甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当りのいい一部屋かりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った。また、少しずつ仕事をすすめた。
 おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞えて来る。私はペンを休めて、耳傾ける。下宿に小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたいとさえ思った。工場の塀をよじのぼって、その声の主をひとめ見たいとさえ思った。

 これは『I can speak』という作品で寿館で書かれたものだ。当時甲府には、『市内には大小の製糸工場が点在していて寿館の近くにも、「小路一つ隔てて」かどうかは確かめていないが、製糸工場があって、サナギを煮る匂いを漂わせていた。』(津島美知子(回想の太宰治)』という。

 実際に寿館付近にはどこに製糸工場があったのかというと、山梨県立図書館でコピーしたランデブーという情報誌によると、『寿館の前にあるこの参道の反対側に、製糸工場があった』らしく、さらに、『ここの土地所有者は近藤電気さんで、現在は美咲町に移っています。多分その製糸工場がモデルになっているのではないかと…』と詳細に記載されています。
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 写真は清運寺の参道で、手前方向に清運寺があり、写っていませんが左側手前が寿館があった場所です。そして写真右側の奥の突き当りの角付近に、製糸工場があったとされています。
『I can speak』では、ある夜に主人公が、外から酔漢の男の声を聞く。主人公がその様子をそっと見てみると、どうやら工場の塀越に、2階の窓から顔を出している女工に向かって男が、『ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは無え。I can speak English. おれは、夜学へ行ってんだよ。姉さん知っているかい? おふくろにも内緒で、こっそり夜学へかよっているんだ。偉くならなければ、いけないからな。姉さん。何がおかしいんだ……』などと叫んでいる。
姉の顔は、まるく、ほの白く、笑っているようである。弟の顔は、黒く、まだ幼い感じであった。I can speak というその酔漢の英語が、くるしいくらい私を撃った。はじめに言葉ありき。よろずのもの、これに拠りて成る。ふっと私は、忘れた歌を思い出したような気がした。たあいない風景ではあったが、けれども、私には忘れがたい。

 妻・美知子は、著書『回想の太宰治』で『製糸工場はみな木造二階建てで通行人にいくつも並んだ窓を見せていた。ここで働く女性たちは通勤で、宿舎の設備のある大規模の工場はなかった。太宰が寿館で書いた”I can speak„の女工さん姉弟の姿と声とは、幻で見、幻で聞いたのであろう。』と、この作品を太宰のフィクションとして認識して書いている。
 しかし、情報誌ランデブーによると、『当時、製糸工場を経営していた近藤電気のおばあちゃんに取材したところ、確かに清運寺の参道を南に下って東西の小道に突き当たる、その右側の角地に、約三百坪の製糸工場と母屋があったという。つまり、寿館の少し斜め南側に確かに製糸工場はあったのである。工場では百人ほどの女工さんが働いており、そのうち三十人ほどが工場の二階にあった宿舎に泊っていた。』とあり、妻・美知子の記憶違いであると思われる。また、『太宰の小説の中に、女工さんたちが歌を歌っていたと書かれているんですが、何か覚えておられますかと質問すると、そうねえ、あの頃、応接間でよくレコードをかけていて、その曲を聴きながら女工さんたちは糸を紡いでいたような思いでがあります、そのことなのでしょうかねえ』と答えられたそうだ。
 このことから、太宰は、『製糸工場で寝泊りして働く女工』、『レコード』などをヒントに、作品『I can speak』を書いたのかもしれない。いや、もしくは本当に塀越しに話す姉弟のその姿を見ていたのかもしれない。
 それにしても、『I can speak』で弟が『偉くならなければ、いけないからな。』と言った台詞は、この甲府で結婚し、強い決意を持った太宰の思いが感じられる。太宰本人の投影に聞えるのは私だけでしょうか。


by dazaiosamuh | 2018-02-26 14:04 | 太宰治 | Comments(0)

