カテゴリ:太宰治( 364 )

 毎年、青森・五所川原市では太宰治名作『走れメロス』にちなんだ『走れメロスマラソン』が開催されている。数年前からこのマラソンがあることは知っていたが、マラソンなど学生時代以来おこなっておらず、しかもマラソンのどこが楽しいんだ、どうせつまらないだろと思っていたため、自分から積極的に走る気など毛頭なく、いくら太宰好きとはいえ、『走れメロスマラソン』は今までスルーしていたのでした。(ちなみに今年で第7回目)
 しかし、1、2年前からマラソンを始めた会社の同僚がおり、その人から話を聞くと、「ストレス発散になった!」「風邪をひきにくくなった」などと言っており、また自分自身、最近は徐々に体力も落ちてきて以前よりもかなりひ弱になったと感じていて、何か運動でもして少しでも学生時代の体力に戻したいと思っていた矢先のことだったため、ふと『走れメロスマラソン』のことを思い出し、去年から私も走り始めたのでした。マラソンは十年振りくらいだったため、自分の体力と足腰の衰えを実感し愕然としました。去年の10月頃から始めたものの、学生時代は5キロなど軽く走っていましたが、3キロを走るのに25分くらいかかり、その後1週間くらい筋肉痛が続き仕事にも影響するほどでした。それでもめげずに毎週走っていましたが、年末を最後に挫折し、今年に入ってから先月までの8カ月間、サボってしまいました。
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 先月半ば頃から再びやる気が起こり、絶対に2019年の『走れメロスマラソン』で自分の満足のいく走りをしてやると思い、ランニングシューズを新たに買い、再開。半年以上走っていなかったため翌日は筋肉痛だらけに。
 先週走った際は、4.5キロで20分9秒かかり、右足太腿の外側を痛めてしまった。それがようやく治り、昨日は5キロを先週のように足を痛めないために少しペースを落として走ったら、23分掛かってしまった。会社でマラソンを趣味としている40代の男性は5キロを18分で走っている。私も来年5月の『走れメロスマラソン』までに、5キロを20分以内で走れるようになりたい。あと3分縮めなくてはならない。『走れメロスマラソン』は、ハーフマラソン、10キロ、5キロ、3キロ、フリー(850メートル)の五つがある。来年5月までに、どれくらいタイムを縮めることができるのか、願わくば5キロではなく10キロ、いやハーフマラソンも走れる体にすることはできるのか、今の状態だと不安だ。なんといっても走り方が悪いのか、それとも10年前に患った腰椎椎間板ヘルニアの影響があるのか、走った翌日はどこかしらを痛めてしまっている。それとも走った後のケアが足りないのか、そのケアの仕方が悪いのだろうか。それに加え去年からあるように、挫折と奮起の繰り返しで、なかなか定期的に走る事ができない。これも問題だ。しかも仕事が終わると帰宅途中、スーパーで缶ビールを買い、ごくごく飲みながら家に帰る癖が数年前からある。「あ、飲んじゃった。どうしよう…。今日は飲んじゃったから仕方が無い…。明日だ明日。」こんな具合だ。どうしようもない。我慢ができないのだ。どうしても飲んでしまう。罪悪感の塊となってしまう。せっかく走る楽しみ、喜びを見い出すことができてきたのに、こんなことではいつまでたってもタイムは縮まらない。酒好きのランナーは一体どうしているのだろうか、甚だ疑問だ。走り終わるまで我慢しているのだろうか、それとも早朝走っているのだろうか。
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 それにしても、なぜ同じランニングシューズを2足も買ってしまったのだろうか…。買って家に着いてから少し後悔した。店でどれにしようか悩んでいた時、普段8千円のシューズが5千円で販売されており、思わず衝動買いしてしまった。しかし、買ったのだからやはり走らなくては!!
 「走れ黒森富治大!!」


by dazaiosamuh | 2018-09-23 14:03 | 太宰治 | Comments(0)

 先月、太宰治原作で伊藤潤二作『人間失格』の第3巻が発売されていた。第2巻では葉蔵とヨシ子のもとへなぜか父が登場したり(それは父の霊なのかよくわかりませんが)、出版社の男とヨシ子が絡み合う姿を見て興奮し、葉蔵自らも公園でそれを思い出して絶頂に果てる描写があるが、第1巻のように登場人物が自殺したり、殺し合ったりなど原作の度を超え過ぎた場面はあまりなかった。第1巻のセッちゃんやその子供も登場せず、雪の降る日に吐血し、地面に大きな日の丸ができるところで話は終わっていた。
 そして第3巻はどうなるのかと読んでみると…
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 第1巻と同じく、またもや登場人物が無残にも死んでいく…。妻のヨシ子は精神が病んでいき、被害妄想や強迫観念の塊になり、薬屋の奥さんに「毒草をください…主人を殺して、私も死ぬんです。」と言い、毒草を勝手に持ち出し自殺。
 さらに薬屋の奥さんは、薬屋兼自宅が火事になり、お義父さんを助けに行くが二人一緒に焼死体となって発見される。挙句の果てに、「ヒロ子(薬屋の奥さん)は、かけがえのない存在でした。紆余曲折の末、ようやく出会えた運命の女だったのです。」などと涙している。ヨシ子ではないのか? 信頼の天才である、汚れを知らぬ尊きヴァジニティを持った純粋無垢なヨシ子を汚し、精神を狂わせたのは他でもない大庭葉蔵だ。ヨシ子の存在がどうでもよくなってる。
 その後、自殺をしようかと思っていたところで、堀木、ヒラメ、マダムによって精神病院に連れて行かれ、そこで一応は、「俺の偽りで級友の竹一を自殺に追いやった。親戚の姉妹を破滅させた。姉は妹に殺され、その妹との間には呪われた子供を作った。不幸なカフェの女給と心中を図り、女だけ死なせた。疑う事を知らぬ無垢なタバコ屋の娘をたぶらかし、疑心暗鬼の塊にして狂い死にさせた。さらにはなんの罪もない薬局の奥さんを、真っ黒焦げの焼死体にした!」と、自分は許されることはないと頭を抱えて懺悔するが…、なんだろう、読んでいてなんにも響いてこない。自分のことを『人間失格』と断定しても何ら違和感がない。そりゃそうだと納得する。
 セッちゃんと竹一に似た醜い子供がどうなったのかと先を読んでいくと、同じ精神病院に二人が居り、原作のラストは東北の温泉地の村はずれで醜い女中と茅屋に二人で住むが、こちらはその女中とセッちゃんと子供と葉蔵の4人で暮らすことになる。(女中が気の毒である)そしてセッちゃんに毎日罵倒され叩かれ、犯され精気を吸い取られて生活し、「今の自分には幸福も不幸もありません。ただ一さいは過ぎていきます」と終わる。葉蔵のせいで竹一は自殺し、親戚姉妹の二人を妊娠させ、妹は姉を殺害、またヨシ子は精神的に狂い自殺、薬屋の奥さんも焼死する。最低であろう。それで「幸福も不幸もありません。ただ一さいは過ぎていきます」と原作通りに言わせるのもどうかと思うが。

