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 今年の太宰治の桜桃忌、生誕祭は群馬県水上を選んだ。去年一昨年は青森、金木の太宰の故郷へ足を運び、生誕祭に参加した。そこへ行けば、長女の津島園子さんにも会える。朗読会など色々なイベントにも参加できる。しかし、なぜか私は今回は群馬県水上を選んだ。なぜか行きたいと思った。惹かれたのだ。
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 1泊2日で太宰ゆかりの旅館たにがわに宿を取り、前日の6月18日に水上を訪れた。迎えの車はあえて断った。のんびりと自然を楽しみ、太宰も通った道を味いながら歩きたかったからだ。

 ここへ初めて訪れたのは、2014年12月末であった。その時は運悪く大雪で、それにも関わらず、なぜかその時も歩いて旅館まで行った思い出がある。文学碑はすべて雪で覆われていた。2回目に訪れたのは、2015年6月19日の桜桃忌だ。その日は雨であった。今回は曇り空であったから、天候には恵まれたほうだ。(翌日19日は青空だった)
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 水上駅から少し歩くと、SL機関車のある綺麗に整備された緑色の芝生の公園がある。3年前はただの砂利であったが、緑色の芝生になり、いっそうSL機関車の姿が映えるようになった。
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 のんびり自然を眺めながら、太宰の姥捨の文学碑のところまで歩く。この付近に地図案内板があるのだが、こちらも新しくなっていた。新しく地図を描き直したようだ。しかし、残念であったのが、以前の地図には太宰の姥捨の文学碑のある箇所にはちゃんと、『太宰治歌碑』と記載されていたのにこの地図案内板には、それがなくなっている。案内板のすぐちかくに文学碑があるから記載しなかったのだろうか。

 鳥の鳴き声を聞きながらカメラで谷川岳の景色を撮影して歩いていると、何だろう、なぜか視線を感じる。それは自分の正面方向から感じ取れる。撮るのをやめ、ガードレールぎりぎりから下の斜面を見下ろすと、50mほど先に、私をじっと見ているものがいた。
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 カモシカだ。私のことをずっと見て観察していたものの正体は野生カモシカであった。それにしてもまったく動かない。本物だろうか、もしかしたら精巧に作られたカモシカのオブジェなのだろうかと思ってしまうほど、微動だにしない。写真を2枚撮り、最後にもう一枚だけ撮ろうと指をボタンに置いた瞬間、カモシカは我に返ったように身を翻して森へと姿を消した。(結局、雲っていたため谷川岳は見えず、良い写真は撮れませんでした。しかも翌日は晴れて谷川岳が見えたのに写真を撮るのを忘れた。代わりにカモシカの良い写真が撮れたが…)
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 太宰ゆかりの旅館たにがわにて疲れを癒した。ここは今さら言うまでもないが、前身は太宰治が滞在した川久保屋で、その後、増改築をおこない現在の旅館たにがわになった。太宰治が滞在した川久保屋は、現在の旅館たにがわの駐車場にあった。その駐車場にも文学碑がある。
 相変わらず料理も美味で、温泉も心身共に癒される。初めて訪れた時は大雪で雪の降るなか露天風呂に入った思い出がある。あれも良かった。雪景色の中で入る露天風呂も最高であった。
 部屋で、この日だけはと、太宰がよく吸っていたゴールデンバットを何本も吸った。普段吸わないのに強いバットを何本も連続で吸うもんだから、ゲホゴホと咽ては頭がくらくらし、何だか体中の血管が絞めつけられるような嫌な感覚になり、血管をどうにかせねばと思い、もう一度風呂に入ったら、その嫌な感覚も消えた。アブないところだった。助かった。温泉はやはりいいもんだ。

 旅館たにがわには太宰治にちなんだオリジナルカクテルがある。初めて泊まった時は、たしか『人間失格』のカクテルを飲んだような気がする。今回は『桜桃』と『斜陽』を飲みました。
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 こちらは『桜桃』で、チェリー、ジンジャーエール、ラムをベースにしたカクテルで甘くて飲みやすかったです。
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 こちらが『斜陽』で、カシス、ソーダ、ジンをベースにしたちょっと苦味のあるカクテルです。どちらも美味しかったです。まだ『走れメロス』(カシスリキュール、スパークリングワイン)とノンアルコールの『創世記』(マンゴー、チェリー、オレンジ)は飲んでいないので、次回の楽しみです。

