甲府の湯村温泉郷にある太宰治が宿泊した旅館明治のさらに少し奥の方へ行くと、塩澤寺(えんたくじ)というお寺がある。厄除地蔵で有名なお寺で、太宰治の短編作品『黄村先生言行録』にも登場する。
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 黄村先生は山椒魚が大好きで、主人公に山椒魚について熱く語り、あげくに一丈でなくても六尺でもいいから見てみたい、などと滅茶苦茶な事を言い出す。
 それから数日後、主人公は甲府の湯村温泉へ、東京に近いわりに安くて静か、という理由からよく訪れる温泉旅館へ旅行に行くのだが、行った時期がちょうど2月のお祭りの日で…。
それは二月の末の事で、毎日大風が吹きすさび、雨戸が振動し障子の破れがハタハタ囁き、夜もよく眠れず、私は落ちつかぬ気持で一日一ぱい炬燵にしがみついて、仕事はなんにも出来ず、腐りきっていたら、こんどは宿のすぐ前の空地に見世物小屋がかかってドンジャンドンジャンの大騒ぎをはじめた。悪い時に私はやって来たのだ。毎年、ちょうどその頃、湯村には、厄除地蔵のお祭りがあるのだ。たいへん御利益のある地蔵様だそうで、信濃、美延のほうからも参詣人が昼も夜もひっきりなしにぞろぞろやって来るのだ。私は地団駄踏んだ。厄除地蔵の祭りが二月の末に湯村にあるという事は聞いて知っていたのに、うっかりしていた。

 主人公はあきらめて、自分もお地蔵様をおまいりすることにし外へ出ると、山椒魚の見世物小屋を発見する。それを見て黄村先生を思い出し、すぐに電文をしたため黄村先生を呼ぶ。先生は主人公の泊まる旅館の部屋に山椒魚の見世物小屋の主人を呼んでもらい、『私は山椒魚を尊敬している。出来る事なら、わが庭の池に迎え入れてそうして朝夕これと相親しみたいと思っている』などと言うが、まるで取り合ってもらえない。そして、『一尺二十円、どうです』と値段交渉に出る。
「まことに伯耆国淀江村の百姓の池から出た山椒魚ならば、身のたけ一丈ある筈だ。それは書物にも出ている事です。一尺二十円、一丈ならば二百円。』
「はばかりながら三尺五寸だ。一丈の山椒魚がこの世に在ると思い込んでいるところが、いじらしいじゃないか。」
「三尺五寸! 小さい。小さすぎる。伯耆国淀江村の…』
「およしなさい。見世物の山椒魚は、どれでもこれでもみんな伯耆国は淀江村から出たという事になっているんだ。昔から、そういう事になっているんだ。小さすぎる? 悪かったね。あれでも、私ら親子三人を感心に養ってくれているんだ。一万円でも手放しゃしない。一尺二十円とは、笑わせやがる。旦那、間が抜けて見えますぜ。」

 見世物小屋の主人は鼻で笑って去っていき、黄村先生はただ馬鹿々々しい失敗をして終わる。

『黄村先生言行録』は、昭和17年11月20日~30日の間に執筆・脱稿し、昭和18年1月1日付発行の『文学界』新年号に発表された。
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 急な石段を上りきると、国宝の本殿がある。当時、塩澤寺までの道は畑が広がっていたという。

『黄村先生言行録』にあるとおり、毎年2月13日から14日にかけて、厄除地蔵尊大祭が行われ、昼12時まで大護摩供を行い、訪れる人々の開運厄除・家内安全をお祈りしている。さらに百余の軒を連ねる露店が、湯村温泉街から石段まで並び、しかも十万人近くの人波に埋め尽くされるため、他に例のない殷賑を極めたお祭りとなるらしい。