 原作とは全く別物である。別物として読めば、大庭葉蔵の違う意味の人間失格を見て楽しめるのかもしれないが、やはり原作に想い入れがあるためどうしても違和感、不快感は拭えない。品がない。
 余談になるが、親戚姉妹の姉から妊娠を打ち明けられたときの葉蔵のポーズが、太宰治が学生時代に芥川龍之介をマネしたポーズでマニアックに描いている部分もあり、そこは良かった。指摘したいところが多くあるが、あえて書かないでおきます。
 下手にアレンジせず原作に忠実であれば素晴らしい漫画になったのではないかと思う。私はこの漫画を読んで、改めて原作はやはり素晴らしい作品だと実感した。
 太宰治がこの漫画を読んだらどう感じただろうか。


by dazaiosamuh | 2018-09-15 23:24 | 太宰治 | Comments(0)

 山小屋で寝るも3時間後には目が覚めてしまった。これ以上眠れそうにないので身支度を整えて、先に起きている同僚と談話しながら、再び登るその時を待つが、なんと、7人のうち私ともう一人のその同僚の二人のみで、残り5人は体調不良によりダウンとなってしまった。そんな心細いまま夜中1時に頂上目指して登山がスタート。
 夜中は寒いためパーカーやレインウェア、ダウンジャケットを着込むが、風が強く手袋(私は軍手)をしても手が冷たくなる。顔も寒いためダウンジャケットのフードを被るが、動きにくい。明かりはヘッドライトが頼りだが、どうにも締め付けられるのが嫌なのと、煩わしかったので外す。すると頭が軽くなりむしろ歩きやすくなった。列を成す登山客のヘッドライトの明かりが沢山あるため、別段、自分がヘッドライトを付けなくても足元はそれほど暗くなく一度も躓くことも無かった。
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 写真は1時半頃。手が冷たくて上手く動かせなかったのもあり、ぼやけてしまいました。上の明かりは町中で、下の波打っている明かりは我々登山客のヘッドライトです。
 同僚二人と雑談しながら登るが、やはり前日の疲れもあり徐々に口数も減ってくる。同僚がふいに、「オレは、何でこんなことをしているのだろう…」とぼそりと言い出す。そんなこと言わないでくれ、心が折れそうになる。しかし、自分も内心、「山小屋に残った5人は今頃ぐっすりと寝ているのだろうな、いいなあ、俺もリタイアして寝てりゃあ良かった…」と何度も心の内で弱音を吐いてしまった。しかし、ふと心に『富嶽百景』の一節が思い出された。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には月見草がよく似合う。
 月見草は富士山を前に堂々と『立派に相対峙し、みじんもゆるがず』立っていたのだ。太宰の描いた月見草は素晴らしい。自分と富士山と比べればちっぽけで、富士山から見向きもされないだろう、月見草のように立派に相対峙するほどの人間でもない、ならばせめて、この足で頂上まで登ってやる、そんな気持ちが密かに胸中で心の火が燃え上がってくるのが実感され、岩場を登る際のふんばりに力が入った。それからは頂上までの時間があっというまで、たしかに過酷であったが、出発から約3時間後の4時頃に頂上に到達した。
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 頂上から撮った4時50分頃の写真。
 頂上はやはり寒かった。寒さに耐えきれず同僚と二人で豚汁(800円)を食べたが、こんなに豚汁が美味く有難いと思った事は無い。しかし、そんな中、頂上で半袖にハーフパンツの外国人がいた。信じられない。いくら登ってきて身体が熱くなったからといっても、この時の頂上は気温4~6度くらいで、強風もあり、御鉢巡りは中止になったくらいだ。(御鉢巡りが中止となったのは本当に残念であった。)
 御来光の出るまで神社で手を合わせたり、同僚は御朱印をしてもらったりなどしてその時を待った。
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 写真、中央の湖は河口湖で、その先の方角には太宰治が滞在し嫌というほど富士山と向き合った場所である御坂峠の天下茶屋がある。ここからははっきりとは見えない。それでも、太宰が富士を眺めた御坂峠を、富士山頂上から眺め見るのは、なんだか感慨深いものがある。まわりの人たちは皆、御来光が顔を出す方角に向かって一生懸命にカメラを構えたり、場所取りをしている。
 私と同僚もそれにならってそちらの方角を眺めていると、次第にその姿を焦らすかのようにゆっくりと見せ始めた。
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 頭を出すところがなんとも可愛らしい。
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 初めての富士山頂上からの御来光です。ありがたい!!なんともありがたい!! 登って良かった!! と素直に思える。苦難を乗り越えたからこその喜びである。
 この時の富士山の印象、想いは太宰の言葉を借りれば、
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。