 昭和13年11月6日、太宰は水門町の石原家にて婚約披露の宴を催した後、同月16日、御坂峠を降りて、石原くらが見付けてくれた、甲府市西竪町93番地(現・甲府市朝日5ー3-7付近)の素人下宿寿館へと移った。
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 写真は清運寺へとつづく参道で、写真右側の住宅付近に太宰が住んだ寿館がありました。寿館跡から石原家跡までは、徒歩で数分の距離です。ちょうど自宅から女性が出て来たので、一応、尋ねてみると、「ここに寿館がありましたよ」と教えてくれました。返事の様子から、どうやら太宰研究者やメディアの取材などを何度も受けてきた様子が伺えるような慣れた返事でした。

 寿館について、妻・美知子が『回想の太宰治』で書いている。
寿館は下宿屋らしい構えで、広い板敷の玄関の正面に大きい掛時計、その下が帳場、左手の階段を上り左奥の南向きの六畳が、太宰の借りた部屋である。私の母が探して交渉してくれたのだが、勤めももたず、荷物というほどの物も持たぬ、いわば風来坊の彼のために保証人の役もしたのだと思う。御坂にくる迄の彼の荻窪の下宿が西陽のさしこむ四畳半と聞いて、それはひどいと同情した母の声音を記憶している。日当たりのよい窓辺に机を据え、ざぶとん、寝具一式を運び、一家総がかりで彼のために丹前や羽織を仕立てたり、襟巻を編んだりした。

 妻・美知子の母が太宰のために世話した心尽くしはちゃんと太宰の身にも沁みたことでしょう。そして太宰は、『ほとんど毎日、寿館から夕方、私の実家に来て手料理を肴にお銚子を三本ほどあけて、ごきげんで抱負を語り、郷里の人々のことを語り、座談のおもしろい人なので、私の母は(今までつきあったことのない、このような職業の人の話を聞いて)、世間が広くなったようだ、と言っていた』という。
 石原家からはどうやら気に入られて、美味しい手料理にお酒も飲めて、太宰が生きた時代のなかでも幸せな時間だったのではないでしょうか。さらに、妻・美知子の亡兄が、太宰と同じく昭和5年に東京帝国大学に入学していることが分かり、石原家は、『私の実家のものみな太宰との距離が近くなったように感じた』のであった。
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 写真は清運寺側から撮った参道です。左側付近に寿館があった。太宰はこの参道をなんども通った。
 寿館は当時、山梨高等工業(現・山梨大学)の学生や甲府中学(現・甲府一高)の教師などが下宿をしていたという。瓦葺の2階建てで、入口には『高等御下宿寿館』という看板がかけてあったといいます。
 現在、寿館があった当時の写真や資料は全く残っていない。妻・津島美知子の著書『回想の太宰治』で、『寿館の主のKさんの息子さんは事故か病気のせいかで、足が不自由になりM高校を中退して療養中であることを太宰から聞いた。
「人間失格」の終りに近く、不幸な薬局の女主人が登場する。私はこれを読んだとき、寿館の息子さんのことを連想した』と書いているが、寿館の主のKさんというのは、『まちミューガイドブック』によると、塩山市出身の菊島という方で、その後の消息は、全く分かっていないという。

 戦争で甲府も大きな被害を受けた。当時の写真や資料が残っていないのは非常に残念だが、仕方が無い。



by dazaiosamuh | 2018-02-20 13:16 | 太宰治 | Comments(0)

