去年の夏、太宰治ゆかりの地を歩くために1泊2日で甲府を訪れ、某ホテルへ泊まった。猛暑で歩き疲れたためベッドでぐったりと横になっていた時、備え付けのテーブルの上に置いてあった冊子に目がいった。
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 内観体験記。内観?
 内観とは何でしょう。何気なくその冊子を開き1行目を読むと…
もしも、太宰治が「内観」を体験していたら、日本の近代文学史は変わっていたろう。ヒトラーがしていたら人類の歴史は違ったものになっていたろう。六月末からの一週間、奈良・大和・郡山で内観を体験して、そう思った。太宰はおそらく、その才能と感受性とで、人の心を根こそぎ揺り動かす種類の「文豪」になっていたかもしれないし、ヒトラーの演説は狂気をあおるのではなく、チャップリンの映画『独裁者』そのままに人への愛を説いただろう……

 このような出だしで始まり、冊子のタイトルにもなっているようにある新聞記者の内観体験記が書かれているが、『内観』という言葉を初めて聞いたことと、なぜか冊子の表紙の雰囲気などから怪しい宗教の勧誘なのかと偏見の眼で訝ってしまったが、『内観』とは、『内観療法』という精神療法(心理療法)のことで、すでに1960年代から精神医療現場で導入され、また国際的な評価も得ており、2003年には国際内観療法学会も設立されている。
 では、内観の目的と効果はというと、
 自分自身で自己探求を行い、過去の自分の振る舞いや行いを振り返り、『気づき』を得ることにより自己を確立させる。自己の探究を続けることによって、ある出来事についての新しい見方や事実に気づき、物事の捉え方、考え方に変化が現れるようになる。
 効果の例として、情緒が安定した、思いやりが生れた、責任感が芽生えた、対人関係が好転した、意欲が向上したなどがある。
 これにより、自分や他者への理解・信頼が高まり、自己の存在価値や責任を自覚することによって社会生活の改善につながったり、また何か苦しい状況に置かれたとき、自分の人生を肯定的に捉えられるような、根本的な考え方の変化を得る事ができる。

 少し難しいですね。これは心・精神の安定を得るためということでしょうか。結果として、人間関係の不和、不登校、非行、鬱、アルコール依存症、心身症、摂食障害、神経症、ギャンブル依存症などの精神疾患に対する症状改善もすることがあるとのこと。

 そして内観療法の方法はというと、
 母、父、兄弟、自分の身近な人に対しての今までの関わりを順番に、①してもらったこと(世話になったこと) ②して返したこと ③迷惑をかけたこと の3点について、具体的な事実を思い出し、調べます。これを、小学校、中学校、高校時代…と年代順に思い出し調べていきます。母、父、兄弟…と順に行い、一通り終わったらまた母に戻り…これを繰り返します。
 その結果、上記に述べたような効果、結果が得られるようです。必ずしも絶対に改善するというわけではないようですが、後から効果が見られたり、焦らず根気よく続けることによって変化が現れることもあるようです。
 たしかに私も幼い日の記憶を思い出しているときに、思い出したことのない新たな記憶がよみがえり、はっとしたことがあります。また過去の自分のおこないを振り返ったときに、なぜ自分はあの時、あんな行動を取ったのだろうと、その時の自分の感情を探ぐり、今の自分に活かそうとしたこともあります。おそらく内観とはこれを本格的に一定期間を通して集中して行い、前向きに人生を生きられるようアイデンティティーを確立するためのものだと思います。
 たしかにこの内観を太宰治が行い、何かしらの効果を得ることができたら、作品はまるっきり違ったものに変化したことでしょう。しかし、太宰治が内観の効果により、酒、煙草を断ち、自殺未遂、心中未遂も行わず、愛人も作らず、それこそ人間関係から自身の人生においても健全なものとなっていたら、それはそれで良い作品を残したかもしれませんが、悪い意味で何にも面白味もない作品ばかりを書く作家になっていたかもしれません。どちらも否定はできないですね。『人間失格』ではなく、『人間合格』を書いていたかもしれません。

 内観に興味のある方は是非自分で調べてみて下さい。


by dazaiosamuh | 2018-11-21 13:29 | 太宰治 | Comments(0)

