太宰は料亭二葉で一人さみしくお酒を飲み、ふたたび秋田屋旅館へ帰ってきた。そして、翌日、朝食を食べていたら主人がお銚子を持ってきて、あなたは津島さんでしょう、と言った。宿帳には筆名の太宰を書いていたはずなのだが、
そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので」
「でも、あれは、偽名でもなのです」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです」
 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。

 鮑のはらわたの塩辛とは美味しそうですね。私はイカの塩辛くらいしか食べたことがありません。あとになって知ったのですが、鮑のはらわたの塩辛は、円覚寺前にあるお店で買えるそうです。私はたしか円覚寺前にあるお店で蕎麦を食べたのですが、鮑のはらわたの塩辛があるとは気づきませんでした。腹が減っていたため、蕎麦にしか目がいきませんでした。味見してみたかったです。
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 太宰は秋田屋旅館にきたとき、『津軽へやってきて以来、人にごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら…』と意気込んでいたが、『こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしお腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。』と、ただただ津島家の力を思い知るのであった。

 その翌年の昭和20年7月30日には一家で深浦の秋田屋旅館に泊まっている。一夜で焦土と化した甲府から逃れて、金木へ向かう途中に、深浦へ寄ったのだ。その理由については、『太宰の深浦泊りの目的が何にあるのかが察しがつくので仕方なく同意して…』と妻の津島美知子が『回想の太宰治』で書いている。
 到着したときはすでに夜で、懸命に太宰は戸をたたき、やっと二階へ上がらせてもらえたのだが、『前年の「津軽」の旅のとき、主人から特別のもてなしを受け、やまげんの勢力がここまで及んでいることを感じたことを太宰は記しているが、その主人は現れない筈、長患いの床に就いているとのことであった。』とあり、17、18歳の娘さんが給仕してくれたのだが、『手もとが僅かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。甲府で罹災して以後も毎夜焼跡で飲んできていたが、甲府出発以来アルコールが全く切れていた。これではなんのためにまわり道して、深浦に泊ったのかわからない。』とある。そう、太宰は酒が飲みたくて、わざわざ妻子を連れまわして深浦へ来たのだ。『津軽』の深浦の場面で、『子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り…』とあんなに妻子を心配していたのに、アルコールが切れると酒優先になってしまうのは、酒飲みのなんとも悲しい性だと思います。

 太宰が泊まった秋田屋旅館(現・ふかうら文学館)ですが、実は太宰は、秋田屋旅館の経営者が、兄・英治の友人(島川貞一)であることを事前に知っていたのではないか、という説もありますが、分かりません。

 深浦の記事はもう一度だけ書きます。


by dazaiosamuh | 2017-10-26 10:07 | 太宰治 | Comments(0)

 秋田屋旅館にてすぐにお膳が運ばれてきたことに救われた太宰であったが、どうやらお酒はもうないとのことであった。そこで太宰はお膳を持ってきた若い娘さんに、他にお酒を飲める場所はないかと尋ね、ございますという返事に安堵し、その料亭へそそくさと足を運ぶのであった。

ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行って見ると、意外に小奇麗な料亭であった。二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向かって大あぐらをかき、酒、酒、と言った。
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 写真の建物付近に当時太宰が行った料亭がありました。太宰が行った料亭というのは料亭二葉のことで、現在は風待ち館という観光協会の建物と駐車場になっている。

お酒だけ、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持ってすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。
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 お酒もすぐに出て、そのおばさんに名所などを尋ねる太宰であったが、突如、『ぶってり太った若い女』が現われて、変に気障な洒落などを飛ばし、太宰は頗る不快な思いで我慢がならず、『私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく率直たるべしと思い、「君、お願いだから下へ行ってくれないか」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢った。その若い女中が、ふくれて立ち上がると、おばさんも一緒に立ち上がり、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、朋輩の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。

 料亭二葉での話は本当なのか『津軽』を面白くする上での創作なのかは分からない。『君、お願いだから下へ行ってくれないか』
 これは誰でも不機嫌になってしょうがないであろう。ひどいめに逢ったのはお互い様である。
 
