太宰治と妻・美知子が住んだ新居からすぐ目と鼻の先に、御崎神社がある。太宰は執筆の合間などでよく御崎町界隈を散歩していた。当然御崎神社にも立ち寄り、気分転換をしたり思案に暮れてみたりなどしたことだろう。
c0316988_12075997.jpg
c0316988_12083824.jpg
 住宅地のなかにひっそりとある。私がこの日、甲府を訪れた時は8月の終りの方で、非常に暑い日であったのだが、御崎神社へ足を踏み入れると、涼しく感じられた。神社というのは不思議である。太宰が新居に住んだのは、昭和14年の1月から8月頃だから、太宰も気晴らしを兼ねて、涼みに御崎神社へ行っていたかもしれない。
c0316988_12090058.jpg
 御崎神社について、『まちミューガイドブック 甲府市朝日町界隈編』から少し引用させてもいらます。
御崎神社は、武田信虎がいた石和の館の鎮守としてまつられていました。永正十六(一五一九)年、信虎は石和から甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)に館を移します。その際、御崎神社は稲荷曲輪(いなりくるわ)に遷座(せんざ)。文禄三(一五九四)年、甲府城築城のとき、城の北西の守護神として現在地に移されました。
 武田氏滅亡後、神社は甲府城の守護神となり、それぞれ、移転したまちの地名の由来にもなっています。
c0316988_12100469.jpg
 御崎神社は、武田家の館や甲府城の守護神としてまつられていたのですね。
 ちなみに、太宰が新居にいた当時のことで、この界隈を風変りな格好をした男が歩いてた、という目撃場がちらほらあるとか…。はたして太宰のことなのか、しかし、その異様な印象を与えるエピソードを妻・美知子が『回想の太宰治』で書いている。
井戸端で秋山さんと燐家の女の子たちがよく遊んでいたが、その傍を私たちが通ると遊びをやめて太宰を見上げたり、ささやき合ったりする。玄関の前のたたきに「夫婦の家」といたずら書きされていたりした。勤めにも出ないし、少々変わった風体なので、子供心にも異様に感じたのだろう。

 太宰はその自身のオーラというのか、見る者に何かしら強い印象を与えるため、当時風変りな男を目撃したという情報があっても、たしかにおかしくない。太宰の写真を見ただけで異様な印象を与えるのだから。
 太宰と妻・美知子は暑さを感じる頃から東京への引っ越しを考えはじめ、昭和14年7月中旬に借家探しに東京へ上京。同年9月には東京・三鷹へと引越しをするのだが、『三鷹の大家からの通知を待っているうちにこの北がふさがっている家は暑くてたまらなくなった。畳まであつくなったが、いま思いえばトタン屋根だったのだろう。トタン葺きの平家では甲府盆地の夏は過ごし難いのである。やはり「六円五十銭」の家賃相応の家だったのだ。』(回想の太宰治)

 そうとう暑かったようですね。なおさら太宰は御崎神社へと涼みにいったと思います。しかし、妻・美知子の著書によると、『暑い夏で終わったのだけれども、田舎ぐらしのようだった御崎町時代のことを後年太宰は「…幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期…」と回想』していたらしい。

 暑さはともかく、太宰にとっては休養のゆとりを感じ、執筆活動と充実した生活を送ることができたのだ。


by dazaiosamuh | 2018-03-27 12:14 | 太宰治 | Comments(6)