 本当に富士にはかなわないと思った。この日を決して忘れない。
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 写真は火口で、御鉢巡りができないのでせめて近づいて写真を撮ろうと思ったが、ロープでそれ以上近づけないようになっていたため、火口を覗くことができなかった。しかし御鉢巡りができなかったことは残念であったが、今回はこれで良かったのかもしれない。いつかまた来る日のお楽しみだ。
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 御来光をたっぷりとこの目に焼き付け、パワーをもらい、5時15分過ぎくらいに下山。下山は自分のペースで進んでよいとのことで、山小屋の5人もすでに下山していると思い、私と同僚は二人で山小屋を出た5人に追いつく気持でハイペースで下りた。頂上までの行きで体力を相当消耗し疲労困憊であったように思われたが、御来光の力なのか、それほど疲れることなく下りる事ができ、五合目のスタートした施設に到着する前に5人に追いつくことができた。登りは5合目から頂上まで8時間半ほどであったが、下山は頂上から5合目まで2時間半であった。登りのスタート直後、ガイドが、「下りて来る人の顔はみな笑顔がない」と言っていたが、思ったほど疲れはなく、体調を悪くした5人もしっかり回復し、7人全員笑顔で帰って来ることができた。

 今回、まさか太宰治の名作の主役ともいえる富士山を登ることができ、また頂上まで到達し御来光を拝むことが出来て、感慨無量であった。
 今思えば、私がはじめて歩いた太宰治のゆかりの地は、御坂峠の天下茶屋であった。残念ながら富士は顔を出してくれなかったが、初めての聖地巡りだったためとても印象に残っている。すでにあれから6年が経つ。早いものだ。
 昭和13年9月、太宰治は師である井伏鱒二の勧めにより、それまでの怠惰な生活にピリオドを打ち、再起をかけて「思ひをあらたにする覚悟」で御坂峠の天下茶屋へとやってきた。嫌というほど富士と対峙し、また翌年には甲府で石原美知子と見合い、結婚し、その「思ひをあらたにする覚悟」に偽りはなく、その後の作品は、さんざん述べたように『富嶽百景』や『女生徒』『駆込み訴え』『走れメロス』などの明るく、健やかな作風を思わせる作品を次々と世に出していく。
 これには富士の助力があったことであろう。太宰治と富士は切っても切り離すことはできない。

 私もせっかく富士山から、そしてその頂上から見た御来光から力をもらったのだから、「思ひをあらたにする覚悟」で色々なことに挑戦し、懸命に生きていきたいと思う。
 

by dazaiosamuh | 2018-09-07 23:46 | 太宰治 | Comments(6)

 先月の8月30日に富士山を登りに行った。今まで富士山はおろか登山自体ほとんど経験がなく、記憶にあるのは小学生のころに故郷の岩手山を学校の行事でいやいやながら登ったことぐらいである。太宰治の名作『富嶽百景』で『富士には、月見草がよく似合う』という名言が登場し、太宰文学作品のなかでもこの作品は非常に評価が高く、太宰を代表する作品の一つだ。そんな名作の主役と言える富士山を、いつかは私も登ってみたいと密かに思っていたところ、偶然、会社の同僚から富士登山に誘われ、その機会を得たのでした。

富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西及南北に断面図を作ってみると、東西横断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士をさえ描いている。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとえば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらわれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、それだけ訴え得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがっている割に、低い。あれくらいの裾を持っている山ならば、少なくとも、もう一・五倍、高くなければいけない。
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『富嶽百景』の冒頭は、富士の頂角におけるそれぞれの数字を列記し、それを実際の数字を提示して広重や文晁、北斎の鋭角な富士に対して『鈍角も鈍角』と言い、富士の裾の拡がり具合をみて『少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない』と指摘している。また、富士山を一切知らぬ者が富士山を目にしたときに、その純な心に、どれだけ訴え得るかということに対して、『多少、心細い山である』と批評している。さらにその後、東京のアパートから見た時の富士のことを『クリスマスの飾り菓子』と言ったり、御坂峠の天下茶屋から見た富士を、初めは『軽蔑さえ』し、『ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめ』、『これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった』とまで言い切っている。

 最終的には主人公にとって、『よくやってる富士』『偉い富士』『ありがたい富士』となんとも頼もしい存在となる富士ですが、さて、富士山を鑑賞するだけでなく、実際に登って見るとどんなものなのか、富士は高い! 頼もしい! ありがい! と思えるのか、もしくは、なんだ、大したことないじゃないか、ご来光? それがどうした、となるのか。今回、富士登山ははじめてということで主観的な視点ばかりになるが、太宰が残した名作の舞台である富士山登頂の紀行文を書いていきます。
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 会社の同僚7人(8人の予定だったが、腰痛により一人はリタイア)でツアーバスに揺られて東京から五合目まで行き、身体を気候に慣らすのも兼ねながら出発前の1時間は、身支度、お昼休憩となり、ガイドを先頭に登山がスタート。7人のうち6人は、装備はほとんどフルレンタルで、リュック、トレッキングポール、トレッキングブーツ、レインウェア上下、ヘッドライトを借りる。