 書店で偶然発見した。『転生!太宰治 転生して、すみません』
 最近は書店でこの『転生』と題された本をよく目にする。私は今まで一度も読んだことがなく、興味もなかったが、それにしてもその種類の多さに驚き、書店の棚に並べられたその『転生』本を何となく眺めていたら、『太宰治』の文字が目に飛び込んできて、そこに『転生!太宰治』とあった。
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 2017年に転生した太宰治。気絶していたところを女性に救われ自宅で看病してもらうも、懲りずにその女性と井の頭公園の池で心中。
 その後、家を追い出されるような形となり、そこからカプセルホテル生活が始まり…メイドカフェを体験したり、自分の本を書店で発見して興奮したり、芥川賞のパーティに乱入しつまみ出されたり…。
 太宰はある日パソコンを手に入れ、カプセルホテルで起動し、寝ることも忘れてとググりまくる。そこでしがない地下アイドルのブログを発見する。それは自分が心中した女性(女性も無事)の妹・乃々夏であった。太宰は文壇に対する復讐として芥川賞を再び狙うことを決め、そのために乃々夏にまずは小説家になってもらうために、小説執筆と並行して、活動している地下アイドルのブログの文章の書き方のコツを教えたりなどし、アクセス数を順調に伸ばしていく。
 そしてある出版社からメールでオファーが届き…。

 現代に転生し、様変わりした世の中に戸惑いながらも喜びややりがいを見い出し、奮闘する太宰の姿が、「太宰っぽく」描かれている。太宰好きなら一度は考えた、「太宰が今の時代にいたらどんな反応、どんな生活をするかなあ」というのをそのまんま書いたような本です。妄想をそのまま本にしたような…。太宰治の作品の台詞も多く散りばめられているため、太宰の全作品、関連書籍を読んだことのある人ならすべて気付くはず。思わずにやりとしてしまう。太宰が三鷹の書店で自分の『太宰治コーナー』を発見し、店員から、教科書にも載っていますと言われたときの太宰治の嬉しそうな顔が頭に浮かんできます。
 もし太宰が本当に現代に転生したら、自分の本が何千万部も売れていることに驚愕し、それこそ良い意味でくらくらと眩暈し、倒れるかもしれませんね。
 読んでいて個人的に面白かったのは、メイドカフェでの話で、メイドカフェに来ている客の男性達のことを没落貴族と解釈し勘違いしているところ…。
客席に案内されて気づいたのは、店内の装飾が、やたらとピンク色を使っていることと、お客のほとんどが男性で、上等とはいえない格好をしていることでした。おしゃれから遠くはなれた、あるいは、おしゃれを履きちがえた服装が多く、これが本当に貴族なのかと、最初はとまどってしまいましたが、すぐに思い直します。
 彼らは、没落貴族なのです。
 みな、爵位をうばわれ、土地を没収され、おちるところまで落ち、服を買う金さえなく、それでも貴族の時代を忘れられず、妻の着物を質に入れたなけなしの金をにぎって、このメイドカフェに通っているのだと思うと、涙が出そうになりました。くるしい時代なのだ。それでも、生きるために、こうして、ひそひそ、貴族の残り香を嗅ぎに、いらっしゃるのだ。追憶。郷愁。ごっこ遊び。だとしても、私は彼らを、軽蔑しません。

 たしかに1948年から突然現代に転生したら見るものすべてに戸惑い、変な解釈をするかもしれませんが、読んでて「太宰、アホすぎるよ」と思わずクスっと笑ってしまいます。
 あくまで現代に太宰がいたらこんな感じかなあというのを書いてみた、「太宰っぽい感じ」の本ですね。気分転換に読むには良いかもしれません。


by dazaiosamuh | 2018-11-13 14:09 | 太宰治 | Comments(2)