 太宰治が荻窪から、夏の和服一揃いを出して着飾り、淡茶色の鞄を一つ提げて、思いをあらたにする覚悟で、天下茶屋にいる井伏鱒二のもとへ向かったのが、昭和13年9月中旬。そして井伏が探してくれた結婚話の相手である石原美知子と見合いをするために石原家へ訪問したのが同月18日午後。太宰は二度と破綻しない旨を記した契約書を井伏へ送っている。
 同年11月6日、石原家で、井伏鱒二、斎藤文二郎、せいの立ち合いで、石原美知子の叔母二人を招いて、婚約披露の宴が催された。その後は、石原家が見つけてくた、竪町の寿館に止宿、そして御崎町の新居(借家)へと移った。
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 こちらが石原家跡です。写真の病院付近にあったようで、しかも『石原家は現在は広い駐車場になっており、その一画には小沢クリニックが建っている。当時は駐車場南の道路まで石原家の私道だった』ということなので、なかなか大きな家だったのかもしれない。

 太宰夫婦は東京三鷹へと落ち着くが、昭和20年3月10日夜、東京市中の大空襲があり、小山清の強い勧めにより、3月下旬、妻子を先に甲府の実家へと疎開させた。それに続いて太宰も疎開してくるのだが、4月2日の下連雀の空襲では三鷹の太宰宅をほぼ中心として北と南とそれぞれ100mくらの区域に、爆弾が落とされたという。太宰が『俺をねらって爆撃したに相違ない』と言っていたことに対して、妻・美知子は『太宰のような人が、自分をねらったのだと本気に考えたのも無理はない』と自身の著書(回想の太宰治)に記している。
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 写真は、甲府で手に入れた『まちミューガイドブック』の冊子に記載されていた、石原家の間取図です。なかなか広い屋敷だったことが分かります。

 せっかく妻・美知子の実家へと逃げて来たのであったが、美知子曰く、『甲府では焼夷弾に見舞われる日を待っていたようなもので』あった。昭和20年7月6日、アメリカ空軍機B29型重爆撃機による空襲を甲府も受け、太宰一家と美知子の妹はなんとか無事に逃げるも、石原家は全焼。昭和14年の新婚時代に住んだ、御崎町の住宅も焼失した。この時のことを、太宰は作品『薄明』で詳細に書いており、その中で、子供が二人とも結膜炎に罹ってしまったことを、『早く眼が見えるようになるといい。私は酒を飲んでも酔えなかった。外で飲んで、家へ帰る途中で吐いた事もある。そうして、路傍で、冗談でなく合掌した。』と心から心配する様子が描かれている。事実、このとき子供たちは結膜炎に罹り、長女のほうが、両目が塞がるほどであった。妻・美知子によると、甲府に疎開して、しぜんに緊張がゆるみ、駅前の温泉に通って遊んでいるうちに、その温泉で感染したという。

 太宰の『薄明』で、火の雨から『蒲団をかぶれ!』と妻に指示し、家族を守る姿はなんだか頼もしくみえるのは私だけでしょうか。
直撃弾は、あたらなかった。蒲団をはねのけて上半身を起こしてみると、自分の身のまわりは火の海である。
「おい、起きて消せ、消せ!」と私は妻ばかりでなく、その付近に伏している人たち皆に聞えるようにことさらに大声で叫び、かぶっていた蒲団で、周囲の火焔を片端からおさえて行った。火は面白いほど、よく消える。背中の子供は、目が見えなくても、何かただならぬ気配を感じているのか、泣きもせず黙って父の肩にしがみついている。
「怪我は無かったか。」
だいたい火焔を鎮めてから私は妻の方に歩み寄って尋ねた。

 子どもを負ぶって焼夷弾から逃げるのはなかなか容易なことではなかったと思います。まして、蒲団などの荷物もあるなかで、ここは父としての責任をしっかり果たしていると思うのだがどうだろうか。
 その後は、国民学校(現・朝日小学校)へ避難し、さらに石原家の人々の安否を気づかって見に来た、山梨高等工業専門学校教授である大内勇の家にやっかいとなる。太宰はそんな中でも、机に向かって原稿を書きつづけ、同月28日、妻子を連れて、太宰の故郷である津軽へと向かった。
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 石原家の跡地を撮っていると、道路を挟んで反対側の駐車場のブロック塀に、オニヤンマがいた。普通は近づくとオニヤンマはすぐに逃げるのに、まったく微動だにしなかった。指で触れて見ると、かすかに反応した。寿命がせまっているようだった。オニヤンマを近くの植木鉢へとそっと移してあげて、しばらくの間、石原家の跡地を眺めていました。


by dazaiosamuh | 2018-02-15 14:08 | 太宰治 | Comments(0)