 最初は、それぞれ雑談したり五合目からの景色を眺めながら悠々と歩きはじめる。歩いているとガイドの男性が「下山してくる登山者の人たちの顔をよく見てください。どうですか? みな笑顔がないでしょう。それだけ体力を消耗し、疲れて帰って来るのです。」
 なんて恐ろしいことを言うのだ。ビビらせるつもりなのか。次の日は自分たちもこのルートを下山してくるのだ。果たして笑顔で戻ってくることはできるのか。下手したら体調を悪くし、山頂に到達できずに下山するはめになるかもしれない、そんなことを考えながら景色を眺めつつどんどん進んでいきます。ゆっくり歩きますので、とガイドは言っていたが、慣れないズシリと肩に響く思い登山リュックを背負っていることもあってか思っていた以上にペースが早く感じる。
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 たしか出発したのは昼12時を少し過ぎたくらいであった。出発から約1時間半後の写真。数十分おきに休憩を入れ、水分補給や持参したナッツやチョコなどを口に放り込み、適度に栄養を補給。ここまではメンバー7人(男性6人、女性1人)距離も離れることなく足取りは軽い。しかし…。
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 出発から約2時間半後。メンバ―の歩く距離間が徐々に拡がって来る。7人のうち1人だけ遅れだす。本人は大丈夫だとは言っているが、明らかに荷物が多いのだ。たいていリュックを一つだけ背負って登るものだと思うが、彼はリュックにビニール製の袋が結わえ付けてあり(しかもそれもなかなかな重量)、さらにショルダーバックまで持ってきている。リュックに入っている水の量はなんと5リットル! 持ち過ぎだ。私の2倍じゃないか。体力の消耗は他の人より多いはずだ。
 そしてさらに、もう一人の息が荒くなってきてペースダウンが始まる。股関節の痛みに耐えながらとなる。彼は服装が良くなかった。サバイバルゲームで使っている安価な上下迷彩柄の通気性の悪い服装で、しかも速乾性も皆無。挙句の果てにズボンを2枚重ねで穿いている。いくら何でも富士山を舐め過ぎだ。
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 出発から約3時間半後の景色。雲より高い場所にいるというのは実に気持ちの良いものだ。空が近い。思わず青空に向かって手を伸ばしたくなる。休憩時間、たとえ数分の時間でも景色を眺めていると疲れが取れる。もっと雄大な景色がみたい!! 頂上から見たい眺めたい!! これが登る原動力にもなる。それにしても、自分たちは一体地上から何メートルの高さにいるのか、何合目のどのあたりなのか、何も考え無しに雑談ばかり喋って登って来たので、写真が地上から何メートルなのか記事を書いている私自身よくわからない。ほかの山は分からないが、ゴツゴツした岩を登らなくてはいけない箇所もなんどもあり、足腰への負担が思っていた以上で、平気で登る年配者や子供が信じられなかった。足をぶつけた時、トレッキングブーツを借りて良かったと思いながら登っていると、普段靴で登る人たちもかなり多く見受けられ、挙句の果てにジーパンで登っている人までいた。普段靴は外国人に多く、やはり海外からすれば、富士山は低く見られ、舐められているのだろうなと、疲れている自分にとっては、なんだか悔しいやら悲しいやら変な感情が込み上げてきた。
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 出発から約4時間半後。途中、同じツアーで一緒に登ってきた、金髪の外国人男性と日本人女性のカップルが残念ながらリタイアする。このカップルは登山中、暇さえあればキスばかりしていた。私たち7人のすぐ目の前を歩いていたためどうにも不愉快でしょうがなかった。女性の方が体調を悪くしたようであったが、愛の力だけでは登れないのが富士山であることを証明し、また実感した。それにしても、空の風景写真ばかり撮って、山を登っている写真や崖の写真などは取り忘れてしまった。似たような写真ばかりで読者には申し訳ない。
 太宰治は『富嶽百景』で富士山のことを『鈍角も鈍角』『裾の拡がっている割に低い』と言っていたが、たしかに海外の山などに比べたら富士山は低く、鈍角かもしれない、しかし、いざ登って見ると過酷。私が登山自体はじめてだからというのもあるかもしれないが、登って見ると、低いなどとばかにできない。『なんのことはない、クリスマスの飾り菓子だ』などとは口が裂けても言えない。このころにはメンバーも口数が減ってきており、メンバーの還暦を過ぎた女性は途中で若干の吐気に襲われ、さきほどキスカップルを一緒に不快に思っていた別の同僚男性も高山病なのか軽度の頭痛を発症している。この同僚男性は、前日、仕事で夜遅くまで働き、睡眠をほとんど取らないできた。寝不足での富士登山は危険極まりない。翌日、山頂まで行けるのか心配であった。それにしても、別のツアーグループは、ガイドがここは何合目です、このような姿勢で休憩ですると体に負担がありません、ここからはこのような服装がおススメです、などと一生懸命に説明しているが、私たちのツアーグループのガイドは、何ら説明もアドバイスも無かった。ほぼ無言で登っていた。こういうのもガイドの人柄などによるのだろう。それとも安いツアーで申し込んだからなのか……。そんなわけないか。
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 出発から約5時間半後の17時半前に8合目あたりの宿泊予定の山小屋・白雲荘にメンバー全員が一応無事に到着。ガイドは今日の風は温かいと言っていたが、結構寒い。寒さのあまり宿泊した山小屋の写真を撮るのを忘れました。山小屋からの景色も疲れて撮り忘れ、しかも山小屋のスタッフから早く山小屋に入り夕飯を食べるように催促され、慌ただしく出されたカレーライスを食べました。明日の朝用のいなり寿司と缶のお茶を渡され、一緒に登ってきたガイドのおじさんが「明日は、0時半起床で、午前1時に出発しますので。それでは明日。」と言い早々に姿を消しました。何ともあっさりしています。横では別のツアーガイドが、「明日、いよいよ山頂へ行きますが、非常に寒いです。私はニット帽にネックウォーマー、それから下着にヒートテック…、山頂には豚汁などの販売もあり…、御朱印をする方は…』等々云々と、自分の率いる登山客に熱心に色々とアドバイスをしていました。

 夕飯を食べ終え荷物を置いた寝床へ向かうも、疲れて着替える気も歯を磨く気も起らず、時計を見るとすでに18時半を過ぎており、6時間後には起きなければいけず、メンバー7人、さっさと耳栓とアイマスクをして蒲団に入りましたが、あまりの狭さとカビ臭さには甚だ閉口しました。ここも写真を撮り忘れましたが、寝床は2段になっており、横の間隔が非常に狭く、しかも蒲団は二人に一つであった。私の横は知らないおじさんで、いびきもうるさく、耳栓をしても効果は薄かったが、疲れているのもあり、いつのまにか眠りに入ってました。

 5合目からこの山小屋まで約5時間半近くかかった。これほど疲れるとは思っていなかった。しかし、水を2,5リットル持って行ったが、トイレに行きたくなるのを恐れて1リットルしか飲まなかった。少なすぎたかもしれない。もう少ししっかり飲んでいれば、疲れも違かったように思う。

 本当はメンバー7人全員で山頂での御来光を見たかったが、すでに2人が翌日の山頂行きは断念している。
 翌日は暗闇での登山となる。ヘッドライトの頼りない灯で登らなければならない。寒さも酷いだろう、気を引き締めて挑まなくてはならない。果たして、無事に御来光を拝むことができるのか。

 次回に続きます。


by dazaiosamuh | 2018-09-01 22:54 | 太宰治 | Comments(0)