 太宰が実際にお祭りに行ったのかは不明。太宰が甲府で生活したのは、寿館が昭和13年11月中旬~昭和14年1月まで。御崎町の新居には昭和14年1月~8月までいた。昭和17年2月9日頃に、湯村温泉の旅館明治に滞在し『正義と微笑』の続きを執筆。翌年の昭和18年3月中旬頃にはまた湯村温泉の旅館明治にて滞在し、途中であった『右大臣実朝』の稿を継いだ。
『黄村先生言行録』の描写などを読むと、祭りに行ったことがあるような印象を私は受けたがどうなのだろうか。
 ちなみにこの黄村先生はシリーズ化しており、他に『花吹雪』『不審庵』がある。
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 塩澤寺には『舞鶴のマツ』があり、山梨県の指定天然記念物になっている。このマツを撮ろうと思いカメラを構えたところ、妙な緊張を強いるような羽音が聞えて来た。嫌な予感がして音のする方へ顔を向けると、スズメバチだった。彼を刺激しないようにまるで自分がお地蔵様になったかのようにじっとその場で身動きせずに固まり、どうにかやり過ごしてからマツの写真を撮り、一目散に階段を駆け下りて、近くに置いていたレンタサイクルにまたがり、その場を急いで去りました。この時は、本当に危なかった。特大サイズのスズメバチが『舞鶴のマツ』のまわりを世話しなく飛んでいた。これでは『雀蜂のマツ』ではないか。危うく刺されるところだった。
 ちなみに『舞鶴のマツ』の由来は、鶴がまるで両翼を広げて舞い上がろうとしている姿に似ていることからその名が付けられた。もしかしたらスズメバチは鶴と一緒に飛んで遊んでいたのかもしれない。




by dazaiosamuh | 2018-05-27 17:09 | 太宰治 | Comments(0)

 先日、仕事帰りに地元のブックオフに立ち寄り、文学のコーナーへ行くと、『太宰治 100の言葉』という本を見つけた。タイトルの通り太宰治の名言を集めた本で、ちょうど最近は仕事で疲れていたりなどして、家と会社の往復だけのような状態であったため、改めて太宰から人生に役立つ、勇気を貰える、共感できる言葉を貰おうと思い購入しました。
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自分の苦悩に狂いすぎて、他の人もまた精一ぱいで生きているのだという当然の事実に気付なかった。』(東京八景)
 仕事や人間関係、病気など色々なことで頭がいっぱいになると、私も自分のことばかりで他人も精一杯生きているんだということになかなか気付けない。辛いのはみんな一緒なのだ。

生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。』(斜陽)

 この言葉は、私が太宰の本を2冊目に読んだ『斜陽』で書かれた言葉で、20代前半に、「人生とは何なんだろう、生きるとは何なのだろう」ともやもやしていた頃に共感した記憶がある。苦しくても、生きて生きて生き抜くというのは、本当に大事業だといまでも思っています。

愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。』(随筆「思案の敗北」)
人間の生活の苦しみは、愛の表現の困難に尽きるといってよいと思う。この表現のつたなさが、人間の不幸の源泉なのではあるまいか。』(惜別)
愛は、最高の奉仕だ。みじんも、自分の満足を思っては、いけない。』(火の鳥)

 太宰は『愛』について語る人であった。愛の苦悩者と言ってよいと思う。数年前に、青森で太宰の親戚にあたる津島廉造さんから太宰治がどういう人間であったか、話を聞かせてもらったが、『彼(太宰治)は、愛に苦悩した人だったと思います。』と語っていたのが印象的であった。
 愛に満ち溢れた人生であれば素晴らしいが、その愛によってすべてに絶望することもある。愛は、たしかに存在する。表現することが難しい。その通りだと思う。

 紹介したこの本から何個か載せましたが、この本だけでなく、自分で太宰の本を読んでいて気に入った言葉がたくさんあり、載せたい名言が山ほどあるが、長くなってしまうので、最後にもう一つだけ、『ヴィヨンの妻』から。
人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合わせな人間です。


by dazaiosamuh | 2018-05-20 11:01 | Comments(2)

 甲府・御崎町周辺の太宰ゆかりの地を大方歩き回った私は、ちょっと距離があるが武田神社へ行くことにしました。
 それにしても武田神社にはレンタサイクル(電動)で行ったのですが、思っていた以上に距離があり、電動自転車とはいえなかなか酷で、到着した頃には太腿がぱんぱんでしかも時期が8月だったもんだから、全身汗だくで、非常に汗臭い状態で神社に入った記憶があります。
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 太宰は昭和14年6月1日付発行の『月刊文章』6月号に『春昼(しんちゅう)』という随筆を発表しており、その中で武田神社を訪れた様子が描かれている。
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 神橋を渡り鳥居の前まで行くと、鳥居のすぐ右脇に、太宰がここを訪れたことを示す看板があり、太宰のその『春昼』が全文ではないが引用されていた。せっかくなので全文載せます。以下、赤文字は『春昼(しんちゅう)』
四月十一日。
 甲府のまちはずれに仮の住居をいとなみ、早く東京へ帰住したく、つとめていても、なかなかままにならず、もう、半年ちかく経ってしまった。けさは上天気ゆえ、家内と妹を連れて、武田神社へ、桜を見に行く。母をも誘ったのであるが、母は、おなかの工合い悪く留守。武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、四月十二日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内の桜が満開なのである。四月十二日は、信玄が生れた日だとか、死んだ日だとこあ、家内も妹も仔細らしく説明して呉れるのだが、私には、それが怪しく思われる。サクラの満開の日と、生れた日と、こんなにピッタリ合うなんて、なんだか、怪しい。話がうますぎると思う。神主さんの、からくりではないかとさえ、疑いたくなるのである。