 翌日、6月19日。太宰治の誕生日で桜桃忌。この日を太宰治の命日と勘違いしてる人がたまにいるが、命日は6月13日で、遺体が発見されたのが太宰治の誕生日である6月19日。今年は生誕109年ですね。2009年の太宰治生誕100年はかなり盛り上がりましたが(実はその頃はまだ私は太宰治のことは好きでも無ければ、本も読んでません)、今年は没後70年ということで、本、雑誌なども色々出て、特集も組まれたりなど若い世代のファンもどんどん増えつつあり、嬉しいかぎりですね。
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 この日、群馬のテレビ局がきているということで、旅館のスタッフ(旅館たにがわに勤める女性スタッフの1人は太宰ファンで青森・金木町の生誕祭に行ったとのこと)と共に2カ所の文学碑に献花に行きました。最初に姥捨の文学碑の前で献花を行い、それから旅館たにがわの駐車場にある文学碑にて献花をしました。そこでその群馬のテレビ局からインタビューを受けることになったのだが、如何せんインタビューなど今まで受けたことがなく、しかも小柄な可愛い女性アナウンサー(名前は知らない)を前に緊張し、背中を汗がツーっと流れれば尚更緊張し、しどろもどろになり、自分でも何を言っているのか何を言いたいのかよく分からないインタビューになってしまった。あの日の群馬テレビのスタッフさん、申し訳ありませんでした。
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 今年の桜桃忌はこんな感じで終わってしまったが、来年は太宰治生誕110年ということで、かなりの盛り上がりを見せることは間違いないはず。太宰治の『斜陽』の映画化や、三鷹に太宰治文学館が建てられる話など、生誕110年に合わせて計画されていると思うので、他にも各地で特別展や特集が組まれたり、2019年は新たな太宰治旋風を巻き起こしそう。
 来年2019年の太宰治生誕110年が楽しみですね。


by dazaiosamuh | 2018-06-24 13:45 | 太宰治 | Comments(0)

 太宰治の短編『新樹の言葉』の中で、『眼をあげると、大丸デパアトの五階建の窓窓がきらきら華やかに灯っている。もう、この辺は、桜町である。』と書いているが、『桜町』は、明治8年から昭和39年まで使われた町名で、今は使われていない。
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 現在は、丸の内、中央、北口等の町名に変わっている。かつて桜町として栄えたことを記す看板があった。
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 町名としての桜町は消えたが、前回に書いた松林軒デパートがかつてあり、現在ホテルとなっている場所の通りは、『ぺルメ桜町』としてその名を残している。『甲府で一ばん賑やかな通りで、土地の人は、甲府銀座と呼んでいる。』とあるが、しかし、かつては賑わっていたであろうと思われるが、閉店した店などがちらほらと見受けられた。

 前回載せた老舗和菓子店の松林軒には、時間の都合上、行くことができなかった。無理してでも何か買って帰ればよかったと今さらになって思っている。次回甲府へ旅行したさいに立寄りたいと思う。


by dazaiosamuh | 2018-06-17 14:09 | 太宰治 | Comments(0)

 今月発売の『東京人』は太宰治だ。今月は太宰治の命日(6月13日)と誕生日(6月19日)があり、今年で没後70年を迎える。それにあわせて太宰治の特集が組まれたのだ。
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 生前の太宰治と会ったことがあり、短編『メリイクリスマス』のモデルにもなった林聖子さんが太宰治との思い出を語っている。その中で、聖子さんは太宰治を初めてみた時の第一印象は、顔ではなく手であったと述べる。
煙草を持っている太宰さんの指、その関節が長くてすごくきれいでした。うちの父(洋画家の林倭衛)は反対にごつい手でしたが、男の人って、人によって指の形が違うんだなと思ってね。それが第一印象。顔よりも手でした。

 他にも、今までに起きた太宰治ブームをその時代の変化や背景を見ていきながら、どのように太宰治は読み継がれてきたのかを検証するコーナーもあり見応え十分な内容になっている。