 太宰治がよく飲みに行った場所で判明しているのが、舞鶴城公園の南側にあった梅ヶ枝旅館。太宰はそこで井伏鱒二などと一緒によく飲んでいたようだ。さらに山梨在住の文化人ともよく会っていたようで、その飲み場の一つにもやはり梅ヶ枝旅館があった。

 最初、梅ヶ枝旅館の詳しい場所が分からなかったが、場所を特定するにあたって、太宰の滞在した旅館明治を訪れた際に偶然に梅ヶ枝旅館の詳細な住所を知ることができた。旅館明治の館内にある太宰治コーナーに、『太宰治の足跡』と書かれたプレートが壁に掛けてあり、そこに梅ヶ枝旅館跡の住所と地図が記載されていたのだ。
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 梅ヶ枝旅館は現在の丸の内1-9-5にあったようだ。地図の⑤番の場所になる。
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 ここが現在の丸の内1-9-5で、梅ヶ枝旅館跡になります。現在は駐車場となっており面影は何もないように思われる。
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 この跡地を歩き廻ってよく見てみると、旅館がかつてあったであろうと思われる、石柱?石塀?というのかそれらしきものがあった。梅ヶ枝旅館は平成20年3月に閉館した。雑誌などの写真から当時の風情ある佇まいを伺うことはできる。なんでも小振りではあるが粋な感じの旅館であったとのことだ。
 昭和20年4月11日、甲府の石原家で土産に買った鶏二羽の羽を小山清と挘っていたところへ、井伏鱒二が訪れ、三人で梅ヶ枝へ行き酒盃を傾けた。この時に、太宰は井伏から小山初代が青島で死んだことを知らされたという。翌12日、太宰治、井伏鱒二、小山清と三人で、妻・美知子の作ってくれた弁当を持参して武田神社に花見に行った。
 梅ヶ枝旅館は、太宰が最初の妻・小山初代の死を知らされた重要な場所であった。太宰にとっては、胸の痛む思い出の場所となってしまっただろうか。

 太宰治に限ったことではないが、ゆかりの建物が無くなっていくのは本当に残念だ。せめてここにかつてこれがあり、彼はここへやってきたのだというのを発信し、伝わってくれればと思う。

 太宰治と甲府の記事は長くなったが、次回で終了になります。


by dazaiosamuh | 2018-08-25 15:28 | 太宰治 | Comments(0)

 『新樹の言葉』は今回で最後になります。
 望富閣でさんざん飲んで眠り込んだ主人公であったが、それから二日目の夜中の2時過ぎに火事の騒ぎに気付く。
宿からは、よほど離れている。けれども、今夜は全くの無風なので、焔は思うさま伸び伸びと天に舞いあがり立ちのぼり、めらめら燃える焔のけはいが、ここまではっきり聞こえるようで、ふるえるほどに壮観であった。ふと見ると、月夜で、富士がほのかに見えて、気のせいか、富士も焔に照らされて薄紅色になっている。四辺の山々の姿も、やはりなんだか汗ばんで、紅潮しているように見えるのである。甲府の火事は、沼の底の大焚火だ。

 一軒や二軒の火事の焔によって富士山が照らされるものなのだろうか。他にも太宰は『富嶽百景』のなかで、夜中に外に出かけたとき、『おそろしく、明るい月夜だった。富士が、よかった。月光を受けて、青く透きとおるようで、私は、狐に化かされているような気がした。富士が、したたるように青いのだ』と書いている。
 月光を受けてしたたるように青い富士と、火事の焔によって薄紅色に照らされた富士。対照的に描かれている。嫌というほど甲府で富士と対峙した太宰の甲府を舞台にした作品の背後にはいつでも富士がおり、豊かな色彩感覚によって表現されているように思われる。

 主人公はふと先日の望富閣を思い出し、おもわず甲府駅まで駆けていた。まわりの人々が口々に柳町、望富閣、と叫び合い、お城へとのぼっていたため、『人々のあとについて行き、舞鶴城跡の石の段々を、多少ぶるぶる震えながらのぼっていって、やっと石垣の上の広場にたどりつき、見ると、すぐ真下に、火事が、轟々凄惨の音をたてて燃えていた。
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 写真は現在の舞鶴城公園。天気もよく気持がいい。しかし、望富閣(モデルは望仙閣)のあった場所から轟々凄惨の音はさすがに距離があり聞えないであろう。
とんと肩をたたかれた。振りむくと、うしろに、幸吉兄妹が微笑して立っている。
「あ、焼けたね。」私は、舌がもつれて、はっきり、うまく言えなかった。
「ええ、焼ける家だったのですね。父も、母も、仕合わせでしたね。」焔の光を受けて並んで立っている幸吉兄妹の姿は、どこか凛として美しかった。「あ、裏二階のほうにも火がまわっちゃったらしいな。全焼ですね。」幸吉は、ひとりでそう呟いて、微笑した。
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 写真は望富閣のある方角ではないが、激しく燃える音と同様に、たとえ現在のように高い建物が無いにしても舞鶴城跡からは燃えている様子が詳しくはっきりとは見えないはず。主人公の乳母が居た家に火事が起き、そして主人公の乳母の子供たち・幸吉兄妹は育った家を失うが、これは、太宰が甲府で気持ちを新たに妻・美知子を持ち、文筆に打ち込み、決して金木の生家を頼らない、頼らずとも強く生きていく、という再出発へ懸ける強い思いの表れなのではないかと私は考えている。

