遠い空の向こうへ

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太宰についてほそぼそと記事を書いてます

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 先日、仕事帰りに地元のブックオフに立ち寄り、文学のコーナーへ行くと、『太宰治 100の言葉』という本を見つけた。タイトルの通り太宰治の名言を集めた本で、ちょうど最近は仕事で疲れていたりなどして、家と会社の往復だけのような状態であったため、改めて太宰から人生に役立つ、勇気を貰える、共感できる言葉を貰おうと思い購入しました。
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自分の苦悩に狂いすぎて、他の人もまた精一ぱいで生きているのだという当然の事実に気付なかった。』(東京八景)
 仕事や人間関係、病気など色々なことで頭がいっぱいになると、私も自分のことばかりで他人も精一杯生きているんだということになかなか気付けない。辛いのはみんな一緒なのだ。

生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。』(斜陽)

 この言葉は、私が太宰の本を2冊目に読んだ『斜陽』で書かれた言葉で、20代前半に、「人生とは何なんだろう、生きるとは何なのだろう」ともやもやしていた頃に共感した記憶がある。苦しくても、生きて生きて生き抜くというのは、本当に大事業だといまでも思っています。

愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。』(随筆「思案の敗北」)
人間の生活の苦しみは、愛の表現の困難に尽きるといってよいと思う。この表現のつたなさが、人間の不幸の源泉なのではあるまいか。』(惜別)
愛は、最高の奉仕だ。みじんも、自分の満足を思っては、いけない。』(火の鳥)

 太宰は『愛』について語る人であった。愛の苦悩者と言ってよいと思う。数年前に、青森で太宰の親戚にあたる津島廉造さんから太宰治がどういう人間であったか、話を聞かせてもらったが、『彼(太宰治)は、愛に苦悩した人だったと思います。』と語っていたのが印象的であった。
 愛に満ち溢れた人生であれば素晴らしいが、その愛によってすべてに絶望することもある。愛は、たしかに存在する。表現することが難しい。その通りだと思う。

 紹介したこの本から何個か載せましたが、この本だけでなく、自分で太宰の本を読んでいて気に入った言葉がたくさんあり、載せたい名言が山ほどあるが、長くなってしまうので、最後にもう一つだけ、『ヴィヨンの妻』から。
人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合わせな人間です。


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by dazaiosamuh | 2018-05-20 11:01 | Comments(0)

 金木町を歩いていると太宰治に関したプレートなどが至る所に設置されているのが目に付く。その中で、かつて金木町に競馬場があったことを示すプレートを発見した。

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金木の競馬場

 大正五年、金木町芦野の地に西洋式の芦野競馬場が開設されました。旧暦六月一日、二日になると、金木名物の競馬が芦野競馬場で開かれました。当日は県知事も来町し、開会式はラッパ吹奏で始まり、花火もドンドンと打ち上げられました。見物の子ども達は花火の音に大はしゃぎし、いよいよ競馬が近くなると、町内の商店では万国旗がはりめぐらされました。一般見物人が集まる高台からは、四キロもあったと思われる円形の走路が全部見えるようになっていました。


 県知事も来町し盛大な花火に子供たちははしゃぎ出す。如何に金木町で大きな行事であったかが文章から伺える。そして※印で小さく、『競馬場創設者は金木の津島源右衛門、中里の古川正孝、西郡の鳴海周次郎などがいました。金木オートキャンプ場の一角には、特別功労者の石碑が建っています。芦野競馬場の門は現在でも金木町内に残されています。(金木今昔物語)参考』とありましたので、探してみることにしました。

 近隣の人などに場所を尋ね、見つけました。太宰治の生家・斜陽館とは反対側の線路を越えたほうにありました。

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 プレートに書いてあったとおり、門だけが残されていました。なぜ未だに門だけが残されているのかは不明です。太宰の父・源右衛門も競馬場創設に力を貸したということで、源右衛門本人も年に1回の競馬を大いに楽しんだことだろう。