 目新しい情報などはいまさらない。しかし、文学小説というのはその時の自分の年齢や体験、おかれた境遇などによって感じ方、読み方はまるで変わる。読むたびに新たな発見がある。作品が書かれた時代背景を知り、太宰治という人間を知ったうえで読めば、いっそう面白さは倍増する。太宰治没後70年の今年、私は20代から30代へと移行する。人生に対する考え方など、色々と変わってくるだろう。今年は、改めて太宰治の作品をすべて読み直してみようと思う。



by dazaiosamuh | 2018-06-10 16:25 | 太宰治 | Comments(0)

 太宰治が甲府を舞台に書いた作品には他にも『新樹の言葉』があり、昭和14年3月上旬から中旬にかけて脱稿した短編作品で、幼少時代の懐かしい記憶(乳母、子守タケとの記憶)から生まれた、甲府を舞台にした架空の物語で、『黄金風景』に近いものがあり、似た印象を受ける。

眼をあげると、大丸デパアトの五階建の窓窓がきらきら華やかに灯っている。もう、この辺は、桜町である。甲府で一ばん賑やかな通りで、土地の人は、甲府銀座と呼んでいる。東京の道玄坂を小綺麗に整頓したような街である。路の両側をぞろぞろ流れて通る人たちも、のんきそうで、そうして、どこかハイカラである。植木の露店には、もう躑躅(つつじ)が出ている。
 デパアトに沿って右に曲折すると、柳町である。ここは、ひっそりしている。けれども両側の家家は、すべて黒ずんだ老舗である。甲府では、最も品格の高い街であろう。』(新樹の言葉)

 上記の文中にある『大丸デパアト』というのは、どうやら当時の甲府における高層の大店舗であった、松林軒百貨店ビルのことらしい。
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 当時、松林軒百貨店は地上6階、地下1階の県内初の大型百貨店で、昭和12年に開業した。しかし、昭和20年7月の甲府空襲により外観を残して焼失した。その後、甲府会館として利用されたりなどしたが、現在は写真の通り、ホテル・ドーミーインとなっている。
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 しかし、現在はホテルとなっているが、その一角には商店街に面して松林軒の菓子店が営業している。

『新樹の言葉』の冒頭部分で、甲府のことを、『沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれに文化の、しみとおっているまちである。』と書いているが、『シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた』という表現は実に見事で高いセンスを感じずには入られない。

 この『新樹の言葉』をもとに引き続き記事を書いていきます。


by dazaiosamuh | 2018-06-03 21:11 | 太宰治 | Comments(0)

 甲府の湯村温泉郷にある太宰治が宿泊した旅館明治のさらに少し奥の方へ行くと、塩澤寺(えんたくじ)というお寺がある。厄除地蔵で有名なお寺で、太宰治の短編作品『黄村先生言行録』にも登場する。
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 黄村先生は山椒魚が大好きで、主人公に山椒魚について熱く語り、あげくに一丈でなくても六尺でもいいから見てみたい、などと滅茶苦茶な事を言い出す。
 それから数日後、主人公は甲府の湯村温泉へ、東京に近いわりに安くて静か、という理由からよく訪れる温泉旅館へ旅行に行くのだが、行った時期がちょうど2月のお祭りの日で…。
それは二月の末の事で、毎日大風が吹きすさび、雨戸が振動し障子の破れがハタハタ囁き、夜もよく眠れず、私は落ちつかぬ気持で一日一ぱい炬燵にしがみついて、仕事はなんにも出来ず、腐りきっていたら、こんどは宿のすぐ前の空地に見世物小屋がかかってドンジャンドンジャンの大騒ぎをはじめた。悪い時に私はやって来たのだ。毎年、ちょうどその頃、湯村には、厄除地蔵のお祭りがあるのだ。たいへん御利益のある地蔵様だそうで、信濃、美延のほうからも参詣人が昼も夜もひっきりなしにぞろぞろやって来るのだ。私は地団駄踏んだ。厄除地蔵の祭りが二月の末に湯村にあるという事は聞いて知っていたのに、うっかりしていた。