 1933年(昭和8年)7月、檀一雄は友人古谷綱武から勧められて太宰治の作品『思い出』『魚服記』を読み、『作為された肉感が明滅するふうのやるせない抒情人生だ。文体に肉感がのめりこんでしまっている』と心惹かれた。檀は古谷に『太宰治に会いたい』と言い、数日後、古谷の家で会う事ができ、その時は簡単な挨拶で終わりまた三人で会う約束をし太宰はすぐに帰宅する。しかし、檀は家に帰ってから落ち着かなかった。再度『魚服記』『思い出』を読み、『耐えている文脈が、甘美で、不吉だ』と、居てもたってもいられずにその日のうちに太宰を追いかける決心をした。
 前もって渡されていた手書きの地図を頼りに、太宰治の住む飛島家の自宅を探し当てた。
 太宰治は飛島家と共に杉並区天沼1丁目136番地の家で暮らしていた。太宰治と小山初代は同年2月に杉並区天沼3丁目741番地に飛島家が母屋に、太宰夫妻は離れに住んでいたが、荻窪駅から徒歩20分以上かかることから、飛島家の飛島定城の通勤や太宰が通学に不便なために駅に近い場所に移った。太宰夫妻が二階二間に、飛島家家族が階下三間に住んだ。
 檀が太宰の居る二階へ上がると、太宰は緑色の火鉢に手をかざしていた。檀に目をやると、意外だという表情をした。太宰夫人が一升瓶を提げてきて、徳利に移した。

鮭缶が丼の中にあけられた。太宰はその上に無闇と味の素を振りかけている。
「僕がね、絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ」
 クスリと笑い声が波立った。笑うと眉毛の尻がはげしく下がる。
「飲まない?」
私は盃を受けた。夫人が、料理にでも立つふうで、階段を降りていった。
「君は…」
 と、私はそれでも、一度口ごもって、然し思い切って、口にした。
「天才ですよ。沢山書いて欲しいな」
 太宰は暫時身もだえるふうだった。しばらくシンと黙っている。やがて全身を投擲でもするふうに、「書く」
 私も照れくさくて、ヤケクソのように飲んだ。
 人はキザだと云うだろうか。然し私は今でもその日の出来事をなつかしく回顧出来るのである。』(小説太宰治 『檀一雄著』)

 檀一雄が太宰治と出会ったばかりの頃の印象的な場面だ。ここから太宰治と檀一雄は親密になり交流は盛んになっていく。
 それにしても、太宰が『絶対、確信を持てるのは味の素だけ』と発言したのは、どのような意味だろうか。食料品に対することなのか、人間関係や世間、社会を含めてのことか、それとも全てをひっくるめての意味なのか。この時太宰は24歳。3年前の昭和5年に共産党支持者の組織への参加や小山初代の上京事件、それに伴う分家除籍、さらに田辺あつみこと田部シメ子との鎌倉心中など、人間関係に慌ただしかった。
 時代が流れても変わらぬ美味しさをもつ『味の素』に妙な安堵感を持ったということか。
 そこで『味の素』がいつ頃から販売されるようになったのか気になり調べたところ、『味の素』がうまみ調味料として生活者向けに一般販売されるようになったのは1909年(明治42年)5月で、『薬品用のガラス瓶』に入れて薬種問屋を通じて薬の小売店に販売を委託したのが始まりとのこと。創業時の『味の素』は純度85%位で、色は褐色がかった粉末状であった。
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 写真は味の素株式会社のほんだし。私は味噌汁(インスタント)などに入れています。(料理を普段しないので味噌汁ぐらいしか使う場面がない)
 それにしても『味の素』がこんなに歴史が古いとは知りませんでした。しかも1909年と言えば太宰治(本名・津島修治)が生れた年(太宰は6月生まれ)と同じではないか。
 1927年(昭和2年)には、宮内省の買い上げ品の指定を受け毎年3回製品を上納するようになり、特別に精製し上納した。その後すべての製品を上納品と同じ品質に向上させるために取り組み、1933年(昭和8年)には、『味の素』の全製品が100%結晶として生産できるようになった。
 ちょうど1933年(昭和8年)は檀一雄が太宰治のいる家に行き、『絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ』の発言を聞いた年です。つまり太宰が鮭缶を丼にあけ、その上からかけた『味の素』は純度100%の『絶対、確信を持てる』完璧なものだったのです。『味の素』が世間に普及し始めたころ、類似品(それも品質的にも問題の多いもの)が多く出回っていたとのことで、もしかしたら太宰の、
『僕がね、絶対、確信できるのは味の素だけなんだ』の発言は、
『僕がね、絶対、確信できるのは、他社商品ではない!!これなんだ!!味の素だけなんだ』という意味だったのかもしれませんね。



by dazaiosamuh | 2018-11-02 12:43 | 太宰治 | Comments(0)