 看板には『太宰治の愛でた桜』とあり、横には桜の木がある。きっと春には綺麗な桜を咲かせて、訪れる人々を迎えてくれるのだろう。太宰の有名な頬杖ポーズの写真も載っており、訪れた人のなかには熱心に読んでいく人の姿も多く見受けられた。それにしても、太宰は実際に武田神社に来たのだろうか。
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桜は、こぼれるように咲いていた。
「散らず、散らずみ。」
「いや、散りず、散りずみ。」
「ちがいます。散りみ、散り、みず。」
 みんな笑った。
 お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていいものだ。境内は、塵一つとどめず掃き清められていた。
「展覧会の招待日みたいだ。きょう来て、いいことをしたね。」
「あたし、桜を見ていると、蛙の卵の、あのかたまりを思い出して、……」家内は、無風流である。
「それは、いけないね。くるしいだろうね。」
「ええ、とても。困ってしまうの。なるべく思い出さないようにしているのですけれど。いちど、でも、あの卵のかたまりを見ちゃったので、……離れないの。」
「僕は、食塩の山を思い出すのだが。」これも、あまり風流とは、言えない。
「蛙の卵よりは、いいのね。」妹が意見を述べる。「あたしは、真白い半紙を思い出す。だって、桜には、においがちっとも無いのだもの。」
 においが有るか無いか、立ちどまって、ちょっと静かにしていたら、においより先に、あぶの羽音が聞えて来た。
 蜜蜂の羽音かも知れない。
 四月十一日の春昼。

『春昼』にあるように、境内は本当に綺麗に掃き清められ、天気が良かったこともあり、清々しい気持であった。気持ち悪かった全身の汗も、気づいたら引いていた。神社に来ると、気持ちが落ち着くから不思議だ。
 武田神社は、言うまでもないが武田信玄公を祀った神社で、信玄公の父である信虎公が1519年(永正16年)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に、1919年(大正8年)に創建された。武田信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われ、現在も毎年信玄公祭りが開催されている。
 ところで太宰は実際に武田神社へ来たことがあるのだろうか。『春昼』に対して、『この文章では、どうも、本当に出かけた感じが伝わってこない』と書いている書籍もあった。歩いて武田神社に行くには結構な時間がかかる。そうそういつも来れるわけではないはずだが、気分転換に、一度は来た事があるのではと私は思っているが…。
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 さすがに電動のレンタサイクルとはいえ疲れたので、信玄アイスを買って食べました。きな粉と黒蜜がかかっており、甘くてとても美味しかった。アイスにきな粉と黒蜜の組み合わせは最強ですね。
 帰りは長い下り坂なので、気持ちの良い風を受けながら、来るときの苦労を吹き飛ばすかのように下って行きました。


by dazaiosamuh | 2018-05-14 08:26 | 太宰治 | Comments(2)

 昭和20年(1945)7月6日。甲府市街はアメリカ空軍機B29型重爆撃機による空襲を受けた。
蒸し暑い夜で寝苦しく、漸く眠りについた午後十一時過ぎ、警戒警報、続いて空襲警報、灯火管制のくらやみがにわかに、真夏のま昼どきのように明るくなった…』(回想の太宰治)
 午後11時40分過ぎ、市街北方の塚原地区と東北の愛宕山付近に照明弾が落とされ、次いで131機のB29から焼夷弾が投下された。B29が甲府市街の上空から姿を消したのは、日付が変わって午前1時半過ぎであった。この焼夷弾により、石原家は全焼、昭和13年に住んだ寿館、昭和14年に新居とした御崎町の住居も焼失した。
 この時、太宰一家は朝日国民学校(現在の朝日小学校)へ避難した。