 主人公はあきらめて、自分もお地蔵様をおまいりすることにし外へ出ると、山椒魚の見世物小屋を発見する。それを見て黄村先生を思い出し、すぐに電文をしたため黄村先生を呼ぶ。先生は主人公の泊まる旅館の部屋に山椒魚の見世物小屋の主人を呼んでもらい、『私は山椒魚を尊敬している。出来る事なら、わが庭の池に迎え入れてそうして朝夕これと相親しみたいと思っている』などと言うが、まるで取り合ってもらえない。そして、『一尺二十円、どうです』と値段交渉に出る。
「まことに伯耆国淀江村の百姓の池から出た山椒魚ならば、身のたけ一丈ある筈だ。それは書物にも出ている事です。一尺二十円、一丈ならば二百円。』
「はばかりながら三尺五寸だ。一丈の山椒魚がこの世に在ると思い込んでいるところが、いじらしいじゃないか。」
「三尺五寸! 小さい。小さすぎる。伯耆国淀江村の…』
「およしなさい。見世物の山椒魚は、どれでもこれでもみんな伯耆国は淀江村から出たという事になっているんだ。昔から、そういう事になっているんだ。小さすぎる? 悪かったね。あれでも、私ら親子三人を感心に養ってくれているんだ。一万円でも手放しゃしない。一尺二十円とは、笑わせやがる。旦那、間が抜けて見えますぜ。」

 見世物小屋の主人は鼻で笑って去っていき、黄村先生はただ馬鹿々々しい失敗をして終わる。

『黄村先生言行録』は、昭和17年11月20日~30日の間に執筆・脱稿し、昭和18年1月1日付発行の『文学界』新年号に発表された。
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 急な石段を上りきると、国宝の本殿がある。当時、塩澤寺までの道は畑が広がっていたという。

『黄村先生言行録』にあるとおり、毎年2月13日から14日にかけて、厄除地蔵尊大祭が行われ、昼12時まで大護摩供を行い、訪れる人々の開運厄除・家内安全をお祈りしている。さらに百余の軒を連ねる露店が、湯村温泉街から石段まで並び、しかも十万人近くの人波に埋め尽くされるため、他に例のない殷賑を極めたお祭りとなるらしい。

 太宰が実際にお祭りに行ったのかは不明。太宰が甲府で生活したのは、寿館が昭和13年11月中旬~昭和14年1月まで。御崎町の新居には昭和14年1月~8月までいた。昭和17年2月9日頃に、湯村温泉の旅館明治に滞在し『正義と微笑』の続きを執筆。翌年の昭和18年3月中旬頃にはまた湯村温泉の旅館明治にて滞在し、途中であった『右大臣実朝』の稿を継いだ。
『黄村先生言行録』の描写などを読むと、祭りに行ったことがあるような印象を私は受けたがどうなのだろうか。
 ちなみにこの黄村先生はシリーズ化しており、他に『花吹雪』『不審庵』がある。
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 塩澤寺には『舞鶴のマツ』があり、山梨県の指定天然記念物になっている。このマツを撮ろうと思いカメラを構えたところ、妙な緊張を強いるような羽音が聞えて来た。嫌な予感がして音のする方へ顔を向けると、スズメバチだった。彼を刺激しないようにまるで自分がお地蔵様になったかのようにじっとその場で身動きせずに固まり、どうにかやり過ごしてからマツの写真を撮り、一目散に階段を駆け下りて、近くに置いていたレンタサイクルにまたがり、その場を急いで去りました。この時は、本当に危なかった。特大サイズのスズメバチが『舞鶴のマツ』のまわりを世話しなく飛んでいた。これでは『雀蜂のマツ』ではないか。危うく刺されるところだった。
 ちなみに『舞鶴のマツ』の由来は、鶴がまるで両翼を広げて舞い上がろうとしている姿に似ていることからその名が付けられた。もしかしたらスズメバチは鶴と一緒に飛んで遊んでいたのかもしれない。




by dazaiosamuh | 2018-05-27 17:09 | 太宰治 | Comments(0)