 昭和14年の1月6日、太宰と美知子は寿館から甲府市御崎町56番地(現・甲府市朝日5‐8‐11付近)の新居へと移った。この新居にいたころのことを、太宰と美知子はそれぞれ書いている。
 太宰は『畜犬談』で『ことしの正月、山梨県、甲府のまちはずれに八畳、三畳、一畳という草庵を借り、こっそり隠れるように住み込み、下手な小説をあくせく書きすすめていたのであるが、この甲府のまち、どこへ行っても犬がいる。おびただしいのである。』と甲府に蔓延る犬について書いている。太宰が大の犬嫌いなことは有名で、『畜犬談』の冒頭で、『私は、犬に就いては自身がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。私はきっと噛まれるにちがいない。自身があるのである。』といきなり笑わせてくれる。
c0316988_15500126.jpg
 写真は太宰と美知子が昭和14年1月から約8カ月間暮らしたことを示す『太宰治僑居跡』の石碑とその付近です。
 太宰は『畜犬談』で、『草庵を借り、こっそり隠れるように住み込み…』としているが、てっきり太宰が例によって大袈裟に書いているものだと思っていたが、妻・美知子の『回想の太宰治』を読むと、『大家は鳶職の秋山さんという、彫り物をちらつかせたいせな人で、借りるについてうるさいことは何も言わなかった。色白のおかみさんは表通りに面した店先に糸針駄菓子などを並べて小商いをやっていた。店の左手、木遣りの柱が渡してある大家の軒の下の路地を入ると庚申バラなどの植込を前に、平家が二軒東向きに建っていて、奥の方がこんど借りた家である。大家さんが鳶だから、持ち地所に半ば自分で建て、外まわりもまめに手がけた家作という感じであった。隣は相川さんといって主人は通いの番頭さんのような風体の人、おかみさんも働きに出ていて全く交渉が無かった。』とあり、新居は道路沿いではなく、道路沿いにある大家の家から南に二軒目が太宰と美知子の新居であったから、奥まった場所にあったようだ。

 山梨県立図書館に『御崎町の太宰治碑』と書かれた冊子を発見した。石碑を建てた太宰治記念碑建立実行委員会が作成した冊子で、その中に見取り図が記載されていた。
c0316988_15492839.jpg
 写真は昭和14年頃の太宰が新居を構えた御崎町界隈の見取り図で、よくみると、妻・美知子が書いている通り、道路沿いの『穐山』(あきやま)から『相川』を挟んで『津島』の姓が確認できる。
c0316988_15502428.jpg
 やはり、新居は太宰治僑居跡の石碑がある道路沿いではなく、実際の新居は写真正面の白い建物の奥の方にあった。
 さらに妻・美知子は間取りについても詳細に記載している。
この家の間取りは八畳、三畳の二間、お勝手、物置。八畳間は西側が床の間と押入、隅に小さい炉が切ってあった。東側は二間ぜんぶガラス窓、その外に葡萄棚、ゆすら梅の木、玄関の前から枝折戸を押して入ると、ぬれ縁が窓の下と南側にL字型についている。この座敷の南東の空には御坂山脈の上に小さく富士山が見えた。南側のぬれ縁近く、南天を植えた小庭を前に太宰は机を据えた。
 隣の三畳間は、障子で二畳の茶の間と一畳の取次とに仕切ってあった。縁も玄関の格子戸もお勝手の板の間も古びてはいるが、洗いさらしたようにきれいで、この小家は一言でいえば隠居所か庵のようなおもむきだった。』とあるので、太宰が『こっそり隠れるように住み込み…』と書いたのも別段大袈裟でもなかったようだ。そして太宰は、6円50銭という安い家賃を何より喜んだという。
 妻・美知子は『引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利よかった』と書いている。太宰のため、必要不可欠なその3つのために遠くまで買い出しに走り回る必要がなくて良かったですね。
 しかし、そのかわり、『この家は、家賃が廉い筈で、ガスも水道もなく、一日に何回も井戸端まで往復して水を運んで、ドタバタしなければ手も洗えなかった』とあるので、結局大変な思いをしなければならなかったようです。
c0316988_15504638.jpg
 太宰治僑居跡の石碑は平成元年6月11日に建立。碑文に『太宰治は昭和十四年一月から八カ月間ここ御崎町五十六番地で新婚時代を過ごした 短期間であったが充実した想い出の多い地であった』と書かれてあるとおり、この新居で太宰は、『黄金風景』『続富嶽百景』『女性徒』『葉桜と魔笛』『八十八夜』『春の盗賊』など精力的に執筆活動をし、また夫婦で上諏訪や蓼科へ遊びに出かけたりなど、充実した生活を送った。