 三鷹市に太宰治文学館ができることを楽しみにしていたが、その計画がどうやら白紙に戻ってしまったらしい。というのは、三鷹市は太宰治と吉村昭の功績を後世に伝える展示施設の設置を、井の頭恩賜公園西公園北側の玉川上水沿いのエリアを予定地として計画していたが、去年、市民に意見を募ったところ、野鳥などが飛来する自然環境が破壊されることを懸念する反対意見が多く寄せられたために、新たな候補地を探さなければならなくなり、2019年度中の開館を目指していたが、着工や開館時期のスケジュールなどは全て白紙に戻った。候補地としてあげられた場所などでまた意見を募るも、やはり環境破壊を懸念する声が多く、計画は頓挫している。新しい候補地については全くめどがついていないとのこと。
 たしかに野鳥や渡り鳥などが集まる自然環境が破壊されては、そこまでして施設を造る必要があるのかとも思う。太宰治文学館が三鷹にできたら嬉しいし、できてほしい。しかし、そこはやはり自然環境が優先だと素直に思う。どこか建物が取り壊された跡地などの空地になっている場所はないのだろうか。

 2019年は、太宰治生誕110年だ。それに合わせた計画であるが、果たして、新たな候補地を見つけ、市民らからの理解、了解を得て、無事に太宰治生誕110年を迎えることができるのだろうか!?

by dazaiosamuh | 2018-02-08 10:44 | 太宰治 | Comments(0)

 旅館明治を出て、次に、湯村温泉旅館協同組合のゆかりの人物資料室で手に入らなかった冊子を求めて、山梨県立図書館と駅前の観光案内所へ向かいました。

 図書館にも例の冊子がありませんでした(不運にも貸し出し中のようでした)ので、仕方が無く、ついでに甲府での太宰の足取りなどが書かれた情報を探しました。その中で、ランデブーという情報誌?がなかなか詳細に甲府での太宰のついて記載していました。
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 このランデブーは旅館明治の太宰治資料室にもあったのですが、ガラスケースの中に展示されて見る事ができなかったので、図書館で発見できて良かった。ついでに色々と情報を収集し、観光案内所へ。

 観光案内所で冊子について尋ねると、ここでもすでに在庫を切らしていました。(手に入らないとますます欲しくなるのは人間の悲しい性ですね…)しかし、スタッフが、冊子の発行元へ電話で訊いてくれて、それによると、岡島百貨店の6階にあるジュンク堂に、もしかしたらあるかもしれないとのことだったので、私はきっとそこにならあると信じて向かいました。

 岡島百貨店6階のジュンク堂の、レジの横付近に、冊子が大量に並べられたコーナーが設置されてあり、血眼になって探しました。自分にとってどうでもいい冊子は数冊ずつ在庫が残っているのに、お目当ての冊子がなかなか見つからない。隅から隅まで探すもなく、半ば諦め気味で、最後にもう一回だけ探してなかったら諦めようと思い、人目も憚らず、懸命に探したところ、奇跡的に発見することができました。
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 こちらが探していた冊子です。苦労して探しただけあって、詳細な情報が載っており、満足。
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 さらに別の冊子(東京都三鷹編の太宰治の冊子など)も何冊か見つけたので買いました。

 自分が事前に調べてきた情報とこれらの甲府で手に入れた情報をもとに甲府での太宰のゆかりの地を歩いていきます。


by dazaiosamuh | 2018-02-05 14:05 | 太宰治 | Comments(0)