 甲府・御崎町周辺の太宰ゆかりの地を大方歩き回った私は、ちょっと距離があるが武田神社へ行くことにしました。
 それにしても武田神社にはレンタサイクル(電動)で行ったのですが、思っていた以上に距離があり、電動自転車とはいえなかなか酷で、到着した頃には太腿がぱんぱんでしかも時期が8月だったもんだから、全身汗だくで、非常に汗臭い状態で神社に入った記憶があります。
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 太宰は昭和14年6月1日付発行の『月刊文章』6月号に『春昼(しんちゅう)』という随筆を発表しており、その中で武田神社を訪れた様子が描かれている。
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 神橋を渡り鳥居の前まで行くと、鳥居のすぐ右脇に、太宰がここを訪れたことを示す看板があり、太宰のその『春昼』が全文ではないが引用されていた。せっかくなので全文載せます。以下、赤文字は『春昼(しんちゅう)』
四月十一日。
 甲府のまちはずれに仮の住居をいとなみ、早く東京へ帰住したく、つとめていても、なかなかままにならず、もう、半年ちかく経ってしまった。けさは上天気ゆえ、家内と妹を連れて、武田神社へ、桜を見に行く。母をも誘ったのであるが、母は、おなかの工合い悪く留守。武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、四月十二日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内の桜が満開なのである。四月十二日は、信玄が生れた日だとか、死んだ日だとこあ、家内も妹も仔細らしく説明して呉れるのだが、私には、それが怪しく思われる。サクラの満開の日と、生れた日と、こんなにピッタリ合うなんて、なんだか、怪しい。話がうますぎると思う。神主さんの、からくりではないかとさえ、疑いたくなるのである。

 看板には『太宰治の愛でた桜』とあり、横には桜の木がある。きっと春には綺麗な桜を咲かせて、訪れる人々を迎えてくれるのだろう。太宰の有名な頬杖ポーズの写真も載っており、訪れた人のなかには熱心に読んでいく人の姿も多く見受けられた。それにしても、太宰は実際に武田神社に来たのだろうか。
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桜は、こぼれるように咲いていた。
「散らず、散らずみ。」
「いや、散りず、散りずみ。」
「ちがいます。散りみ、散り、みず。」
 みんな笑った。
 お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていいものだ。境内は、塵一つとどめず掃き清められていた。
「展覧会の招待日みたいだ。きょう来て、いいことをしたね。」
「あたし、桜を見ていると、蛙の卵の、あのかたまりを思い出して、……」家内は、無風流である。
「それは、いけないね。くるしいだろうね。」
「ええ、とても。困ってしまうの。なるべく思い出さないようにしているのですけれど。いちど、でも、あの卵のかたまりを見ちゃったので、……離れないの。」
「僕は、食塩の山を思い出すのだが。」これも、あまり風流とは、言えない。
「蛙の卵よりは、いいのね。」妹が意見を述べる。「あたしは、真白い半紙を思い出す。だって、桜には、においがちっとも無いのだもの。」
 においが有るか無いか、立ちどまって、ちょっと静かにしていたら、においより先に、あぶの羽音が聞えて来た。
 蜜蜂の羽音かも知れない。
 四月十一日の春昼。

『春昼』にあるように、境内は本当に綺麗に掃き清められ、天気が良かったこともあり、清々しい気持であった。気持ち悪かった全身の汗も、気づいたら引いていた。神社に来ると、気持ちが落ち着くから不思議だ。
 武田神社は、言うまでもないが武田信玄公を祀った神社で、信玄公の父である信虎公が1519年(永正16年)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に、1919年(大正8年)に創建された。武田信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われ、現在も毎年信玄公祭りが開催されている。
 ところで太宰は実際に武田神社へ来たことがあるのだろうか。『春昼』に対して、『この文章では、どうも、本当に出かけた感じが伝わってこない』と書いている書籍もあった。歩いて武田神社に行くには結構な時間がかかる。そうそういつも来れるわけではないはずだが、気分転換に、一度は来た事があるのではと私は思っているが…。
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 さすがに電動のレンタサイクルとはいえ疲れたので、信玄アイスを買って食べました。きな粉と黒蜜がかかっており、甘くてとても美味しかった。アイスにきな粉と黒蜜の組み合わせは最強ですね。
 帰りは長い下り坂なので、気持ちの良い風を受けながら、来るときの苦労を吹き飛ばすかのように下って行きました。


by dazaiosamuh | 2018-05-14 08:26 | 太宰治 | Comments(0)

 昭和20年(1945)7月6日。甲府市街はアメリカ空軍機B29型重爆撃機による空襲を受けた。
蒸し暑い夜で寝苦しく、漸く眠りについた午後十一時過ぎ、警戒警報、続いて空襲警報、灯火管制のくらやみがにわかに、真夏のま昼どきのように明るくなった…』(回想の太宰治)
 午後11時40分過ぎ、市街北方の塚原地区と東北の愛宕山付近に照明弾が落とされ、次いで131機のB29から焼夷弾が投下された。B29が甲府市街の上空から姿を消したのは、日付が変わって午前1時半過ぎであった。この焼夷弾により、石原家は全焼、昭和13年に住んだ寿館、昭和14年に新居とした御崎町の住居も焼失した。
 この時、太宰一家は朝日国民学校(現在の朝日小学校)へ避難した。