『畜犬談』では、太宰の犬嫌いなようすがよく分かるが、妻・美知子も太宰の犬嫌いについて『犬のことでは驚いた』と書いている。少し長いが引用させてもらう。
一緒に歩いていた太宰が突如、路傍の汚れた残雪の山、といってもせいぜい五十センチくらいの山にかけ上がった。前方で犬の喧嘩が始まりそうな形勢なのを逸早く察して、難を避けたつもりだったのである。それほど犬嫌いの彼がある日、後についてきた仔犬に「卵をやれ」という。愛情からではない。恐ろしくて、手なずけるための軟弱外交なのである。人が他の人や動物に好意を示すのに、このような場合もあるのかと、私はけげんに思った。恐ろしいから与えるので、欲しがっているのがわかっているのに、与えないと仕返しが恐ろしい。これは他への愛情ではない。エゴイズムである。彼のその後の人間関係をみると、やはり「仔犬に卵」式のように思われる。がさて「愛」とはと、つきつめて考えると、太宰が極端なだけで、本質的にはみなそんなもののように思われてくる。
 なんて鋭い洞察力、観察力なのだろうか。太宰の性格、いや、太宰治という人間の本質を完璧に見抜いているように思われる。妻・美知子は、太宰と結婚するまで山梨県都留高女で地理・歴史の教師として教壇に立ち、同時に女子寮の舎監をも務めていたという。職業病というのか、まるで生徒をしっかり観察、分析するかのように、夫である太宰のことも冷静に客観的に観察していたのだろう。

 太宰は自分が死んだあと、まさか妻が自分について書いた本を出すとは思っていなかったであろう、空の上で、ハンカチで冷や汗を拭いているはず。


by dazaiosamuh | 2018-03-20 17:08 | 太宰治 | Comments(0)

 今月9日発売の『一個人』は『名作を生んだ!文士と画家が愛した宿へ』と題して、彼らの代表作などを挙げながら、ゆかりの宿を紹介している。
 その中で、やはり太宰治も紹介されているのだが、その掲載されている宿というのが、今ちょうど私が記事で書いている甲府の『旅館明治』についてであった。私はすでに旅館明治についての記事は簡単にではあるが書いたが、旅館明治に、太宰治が執筆した部屋を復元した部屋があることは知らなかった。
c0316988_10491651.jpg
 太宰治が書いた『正義と微笑』『右大臣実朝』の二部屋が復元されているとのこと。どちらも宿泊はできない。一個人には太宰治が滞在した頃の旅館明治の写真も掲載されているので、興味のある方は、写真と現在の旅館明治を見比べてみてほしい。見るかぎりだと外観等かなり変わったことがわかる。
 復元したというその二部屋を是非見てみたいので、またあとで訪ね、その際にはまたゆっくりと温泉にでも浸かりたいと思う。
 他にも、太宰が訪れたことで有名な銀座のbar・ルパンも載っていた。マスターもしっかり写真が載っている。あとでこの時の話をマスターに聞かせてもらおうと思います。


by dazaiosamuh | 2018-03-13 10:50 | 太宰治 | Comments(0)

 寿館やその近辺にあった製糸工場について書いたが、寿館のあった場所のすぐ横には清運寺というお寺がある。私が太宰のゆかりの地である甲府を歩くにあたって、なかでも楽しみにしていたのが、この清運寺だ。というのも、太宰が昭和13年11月から12月頃まで住んだ寿館は、清運寺の参道に面しており、その参道は現在はアスファルトになっているが、太宰が寿館に住んでいた当時は敷石でできており、なんとその敷石は現在、清運寺境内の藤棚の下に敷き詰められているとのことなのだ。
c0316988_10410342.jpg
 写真は清運寺側から撮った参道。左側に寿館があった。
c0316988_10385812.jpg
c0316988_10393526.jpg
 山門を入ると小さな石橋がある。そこにも敷石があった。当時からのままだ。ここを太宰が歩いたのだ、それを思っただけでわくわくする。太宰が直接触れた数少ない場所である。
c0316988_10395811.jpg
 写真の右下に藤棚。どきどきしながら近づいてみる。
c0316988_10402425.jpg
 藤棚の下に敷石が敷き詰められている。参道で使われた敷石だ。太宰が間違いなく歩いた敷石なのだ。太宰を感じるパワースポットだ。
c0316988_10404419.jpg
 天気も良く、ほのぼのと敷石を眺めていると、太宰の歩く足音がおもわず聞こえて来そう。その上を自分も歩いてみたり、手でそっと撫でてみたり…。太宰はどんな思いで、どんなことを考えながら、この敷石の上を歩いたのだろう。

