、その中で作家で選考委員の川端康成が「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざるの憾みがあった」と述べた。私生活の恥部を指摘され、激昂した太宰は反論した。「小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と。
これに対して、川端は同誌11月号に芥川賞選考経緯に対する太宰の誤解を招いたことに素直に大人の対応で詫びつつ、後に「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と厳しく戒めた。
これが、所謂芥川賞事件の発端である。
太宰の元々の被害妄想意識に、パビナール中毒も加わり心身共に太宰の言動は狂言的になっていった。さらに、『東京八景』に『船橋に移ってからは町の医院に行き、自分の不眠と中毒症状を訴えて、その薬品を強要した。のちには、その気の弱い町医者に無理矢理、証明書を書かせて、町の薬屋から直接に薬品を購入した。気が附くと、私は陰惨な中毒患者になっていた。たちまち金につまった。私は、その頃、毎月九十円の生活費を、長兄から貰っていた。それ以上の臨時の入費に就いては、長兄も流石に拒否した。当然の事であった。私は、兄の愛情に報いようとする努力を何一つ、していない。身勝手に、命をいじくり廻してばかりいる。(中略)私は、日本一の陋劣な青年になっていた。十円、二十円の金を借りに、東京へ出て来るのである。雑誌社の編輯員の面前で、泣いてしまった事もある。あまり執拗くたのんで編輯員に怒鳴られた事もある。』
どうやら、太宰の船橋生活は心身だけではなく、借金だらけでボロボロだったようです。芥川賞を取れれば借金も返すことができ、自分の名を広めることもできるのだ。さらに原稿料もあがり、今後の執筆、小山初代との生活にも余裕ができ、作家としてさらなる飛躍をすることもできる。
しかし、ことはそう簡単に進むことはなかった。
ちなみに、船橋で書かれた『ダス・ゲマイネ』は昭和10年10月号の「文藝春秋」に発表された作品で、タイトルはドイツ語で、通俗性、卑俗性を意味する言葉らしいが、これに対して師の井伏鱒二は、「ハイカラ過ぎる」と題を変更するように言ったが、太宰は「変えるつもりはない」と語り、その真意については言葉を濁した。
後年、津軽を旅した井伏は、そこで「ダス・ゲマイネ」が津軽の言葉にも通じていることを知った。
それは、津軽弁で「ン・ダスケ・マイネ」とは「それだから駄目」という意味だったのである。