私たちは、まちはずれの焼け残った国民学校に子供を背負って行き、その二階の教室に休ませてもらった。子供たちも、そろそろ眼をさます。眼をさますとは言っても、上の女の子の眼は、ふさがったままだ。手さぐりで教壇に這い上がったりなんかしている。自分の身の上の変化には、いっさい留意していない様子だ。私は妻と子を教室に置いて、私たちの家がどうなっているかを見とどけに出かけた…(中略)…家の黒い板塀が見えた。や、残っている。しかし、板塀だけであった。中の屋敷は全滅している。焼跡に義妹が、顔を真黒にして立っている。』(薄明)
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 現在の甲府市立朝日小学校。当時、小学校の周辺は草原だったようで、『私たちは東の町はずれに向かって逃げた。のどがいりつくように乾いて苦しかった。小学校の校庭に続く草原まで逃げて一息ついた。』(回想の太宰治)
 またこの甲府空襲の時、妻・美知子は妹にばかり大変な思いをさせた胸の内を語っている。
夜が明けて太宰が水門町の焼跡に行って妹と会い、妹が小学校の教室で休んでいる私たちのところへやってきた。全然消火活動もしなかったくせに、万一の僥倖をたのんでいたのだが、全焼であった。妹はあのとき、茶の間の前の小池に、ミシンを頭からつっこんだりなどしてから、ひとり蒲団をかぶって千代田村の親戚に向かったという。千代田村には荷物が預けてあったから行ったのだろうが、七キロの夜道を若い女一人でよくも辿ったものである。親戚でおむすびをもらってそれを私たちに届けてくれたのだった。この当時のことを回想すると私は良心がとがめる。とにかく妹ひとり置き去りにして私たち一家四人逸早く逃げ出したのであるから。私たちは婚約者が出征中で手のあいていることをよい倖にして、随分この妹の世話になり、生葡萄酒入りの一升瓶を何回も運ばせ、妹が栽培している椎茸を食べ、利用できるだけ利用してきた。その揚句である。一夜乞食となった私たちは、宿無しというものがどんなに肩身の狭いものか実感した。』(回想の太宰治)

 妻・美知子の妹・愛子は、七キロの夜道を蒲団をかぶって一人で親戚の久保寺家へ助けを求めに行ったのであるが、久保寺家の長女・福子は、母・りゆうに愛子が、『おばあちゃん、全部焼けちゃって何もないさ』と泣きながら話しているのを見たという。
 しかし、太宰の『薄明』を読むと、上記の『薄明』の続きで…
兄さん、子供たちは?」
 「無事だ。」
 「どこにいるの?」
 「学校だ。」
 「おにぎりあるわよ。ただもう夢中で歩いて、食料をもらって来たわ。」
 「ありがとう。」
 「元気を出しましょうよ。あのね、ほら、土の中に埋めて置いたのものね、あれは、たいてい大丈夫らしいわ。あれだけ残ったら、もう当分は、不自由しないですむわよ。」
 「もっと、埋めて置けばよかったね。」
 「いいわよ。あれだけあったら、これからどこへお世話になるにしたって大威張りだわ。上成績よ。私はこれから食料を持って学校へ行って来ますから、兄さんはここで休んでいらっしゃい。はい、これはおむすび。たくさん召し上がれ。」
 女の二十七、八は、男の四十いやそれ以上に老成している一面を持っている。なかなか、たのもしく落ちついていた。三十七になっても、さっぱりだめな義兄は、それから板塀の一部を剥いで、裏の畑の上に敷き、その上にどっかとあぐらを掻いて坐り、義妹の置いて行ったおにぎりを頬張った。まったく無能無策である。』と、義妹・愛子は非常に前向きで頼もしい姿を見せている。
 親戚宅へ行ったときは、もしかしたら焼夷弾ですべて無くなってしまったと思っていたために泣いてしまったのかもしれない。それが翌日焼跡を見に来たら、案外に埋めておいたものが大丈夫だったために希望が持てたのか。それとも姉・美知子の一家の前では、心配させないために泣きたいのを堪えて、元気な姿を見せるように努めていたのかもしれない。