 深浦町の記事は次回で最後になります。



by dazaiosamuh | 2017-10-20 10:41 | 太宰治 | Comments(2)

 久しぶりの記事になります。
 太宰は『津軽』執筆のために、取材旅行でこの深浦へ来たのが昭和19年5月25日。深浦の町を歩き、円覚寺へお参りして、そろそろ引きあげようかと思った時に、ふと東京にいる子供のことなどを思い出してしまった。百日咳に罹っている子供と2人目の子供を近く生む妻のことを思い、郵便局へ行って、葉書を1枚認め、妻子のもとへと送った。そして…。

たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かった。私はその早さに、少し救われた。部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のようである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやってきて以来、人のごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考えを起し、さっきお膳を持って来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまえ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございません、という。どこか他に飲むところは無いかと聞くと、ございます、と言下に答えた……
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 その行きあたりばったりの宿屋というのが、秋田屋旅館のことで、現在の『ふかうら文学館』のことだ。『汚い部屋に案内され…』とは失礼だと思うが、現在太宰が宿泊したその部屋は、『太宰宿泊の間』として当時のままに再現されている。館内は撮影禁止のためお見せすることができないのが残念だが、部屋からの見晴らしもいい。太宰が各地で泊まった部屋は、いつも決って角部屋が多い気がする…。
 それと面白いのが、部屋とは別にある『太宰治の間』のコーナーでは、太宰が訪れた頃に旅館で振舞われた料理が推測再現されていたことだ。お膳には、鮑の刺身、鯛の塩焼き、アラ汁、鯛の子とフキ、ネマガリダケの炊き合わせ、鯛のかぶと蒸し、鮑のウロ(はらわた)の塩辛、ミズと鮑の水物。この料理が全部出されたわけではないが、それでも戦時下でありながらなかなか豪華である。
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 部屋の中の写真は撮れないので、外から太宰が泊まった部屋の写真を載せておきます。ここから酒を飲んでは、東京にいる妻子のことなどを考えていたのだろう。

 飲み足りない太宰は、お酒はもう無いと言う娘さんから、お酒を飲める場所を聞き、その料亭を訪ねるのであった。


by dazaiosamuh | 2017-10-14 13:23 | 太宰治 | Comments(3)

 太宰治は深浦の円覚寺におまいりし、深浦を引きあげようかと悩んだ。東京へ残した妻子のことなどを、ふっと思い出してしまったのだ。
私は立ち上って町の郵便局へ行き、葉書を一枚買って、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。

 太宰の子煩悩な一面がうかがえる。太宰がこの日、木造から深浦へと訪れたのは昭和19年5月25日のことであったが、実は翌年の昭和20年7月30日には、妻子を連れて再び深浦へと来ている。
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 太宰が葉書を買い求めた郵便局。建物は建て直されているが、太宰が訪れた当時からこの場所であったようだ。
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 郵便局のほんの少し先に深浦文学館がある。そこは太宰が1人で訪れた昭和19年5月25日と妻子を連れてきた昭和20年7月30日に2度宿泊した秋田屋旅館で、現在は深浦文学館として活用されている。深浦文学館に、当時郵便局で働いていた花松フサという女性のインタビュー映像を見ることができるのだが、太宰が郵便局に葉書を買い求めた時、この女性が売ったという。せっかくインタビュー映像を見たのに、内容を覚えていない…。まさか葉書を売った女性が太宰のことを覚えていて、しかもインタビュー映像が見られるとは思っていなかったためメモも取れなかった…。もう一度見ようかと思ったが、如何せん滞在時間があまりなかったのであきらめて文学館を出ました。今思えばもう一度ちゃんと見てメモを取っておけばよかった…。いつになるか分からないがあとでまた必ず深浦文学館を訪ねようと思います。


by dazaiosamuh | 2017-10-04 11:24 | 太宰治 | Comments(0)