けだものの咆哮の声が、間断なく聞こえる。
「なんだろう。」私は先刻から不審であった。
「すぐ裏に、公園の動物園があるのよ。」妹が教えてくれた。「ライオンなんか、逃げ出しちゃたいへんね。」くったく無く笑っている。
 君たちは、幸福だ。大勝利だ。そうして、もっと、もっと仕合せになれる。私は大きく腕組みして、それでも、やはりぶるぶる震えながら、こっそり力こぶいれていたのである。
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 『公園の動物園』というのは、現在の甲府市遊亀公園附属動物園のことで、太田町公園とも呼ばれている。大正8年(1919)に開業した。調べていて知ったのだが、東京都・恩賜上野動物園、京都府・京都市動物園、大阪府・大阪市天王寺動物園に次いで日本で4番目にできた動物園とのことで、歴史は古い。
 遊亀公園内の南隅にあり、たしかに望仙閣跡付近の裏側に位置する。
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 ここを訪れたときは非常に暑かったが、楽しそうに水遊びするペンギンを見て癒された。ペンギンは、いつ、どこで見ても可愛いもんですね。
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 マレーグマは毛が短くスマートなクマとのことだが、なんだかちょっとひ弱そうに見えるのは私だけでしょうか…。さっぱりし過ぎな気もしないでもない。
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 水遊びをするゾウさん。この日は日差しが強かったから見物客どころじゃなかっただろう。
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 ポニーは可愛いですね。木影でのんびりしています。家で飼いたいです。
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 寄り添うライオン。いや、寄り添っているのではなく、雄は雌ライオンの横で眠りこけている。
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 しかもよく見ると、目が半開きだ。ライオンは寝ている時、このように完全に瞼を閉じないのでしょうか。動物には詳しくないのでよく分かりません。雌は退屈そうに虚ろな目でこちらを見ている…。食う、寝る、歩く、ぼーっとする。これしかすることがないもんなあ…。
『けだものの咆哮の声が間断なく聞こえる』とあったが、こんな平和ボケしていたらいざという時に大声で咆哮など出せないのではないかと大きなお世話かもしれないが勝手に心配してしまった。
 この附属動物園は昭和20年(1945)7月6日の甲府空襲により全焼し廃園となるが、戦後、民間に一時貸出されていたが、甲府市に移管され再び市営動物園として再開し、改修を行い、昭和32年(1957)12月、都市公園指定を受け、甲府市遊亀公園附属動物園と名称し現在に至る。

『新樹の言葉』の最後に、
『君たちは、幸福だ。大勝利だ。そうして、もっと、もっと仕合せになれる。私は大きく腕組みして、それでも、やはりぶるぶる震えながら、こっそり力こぶいれていたのである。』とあり、幸吉兄妹に対して言っているかに見えるが、じつは幸吉は太宰自身でありしたがって自分に対して言い聞かせているのだろうと思われる。『こっそり力こぶいれていた』という部分からもその強い意気込みを感じずにはいられない。

 『新樹の言葉』はこれで最後になりますが、甲府はもう少しだけ続きます。


by dazaiosamuh | 2018-08-18 17:40 | 太宰治 | Comments(0)

 甲府の記事がだらだらと続いて遅れてしまっていますが、気を取り直して再開です。

『新樹の言葉』で、ある日主人公は郵便屋さんに呼び止められ、あなたは幸吉さんのお兄さんだという。主人公は違うと言うが、納得しない。そこでその幸吉という人物に会いに行くが、実は、津軽で主人公の乳母をしていた「つる」という女性の息子であった。つるは主人公を息子同然に愛し育てた。そのため幸吉は主人公のことを本当の兄のように慕っていたのだ。こうして再会し、話は進んで行く。乳母のつるはすでに13年前に亡くなり、またつるの夫は井戸に身を投げて死んだという。しかし、幸吉には4つ下の21歳の妹がおり、大丸デパアトで働いている(その大丸デパアトのモデルというのが、№19で書いた松林軒である)。
 そして幸吉は、ある料亭に主人公を招待する。
見ると、やはり黒ずんだ間口十間ほどもある古風の料亭である。
「よすぎる。たかいんじゃないか?」私の財布には、五円紙幣一枚と、それから小銭が二、三円あるだけだった。
「いいのです。かまいません。」幸吉さんは、へんに意気込んでいた
「たかいぞ、きっと、この家は。」私は、どうも気がすすまないのである。大きい朱色の額に、きざみ込まれた望富閣という名前からして、ひどくものものしく、たかそうに思われた。
「僕も、はじめてなんですが、」幸吉さんも、少しひるんで、そう小声で告白して、それから、ちょっと気を取り直し、「いいんだ。かまわない。ここでなくちゃいけないんだ。さ、はいりましょう。」
 何かわけがあるらしかった。
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 その料亭、望富閣というのは、太田町公園(市立遊亀動物公園)の西南隅にあった望仙閣のことらしい。詳細は不明で曖昧であるが、料亭・望仙閣は創業明治18年で太田町に築かれたのは明治21年(1888)のことらしく、昭和20年7月6日の甲府空襲で焼失してしまった。
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 公園・西南隅の望仙閣跡付近の写真です。その周辺に美容院があったので、その店のスタッフに望仙閣が当時ここにあったのかどうか聞いてみると、料亭が昔この付近にあったという話は聞いている、とのことであった。その料亭がやはり望仙閣であると思われる。そんな話をしていると、美容院の眼鏡をかけた綺麗な女性スタッフが果物のマスカットを何粒か持ってきて、どうぞ食べて下さいと渡してきた。この動物公園まで自転車で汗だくになりながら来たので、よく冷えたマスカットの甘味が体に染み渡った。なぜそんなことを調べているのかと聞くので、ここが太宰治の作品『新樹の言葉』に登場する場所で、自分は趣味でゆかりの地を歩いている、と答えると、太宰治?そうなんですか!と驚き、目を丸くしきょとんとしていた。どういう風に思ってくれたのかは分からないが、去り際、暑いですが頑張ってくださいと言ってくれた。