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 門を通り抜けると、ただの住宅と空地が拡がっているだけだ。門が無ければかつてここに4キロに及ぶ円形走路の競馬場があったことなど全く分からない。今は辛うじて残っているが、空き地に住宅などが建てられたりなどしたら、この門も姿を消すかもしれない。

 競馬場が創設された大正5年(1916年)は太宰が8歳の時。太宰も家族、もしくは同級生たちと馬が疾駆する姿と大きな花火の音に大はしゃぎしたはず。

 この芦野競馬場は地方競馬規則公布後の1928年から青森県産馬畜産組合連合会による地方競馬開催が始まったが、1937年を最後に休催し、1939年の軍馬資源保護法が公布されたのに伴い廃止された。芦野競馬場が廃止された1939年は太宰が31歳の時で、1930年(昭和5年)には東京へ出て来ているから、その間、何回ぐらい芦野競馬を見た事があったのだろうか。

 ちなみに芦野競馬場が創設された大正5年8月に、父・源右衛門は勲四等瑞宝章を受け、村を挙げての叙勲祝いがなされた。翌年2月頃に太宰の子守であったタケが叔母キエの家の女中となり太宰の生家を去っている。地位、名誉共に村からもてはやされる父・源右衛門とは対照的に、大好きであったタケを失った太宰は寂しい思いであったであろう。



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by dazaiosamuh | 2017-07-05 11:17 | Comments(0)
 久しぶりに荻窪を訪れた。碧雲荘が取り壊されて以来、足を運ばなくなっていた。それは、言うまでもないが、私にとって太宰治が住んだことのある碧雲荘があったからこそ荻窪に足繁く通ったのであって、碧雲荘がない荻窪は私には訪れる動機が殆んどないようなものであった。しかし、その荻窪に碧雲荘があった頃まで私は幾度となく訪れたが、訪れる度に立寄る喫茶店(軽食屋?)があった。今日は碧雲荘跡がどうなっているのかその様子をちょっと見ておきたかったのと、その馴染みの喫茶店のマスターに久しぶりに会って、まあちょっとした世間話というのか、雑談をしたかったこともあり荻窪を訪れたのでした。
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 写真中央に碧雲荘があったのですが、現在は工事中となり囲われています。碧雲荘があったころ、毎回わくわくしながら訪れたことが懐かしく感じられます。私にとって太宰治が実際に住んだ建物が、取り壊しの危機に晒され、そして実際に取り壊され、跡地へと移り変わる様子を目の当たりにするのは、碧雲荘が初めてでもあり、初めて見た感動、取り壊しの危機を知った時の動揺、不安、そして無くなってしまった際の空虚、寂しさは何とも言えず、無念としか言いようがない。いつかここに碑が建てられるのでしょうか。
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 写真のゴミ収集車のすぐ真横(左側)の道に入ると碧雲荘跡があり、写真の右側に、荻窪を訪れる度によった喫茶店があります。しかし、来て見ると店のシャッターがおりており、嫌な予感がしつつ近づいてシャッターに貼られた紙を見ると、そこには閉店の知らせが書かれていました。
 どうやら先月9月20日をもって閉店したようです。ちょうど店の前に近づいた時、近所に住む住人がいて、「ここは閉店したよ。もしかして親戚かなんかか?」と話かけて来たので、「いえ、ここの常連でした。どうして閉店したのでしょうか?」と尋ねると、「この前たまたま見かけけど、すっかりやせ細っていたね。体調が悪かったんじゃないか」と言っていました。この店には碧雲荘が取り壊されて以来、ずっと来ていなかった。もう少し早く来ておけばよかった。碧雲荘だけでなく、馴染みの店も失ってしまった。寂しい限りだ。今後ますます荻窪は訪れる機会は減っていきそうです。


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by dazaiosamuh | 2016-10-06 19:13 | Comments(2)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)