 妻・美知子にしても、妹・愛子にしても石原家の人々は実にしっかりした人たちであることが、この甲府での太宰について調べたり、ゆかりの地を歩いて改めてよく分かる。そして、だからこそ太宰も戦時中でも執筆活動を続けることができたのだと思う。


by dazaiosamuh | 2018-05-07 13:55 | 太宰治 | Comments(0)

 太宰が短編『美少女』で湯村温泉の旅館明治を舞台にしたことは以前にも書いたが、その湯村へ通う際に、太宰も妻・美知子も甲府四十九連隊練兵場付近を通っている。
家内はからだじゅうのアセモに悩まされていた。甲府のすぐ近くに、湯村という温泉部落があって、そこのお湯が皮膚病に特効を有する由を聞いたので、家内をして毎日、湯村へ通わせることにした。私たちの借りている家賃六円五拾銭の草庵は、甲府市の西北端、桑畑の中にあり、そこから湯村までは歩いて二十分くらい。(四十九聯隊の練兵場を横断して、まっすぐに行くと、もっと早い。十五分くらいのものかも知れない。)家内は、朝ごはんの後片付附がすむと、湯道具持って、毎日そこへ通った。』(美少女)
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 旧歩兵第四十九聯隊の営門跡碑。この付近に営門があった。かつて多くの兵士が大声を出して訓練をしていた場所だが、今はひっそりと碑が、ここに練兵場があったことを示しているのみである。
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 福祉プラザの駐車場の敷地内にさりげなく建てられている。気付かない通行人も多い。

『美少女』で、『とにかく別天地であるから、あなたも、一度おいでなさい』と言われ、自分もさっそくその温泉へと向かう。
早朝、練兵場の草原を踏みわけて行くと、草の香も新鮮で、朝露が足をぬらして冷や冷やして、心が豁然とひらけ、ひとりで笑い出したくなるくらいである、という家内の話であった。私は暑熱をいい申しわけにして、仕事を怠けていて、退屈していた時であったから、早速行ってみることにした。朝の八時頃、家内に案内させて、出掛けた。たいしたことも無かった。練兵場の草原を踏みわけて歩いてみても、ひとりで笑い出したくなるようなことは無かった。湯村のその大衆浴場の前庭には、かなり大きい石榴の木が在り、かっと赤い花が、満開であった。甲府には石榴の樹が非常に多い。』(美少女)

 『練兵場の草原を踏みわけて行くと…』とあるが、練兵場というのは自由に中を行き来できるものなのでしょうか。『朝露が足をぬらして冷や冷やして、心が豁然とひらけ、ひとりで笑い出したくなる…』などとは妻・美知子は言わないと思われるので、太宰の誇張であろう。

御崎町を西の端まで歩いて相川の橋を渡るともう市外で、甲府四十九連隊の練兵場に続いている。連れ立って散歩していて、兵隊さんの行進に出くわして、工合のわるい思いをすることもあった。朝夕は近くの甲府中学に通う中学生がぞろぞろ通る。中学生と兵隊さんとをのぞけば、この町は人通りも少なく、大きな商店街もなく、格子作りのしもたやの並んだ眠ったような町であった。』と妻・美知子は御崎町のことを『回想の太宰治』の中で語っている。
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 写真・車道の橋が相川橋で、歩道の橋は竜雲歩道橋となっている。
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 川幅は狭いが、長閑な風景だ。
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 甲府四十九連隊は、現在の緑ヶ丘スポーツ公園全体を練兵場として使用していた。かなり大きな練兵場だったようだ。『連れ立って散歩していて、兵隊さんの行進に出くわして、工合のわるい思いをすることもあった』とあるので、太宰と二人でときおり練兵場周辺や湯村まで散歩して、二人だけの穏やかな時間を過ごしたのだろう。
 甲府は太宰のゆかりの場所が多くあり、歩いていてなかなか飽きない。


by dazaiosamuh | 2018-04-29 13:01 | 太宰治 | Comments(2)