 話は新樹の言葉に戻り、料亭・望富閣に入った主人公と幸吉。はじめて入ったと幸吉は言うが、「表二階の八畳がいい」「やあ、階段もひろくしたんだね」といい、部屋に通されると「ここは、ちっともかわらんな」などと呟き、そうして主人公に向かってニコニコしながら、『ここは、ね、僕の家だったのです。いつか、いちどは来てみたいと思っていたのですが。』と語りだした。
 そう、ここは、幸吉の父が昔建てた呉服屋で、つまり幸吉の懐かしい家だったのだ。今では人手に渡り、料亭となっていたのだ。
 主人公は憐憫の情を幸吉に抱きつつ、二人で酒を呑み始めるが、『なにせ、どうも、乳母のつるが、毎日せっせと針仕事していた、その同じ箇所にあぐらをかいて坐って、酒をのんでいるのでは、うまく酔えよう道理が無かった。ふと見ると、すぐ傍に、背中を丸くして縫いものしているつるが、ちゃんと坐って居るようで、とても、のんびり落ちついて幸吉と語れなかった。
 そうして、がぶがぶと酒を呑んで、べらぼうに幸吉に向かって難題をふっかけたりし、『しょげちゃいけない。いいか、君のお父さんと、それから、君のお母さんと、おふたりが力を合わせて、この家を建設した。それから、運がわるく、また、この家を手放した。けれども、私が、もし君のお父さん、お母さんだったら、べつにそれを悲しまないね。子供が、二人とも、立派に成長して、よその人にも、うしろ指一本さされず、爽快に、その日その日を送って、こんなに嬉しいことじゃないか。大勝利だ。ヴィクトリイだ。なんだい、こんな家の一つや二つ。恋着しちゃいけない。投げ捨てよ、過去の森。自愛だ。私がついている。泣くやつがあるか。
 そうして酔いつぶれて寝ころんで、いつの間にか枕元に来ていた幸吉の妹に、乳母つるの面影を見い出すと、悪酔いも涼しくほどけて、全く安心して眠ってしまった。そうして半分夢の中で、自動車に揺られながら、幸吉兄妹に宿まで送ってもらい、翌る日の正午までだらしなく眠り込むのであった。

 望仙閣の正確な跡地はちょっと分からない。動物公園の西南隅とのことで、載せた写真の付近にあったと思われます。実際に太宰が料亭・望仙閣に来たのかも曖昧で引き続き調べていきたい。
『新樹の言葉』の記事は次回で終了予定。



by dazaiosamuh | 2018-08-05 13:52 | 太宰治 | Comments(0)

 猛暑が続いてる。最高気温35度ばかりのせいで、たまに気温が30度ぐらいだと涼しく感じられる。異常だ。ためしに何回かクーラーをつけないで夜に寝てみたが、全く駄目だ。暑くてかなわない。クーラーを使いすぎると、身体の体温調節機能が衰えるとテレビでやっており、自分自身、涼しい部屋にいると出かけるのが億劫になるので、最近はエアコンを使わずに窓を全開にして扇風機をまわしている。これを理由にしてはいけないが、暑くて記事を書く気が起きない状態が続いている。やはり適度にクーラーをつけた方がいいようだ。
 こんな暑さの続くなか、昨日、銀座のルパンへ行った。暑いとやはり涼みがてら美味しい酒が飲みたくなるものだ。ルパンでウィスキー(余市)のロックを飲みながら、ふと、そういえば8月は自分の誕生日だと思い出し(それにしても、こんな暑い時期に生れてくるとは…、一番嫌いな季節は夏だ)、マスターにそれを言うと、「そうか、しょうがないな。じゃあこれをやるよ」と、本を2冊くれた。
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 それは藤寿々夢という方が書いた上下巻の本であった。私は太宰治の関連本をたまに古本屋に買いに行くが、この2冊は見かけた事がなかった。マスターが教えてくれたが、どうやら私家版とのことで、あまり出回っていないようだ。(著者がルパンに寄越したようです)しかし、まさかこのような本が頂けるとは思っておらず、嬉しく、感慨無量であった。
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 この小説は、上下巻共に太宰治の旧制弘高時代にスポットライトをあてた物語で、『太宰治と同期に旧制弘前高等学校(現・弘前大学)を卒業した方が、当時の学生生活を思い出しながら、かつ、太宰治と交流のあった方及び関係者から聴取して記述した資料に基づいて、当時の新聞、及び相馬正一氏の「評伝・太宰治」等と照合しながら書いた小説』(あとがきより)となっている。
 上記のことから、太宰治の弘高での学生生活がどんな感じであったのか、覗いて見る事ができるようだ。今月はこの本をじっくり読んでみようと思う。(よく見たら2冊ともサインが入ってる)
 マスター、ありがとう。



by dazaiosamuh | 2018-08-01 11:05 | 太宰治 | Comments(2)