 清運寺の参道は、当時清運寺にあった清正公堂のための参道で、大正12年に造られた。情報誌ランデブーによると、参道を造った際に建てた石柱が1本だけ残っているというので、探してみました。
c0316988_10413382.jpg
 写真の石柱に大正13年とあるので、これだと思われます。ということは、太宰もこの石柱を必ず目にしているはず。もしかしたら触ったこともあるかもしれない。清正公祭りの際は旗などをここに掲げたそうだ。
ところで、情報誌ランデブーのなかで、『近所の寿司屋のおじいちゃんは、この参道に立って振り返っている太宰の写真を見たことがある、遠くに、清運寺の白い壁が写っていたよ、というのだが、さてその写真をどこで見たのかは記憶がないという。』とあった。本当にその写真に写っていたのは太宰であったのか、そしてその写真はどこで見たのか、非情に興味深い。戦災ですでに失われてしまったのかもしれない。もしくは、甲府のどこかにその写真は眠っているのだろうか。


by dazaiosamuh | 2018-03-10 11:30 | 太宰治 | Comments(0)

 先月、某オークションサイトで太宰治の肉筆サイン入りの色紙を発見した。発見した私は興奮し、夜もなかなか眠れないで数日を過ごした。オークション自体の経験は、7、8年前に少しだけやっていたことがあっただけで、不慣れなところがあることは自分でもわかっていた。
 数日悩んだ末、思い切って入札した。その色紙は、スタートが千円であった。まずここで疑うべきであった。太宰治の肉筆サイン入りの色紙が千円などという馬鹿げた価格でスタートするはずは普通ないはずだ。そんな貴重な色紙はしかるべきところで出て来るはず。しかし、すでに他者が入札を競い合い、金額が徐々に上がっていたこともあり(たしか4千円ほど…)、焦りがうまれ、早く自分も入札しなければとの思いばかりが先走り、視野が狭くなっていたため、おもわず入札してしまった。
 そしたらなんと、落札してしまった。金額だとたしか9千円ほどだったと思う(覚えてない…)。しかし、落札したあとに、出品者について調べると、出品している商品はすべて有名作家や詩人などの肉筆サイン色紙や短冊ばかりで、なんだか怪しく、不安が頭をよぎった。さらに、その出品者の商品を落札した人の評価に、贋作ばかりの悪徳業者と悪い評価を付けている者もいた。落札した太宰治の色紙は、色、柄がついた色紙であったのだが、他の商品をよく見てみると、なぜか太宰治の色紙と全く同じ色紙が使われた、数人の作家の肉筆サイン色紙が出品されていた。明らかにおかしい。しかも、他の入札されている商品の入札履歴をそれぞれみてみると、同じ人ばかり数人が競い合っている。グルになって金額を釣り上げているのだろうか。
 最初に出品者についてよく調べておくべきであった。他にどんな商品を出品しているのかもしっかりと見ておくべきであった。本来、オークションにおいて、落札後のキャンセルはマナー違反であることは承知していたが、贋作ばかりを出品していると分かった以上、たとえ良くないことであっても、そうやすやすと金を差し出す気にはならなかったため、一応、出品者に非礼をわびる文を送り、キャンセルした。

 なんだか悔しいやら情けないやら、太宰治に対して盲目なっている部分があった。今後はしっかりと冷静に、気を確かに、二度と騙されないようにしたいと思う。皆さんも気をつけてください。


by dazaiosamuh | 2018-03-04 21:24 | 太宰治 | Comments(0)