 太宰治の行きつけの酒屋は、朝日5丁目の信号機のところにあった『窪田酒店』という酒屋であった。
酒は一円五十銭也の地酒をおもにとり、月に酒屋への支払が二十円くらい。酒の肴はもっぱら湯豆腐で……』(回想の太宰治)
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 写真の右側、道路沿いに面した場所に窪田酒店がありました。現在は大きな駐車場とファミリーマートになっています。無駄に駐車場が大き過ぎる気がしないでもない…。
 太宰はこの時、生家から月90円の仕送りがありましたが、酒代に20円を当てていたのですね。御崎町の新居に移り住む前の寿館に居た頃、『いつもお銚子三本が適量だと言って、キリよく引きあげていたが、適量どころか火をつけたようなもので、このあと諸所を飲みまわって異郷での孤独をまぎらわせていたらしい。ある飲み屋の女の人から「若様」とよばれたなどと言っていた』らしい。主に窪田酒店から地酒をとっていたが、太宰は至るところで酒を飲み歩いていた。当時あった飲み屋はあらかた飲み歩いていたのではないでしょうか。
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 写真手前すぐの道路沿いに窪田酒店があった。書籍や甲府で買った『まちミューガイドブック 甲府市朝日町界隈編』などの冊子に、窪田酒店の写真やイラスト、窪田酒店の場所が印された地図が載っていたので、簡単に見つけられると思っていたが、ここを初めて訪れた時、どこにも見当たらず何十分もうろうろした。近くの薬局で尋ねてみるも、首を傾げるだけであった。冷静に写真やイラスト、地図をみて、その周辺などを照らし合わせると、この場所で間違いなかった。すでに無くなった後ということで、残念であったが、これも時代の流れだ、仕方がない。格安で販売するスーパーなどのお店ができたり、お店を継ぐ人がいなかったりなど、いつまでも残れるものでもない。
 なるべく少しでも早く、他の太宰のゆかりの地もまわらなくては!!


by dazaiosamuh | 2018-04-21 10:57 | 太宰治 | Comments(0)

豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す

 これは太宰治が妻・美知子に言っていた言葉だ。なぜか妙に格好良く聞こえる。がしかし、私は煙草は吸わないので分からないが、いくらなんでも味噌汁では煙草の毒は消せないだろう。豆腐は私も大好きで、湯豆腐食べながら日本酒をちびちび飲むことがあるので、豆腐で酒の毒が本当に消えてくれたらいいなと思う。

引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利良かった。』(回想の太宰治)
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 喜久の湯を出てすぐの交差点の角に、よく買いに行った豆腐屋があった。写真中央の茶色の建物の場所に、豆腐屋がありました。現在は人家となっているようです。
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 写真の少し奥へと進むと、太宰と美知子の住んだ新居跡があります。新居と喜久の湯の間にあったので、銭湯の帰りに買って帰り、酒を肴に飲んだのでしょう。
 この豆腐屋は、大通りに面した側が入口で、中に豆腐を入れておく大きな水槽があった。屋根は瓦葺きで、新居へと続く道側(写真の中央の道路)は、硝子戸になっていた。
 昭和13年(1938)の「国民新聞」に「九月十月十一月」と題した随筆の中で、「ふと豆腐屋の硝子戸に写る私の姿もなんと、維新の志士のように見えた」と書いている。この豆腐屋を横目に歩いたことが伺えますね。

 太宰は喜久の湯でゆっくりしたあと、新居での晩酌となるのだが…、
酒の肴はもっぱら湯豆腐で、「津島さんではふたりきりなのに、何丁も豆腐を買ってどうするんだろう」と近隣で噂されているということが、廻り廻って私の耳に入り、呆れたことがある。
 噂されるほど沢山豆腐を買っていたのですね。昔は、それぞれの家庭が鍋を持って豆腐屋さんに行き、切り分けてもらっていた。嫌でも人目につくので、妻・美知子も噂話に耐えながら毎日食べる太宰のために買いにいっていたのでしょう。
 ところで、豆腐は酒の毒を消す、と太宰は妻・美知子に言っていたそうだが、美知子の鋭い洞察によると、『太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯がわるいのと、何丁平らげても高が知れているところから豆腐を好むのである。』と断言している。なるほど、そういうことだったのか。

 今度、会社の同僚と飲みにいったら、湯豆腐頼んで、「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」と格好良く言ってみようかなと思います。


by dazaiosamuh | 2018-04-15 09:04 | 太宰治 | Comments(0)