 連日の暑さと仕事の疲れで記事を2週間近く怠けて書いていなかったので久しぶりの投稿です。
 先月16日から今月16日まで、三鷹市美術ギャラリーで、太宰治没後70年を迎えるにあたり『太宰治 三鷹とともに』と題して特別展が開催されている。今月初めのうちに仕事帰りに行こうと思っていながら結局行かず仕舞で、気づいたら開催最終日の前日になっていた。今日は仕事も休みだから行こうと思っていたが、東京は気温36度まで上昇するとニュースでやっていたので、どうしようかと悩んだが(暑いのが一番苦手で、春夏秋冬では一番夏が嫌い)、最終日の明日は仕事なので、仕事帰りになると疲れもあり自分の億劫がる性質から行かない可能性が高いので、冷蔵庫の中に居るのかと思うくらいに冷やした部屋のクーラーをオフにし、両手で頬を叩いて気合入れて三鷹へ向かいました。
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 三鷹に着いた時には案の定、全身汗だく状態でしたが、三鷹市美術ギャラリー内へ入ると涼しくさらに暑さも忘れて展示品に見入ってしまったので、やはり来てよかったです。
 この特別展は『三鷹で生きた太宰治の人生を、三鷹の歴史を辿りながら、太宰治と彼を支えた人々との交流に焦点を当てて…』紹介してあります。
 太宰治は昭和14年(1939)~昭和23年(1948)まで三鷹に暮し、昭和23年6月13日に山崎富栄と玉川上水に投身し、生涯を終えました。
 太宰治の関連書籍を読み漁ったり、ゆかりの地を歩いたりなどした私としては目新しい展示物はあまり無いのかと思っていましたが、初めてみる太宰治の写った写真や本特別展で初公開のものもありました。
 この特別展で初公開となる『荻窪の碧雲荘で使用していた椅子』が展示されていました。現在碧雲荘は大分県湯布院に移築されていますが、この椅子というのは、太宰治が小山初代と別離する際、小山初代が家具類を整理することになり初代が井伏鱒二に処分を託し長らく保管していたが、太宰死後、太宰の遺族に渡りさらに遺族が三鷹市に寄贈したもののようです。林檎柄の布地で、郷里・青森を想わせます。碧雲荘は和洋折衷の造りであったというから、この椅子が置いてある部屋の景色を想像しても何ら違和感は感じない。太宰が座っていたかと思うと触りたくなるが、触れるのは厳禁なため首を亀のように懸命に伸ばして仔細に眺め、匂いはないかと鼻孔を広げて嗅いでみたが、よく分からなかった。その様子をすぐ横でパイプ椅子に座って見ていた監視員は冷や冷やしていたことだろう。
 また昭和2年に官立弘前高等学校文科甲類に入学し、縁戚にあたる藤田家に下宿していた際に使用していたランプ(藤田家にて撮影された写真に太宰治とそのランプもしっかり写っている)も展示されており、こちらも私は初めてお目にかかった。実に綺麗な状態で残っているものだなと思っていたら、ランプシェードは複製とのことであった。この展示されたランプの複製されたランプシェードの布地は若葉色で、ランプの光でなんともやわらかく心落ちつかせる明かりを燈していたが、実際に太宰が藤田家で使用していたランプのランプシェードもこのような若葉色だったのだろうか。複製とのことだからそうなのかもしれない。
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 写真も初めてみるものが数点あったが、太宰治が阿佐ヶ谷将棋会にて将棋を打っている写真も1枚展示されており、この写真も初めてであった。太宰がその長く綺麗な指に駒を挟んで敵陣に打ち込んでいる写真であった。(相手は誰なのか見ていなかった)指に挟んでいるので当然何の駒かは分からないが、果敢にも敵陣に攻め入っている様子が伺える。しかし、私は将棋は下手なので、その写真に写っている盤面を見ても優劣、形勢判断はつけられない。敵陣に駒を打ち込む太宰治の姿をよくみると、和服で胡坐をかいており、膝から下が露わになっていた。じっくりとその露わとなった脚をみてみると、男らしい立派な毛脛が足首まで満遍無く生えそろっていた。逞しい胸毛も生えているとのことであるから、その他の体毛も立派であるに違いないと思っていたので、今回初めて太宰治の逞しい立派な毛脛を確認することができ、私は大変満足でした。

 その他にも貴重な資料や中々お目にかかれない代物などの展示品が揃っており、非常に見応えがあった。上記に書いた通り、碧雲荘で使用していた椅子、藤田家で使用したランプ、阿佐ヶ谷将棋会での将棋を打っている写真を見れたことが何よりも貴重で嬉しい限りであった。
 それにしても碧雲荘で使用していた林檎柄の布地の椅子が残っているなんて、何で今まで公開されなかったのであろう。来年は生誕110年だ。他にも初公開の展示品が数多く登場するに違いない。今から楽しみである。
 三鷹の太宰治没後70年特別展『太宰治 三鷹とともに』は明日16日まで!!


by dazaiosamuh | 2018-07-15 19:23 | 太宰治 | Comments(0)

 先月6月28日、新宿のbar『風紋』は開業から57年の歴史に幕を下ろした。経営者の林聖子さんは今年90歳。体を悪くし、立っていることが辛い状態であることなどからお店をたたむことにしたようだ。
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 入口には聖子さんの歩行器(?)があった。風紋は地下にあるため、階段を上り下りしなければならない。立っていることも辛い聖子さんには難儀であろう。
 私が訪れたのは先月22日。ちょうどその日は風紋閉店にあたって『風紋 終幕の会』が行われる日であった。私はネットで偶然にも風紋が閉店することを20日過ぎに知り、22日が『終幕の会』とは知らずに行ったのでした。
 『終幕の会』とあって、長年通っている常連さんや聖子さんと親しい人たちが大勢集まっていた。そんな中、私は今回で3回目でそしてこれが最後になります。初めて訪れたのは、2014年11月のことで、太宰治短編作品『メリイクリスマス』のモデルである林聖子さんの存在を知り、開店50周年を記念して出された本『風紋50年』を携えて、ドキドキしながらお店の中へと入っていった記憶が思い出される。その時に『風紋50年』にサインももらった。
 そして2回目に訪れたのは、2016年3月16日。聖子さんの誕生日(米寿)だ。この日も大勢集まり、ケーキや花などで祝福した。照れ臭そうにする聖子さんの姿が印象的だった。この時は、『風紋30年』を持参し、こちらもサインをもらった。
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 そして終幕の会(写真は風紋終幕の会にあたっての記念配布で、聖子さんが2014年に世田谷文学館で講演した時の記録が記載されている)。風紋はずっとあり続けると、なぜか思っていた。自分でも分からないがそう思っていたのだ。そのため風紋閉店は非常に衝撃であった。これならもっと定期的に通っていれば良かったと後悔した。
 長年の常連さんや懇意にしている人たちと聖子さんは笑顔で話していたが、やはりどこか少し寂しいような感じであった。閉店を惜しむ声も聞こえてきた。

 風紋に来るのもこれで最後になるので、私はまだサインを貰っていない残り1冊の『風紋25年』を持ってきていた。この日も聖子さんは快くサインして写真も撮らせて頂いた。誰にでも気さくで優しいからこそ、みんなに愛され、57年間続けてこれたのだと思います。
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 写真は風紋を記念して出版された本で、右から『風紋25年』『風紋30年』『風紋50年』です。

 林聖子さんは最後のあいさつで、『57年。みなさんのおかげで何とかやってこれました。ありがとうございました。もっと沢山話そうとすると、泣いちゃいそうなので……。ありがとうございました。』と感謝の言葉を述べていた。
 お店を出るとき、聖子さんに「お身体に気をつけてお元気でいてください」と言うと、聖子さんも「あなたもお元気で気をつけて働いてね」と言い、手を握ったときの聖子さんの暖かい温もりのある手を忘れない。
 聖子さん、風紋57年間お疲れ様でした。いつまでもお元気でいてください。


by dazaiosamuh | 2018-07-03 12:45 | 太宰治 | Comments(0)