私たちは、まちはずれの焼け残った国民学校に子供を背負って行き、その二階の教室に休ませてもらった。子供たちも、そろそろ眼をさます。眼をさますとは言っても、上の女の子の眼は、ふさがったままだ。手さぐりで教壇に這い上がったりなんかしている。自分の身の上の変化には、いっさい留意していない様子だ。私は妻と子を教室に置いて、私たちの家がどうなっているかを見とどけに出かけた…(中略)…家の黒い板塀が見えた。や、残っている。しかし、板塀だけであった。中の屋敷は全滅している。焼跡に義妹が、顔を真黒にして立っている。』(薄明)
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 現在の甲府市立朝日小学校。当時、小学校の周辺は草原だったようで、『私たちは東の町はずれに向かって逃げた。のどがいりつくように乾いて苦しかった。小学校の校庭に続く草原まで逃げて一息ついた。』(回想の太宰治)
 またこの甲府空襲の時、妻・美知子は妹にばかり大変な思いをさせた胸の内を語っている。
夜が明けて太宰が水門町の焼跡に行って妹と会い、妹が小学校の教室で休んでいる私たちのところへやってきた。全然消火活動もしなかったくせに、万一の僥倖をたのんでいたのだが、全焼であった。妹はあのとき、茶の間の前の小池に、ミシンを頭からつっこんだりなどしてから、ひとり蒲団をかぶって千代田村の親戚に向かったという。千代田村には荷物が預けてあったから行ったのだろうが、七キロの夜道を若い女一人でよくも辿ったものである。親戚でおむすびをもらってそれを私たちに届けてくれたのだった。この当時のことを回想すると私は良心がとがめる。とにかく妹ひとり置き去りにして私たち一家四人逸早く逃げ出したのであるから。私たちは婚約者が出征中で手のあいていることをよい倖にして、随分この妹の世話になり、生葡萄酒入りの一升瓶を何回も運ばせ、妹が栽培している椎茸を食べ、利用できるだけ利用してきた。その揚句である。一夜乞食となった私たちは、宿無しというものがどんなに肩身の狭いものか実感した。』(回想の太宰治)

 妻・美知子の妹・愛子は、七キロの夜道を蒲団をかぶって一人で親戚の久保寺家へ助けを求めに行ったのであるが、久保寺家の長女・福子は、母・りゆうに愛子が、『おばあちゃん、全部焼けちゃって何もないさ』と泣きながら話しているのを見たという。
 しかし、太宰の『薄明』を読むと、上記の『薄明』の続きで…
兄さん、子供たちは?」
 「無事だ。」
 「どこにいるの?」
 「学校だ。」
 「おにぎりあるわよ。ただもう夢中で歩いて、食料をもらって来たわ。」
 「ありがとう。」
 「元気を出しましょうよ。あのね、ほら、土の中に埋めて置いたのものね、あれは、たいてい大丈夫らしいわ。あれだけ残ったら、もう当分は、不自由しないですむわよ。」
 「もっと、埋めて置けばよかったね。」
 「いいわよ。あれだけあったら、これからどこへお世話になるにしたって大威張りだわ。上成績よ。私はこれから食料を持って学校へ行って来ますから、兄さんはここで休んでいらっしゃい。はい、これはおむすび。たくさん召し上がれ。」
 女の二十七、八は、男の四十いやそれ以上に老成している一面を持っている。なかなか、たのもしく落ちついていた。三十七になっても、さっぱりだめな義兄は、それから板塀の一部を剥いで、裏の畑の上に敷き、その上にどっかとあぐらを掻いて坐り、義妹の置いて行ったおにぎりを頬張った。まったく無能無策である。』と、義妹・愛子は非常に前向きで頼もしい姿を見せている。
 親戚宅へ行ったときは、もしかしたら焼夷弾ですべて無くなってしまったと思っていたために泣いてしまったのかもしれない。それが翌日焼跡を見に来たら、案外に埋めておいたものが大丈夫だったために希望が持てたのか。それとも姉・美知子の一家の前では、心配させないために泣きたいのを堪えて、元気な姿を見せるように努めていたのかもしれない。

 妻・美知子にしても、妹・愛子にしても石原家の人々は実にしっかりした人たちであることが、この甲府での太宰について調べたり、ゆかりの地を歩いて改めてよく分かる。そして、だからこそ太宰も戦時中でも執筆活動を続けることができたのだと思う。


by dazaiosamuh | 2018-05-07 13:55 | 太宰治 | Comments(0)