太宰治と石神井公園 男女交歓『青春五月党』結成!!

 太宰治にとって昭和11年から12年にかけては、パビナール中毒とそれにともなう入院、妻・小山初代の不倫、初代との群馬県水上での心中未遂と離別など、心身共に疲弊の時期であった。だが次第に落ち着いてきて、5月に入ると、友人の檀一雄、伊馬鵜平とともに大いに男女交歓を楽しもうということになり、3人が発起し『青春五月党』というグループを作った。以下、赤文字は檀一雄著『小説 太宰治』より

船橋の頃の不健康は、失せてしまって、太宰は例のユーモラスでチャーミングな快活を取り戻していた。もっとも、心の楽屋裏の方は、私は知らない。太宰と私と伊馬と発起して、「青春五月党」というのを結成した。
 例のヤケクソからである。私の妹の友人を呼び集めた。女子美術の生徒達である。それから高橋幸雄、堀内剛二、猪口富士男等を呼んできた。
 女達にめいめい弁当を作らせ、桜が丁度終わった頃、大はしゃぎで、石神井の池畔に出掛けていった。

 昭和12年5月、『青春五月党』のメンバーで石神井の池畔に遊びに出掛けたのであった。メンバーは、太宰治、檀一雄、伊馬鵜平、高橋幸雄、猪口富士男、塩月赳、檀一雄の妹・寿美と女友達の12人である。

素晴らしい五月の太陽だった。もうブヨがうるさくつきまとってきた。荻窪から石神井まで徒歩で抜け、三宝寺池畔の茶店の籐影に、縁台を据えた。

 どうやらその日は太陽が顔を出した良い天気だったみたいですね。私がここを訪れたのは、10月も終わりに近づいている時で、それでも歩いていると少し汗ばむ陽気だったように覚えています。石神井公園駅の観光案内所で販売している『文学散歩マップ』にも、太宰治等が結成した『青春五月党』が石神井公園の三宝寺池を訪れたことが記載されている。
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 写真は石神井公園の石神井池(ボート池とも言われている)です。ボートがありますが、乗っている人は一人もいませんでした。長閑で気持ちも落ち着きまね。ベンチに座って池を眺めながら缶コーヒーを飲んでいる人、新聞を読んでいる人、ラジオを聞いている人、釣りを楽しむ人など様々に休日を過ごしている様子が分かります。
 この石神井池は、石神井風致協会が、1934年(昭和9年)に三宝寺池より流出する川を堰き止めて作った人工池。多くの種類の水鳥が飛来し間近に観察することができるため、それを目当に訪れる人々も多い。『青春五月党』が訪れたのは昭和12年なので、すでにこの人工池はあり、太宰治を含めたメンバーもこの池を眺めているはず。
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 石神井池に沿って歩いていると、今にも池に飛び込みそうな勢いを見せる木が1本あった。水面ぎりぎりで止まっている。なぜこんな成長の仕方をしたのだろうか。
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 道路を挟んで反対側に三宝寺池がある。写真は貴重な植物が管理されている『三宝寺池沼沢植物群落』で、1934年(昭和9年)に国の天然記念物として指定されている。当時50種類ほどの水生植物があったとされるが、近辺の都市化による水温の変化、水質の悪化など環境の変化により減少している。観光案内所で購入した『石神井公園ガイドマップ』によると、『約2万年前の最終氷期に繁茂した遺存種・ミツガシワや、カキツバタ・コウホネ・ハンゲショウなどの「貴重水生植物」は、その他の「保護上重要な植物」と共に中の島(浮島)等の自生地で現在も生育管理されている』とある。
 約2万年前の最終氷期の遺存種が現在でも生えているとはすごいですね。それもあってか、色々な昆虫や野鳥が遊びに来るようで、それを目当にカメラや双眼鏡を片手に人々もまた集まってくるようです。

 鳥の鳴き声を聞きながら、池や木々など自然を眺め歩いていると、都会での仕事や生活で疲れた身体も癒されます。途中、ベンチで真剣に将棋の駒を指す数名の年配者の姿が見受けられた。自然豊かな石神井公園で仲の良い友人と将棋を指すのが、何よりの休日の楽しみなのだろう。
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 三宝寺池一帯は、1915年(大正4年)に武蔵野鉄道が開通してから、都心から近い行楽地として多くの人が訪れるようになった。吉祥寺の井の頭池、杉並の善福寺池と共に武蔵野三大湧水地として知られている。家族連れやカップルのデートスポットでもあった。男女交歓にはうってつけだ。『青春五月党』も例にもれずここを選んだのだろう。
美人がいた。武田明子という名前だったことまで覚えている。しかし、少女達はみんな、甲斐甲斐しい背広姿の高橋幸雄に誘われて、ボートの方に降りていった。太宰と私と伊馬鵜平だけが、縁台の上に、置きざりになるのである。

 つまり、大いに男女交歓しようと発起し結成した太宰治、檀一雄、伊馬鵜平の男3人がよりによって、女性たちに相手にされなかったのである。なんとも寂しい限りである。女性5人もいながら…。

「もう駄目だね、我々は」と、伊馬。
「こりゃ、ひでえ。全く駄目だ。もう、こうなったら、立派になる以外はない。髭をはやすさ。やけくそだ。カイゼル髭だ。伊馬君も檀君も、思い思い、立てたがいいよ。こりゃ、ひでえ。ワッ」
 と、太宰は例の叫び声をあげながら、酒をあおった。
「もうこうなったら、坐禅だ。達磨だ。面壁九年だ」
 太宰は縁台の上に、結跏を組んで、又酒をあおるのである。
「そうだ、檀君。男は、女じゃねえや。ワァひでえ。意味をなさん。ナンセンスだ。自分ながら、驚いたね」

 太宰治の悔しさ、惨めさが良い意味で伝わってきますね。ヤケクソ感がいいです。『意味をなさん。ナンセンスだ。』そりゃそうだ。男女交歓が目的で、女性たちにわざわざ弁当も作らせ、大はしゃぎで池に遊びに来たのに、発起人の3人が相手にされないのだから。
 しかし、それでも太宰は大はしゃぎであったようだ。
この日の大はしゃぎの太宰を思い出す。私と太宰は、池畔で何枚も写真を撮って貰って、やがて池をグルリと廻り、いつ迄もボートを漕いでいる、高橋や少女達を呼びかえした。
 やがて、少女達と別れて、荻窪の裏の畑地を、三人で歩いた、モヤモヤと媚めいた夕暮れのことを覚えている。

 もしかしたら自分たちの滑稽さが可笑しく、それがまた愉快でならなかったのかもしれない。
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 文学散歩マップによると、『三宝寺池畔の厳島神社はもと弁天社で、三宝寺、氷川神社などとともに、江戸時代の小旅行ガイド『遊歴雑記』や『嘉陵紀行』『江戸名所図絵』にも登場する。弁天社には、江戸市中の弁天講の人々が巳待ちの日に訪れ、舟を出したり芝居を見たりと、にぎやかな信仰対象だったことが名書物には記されている。』とある。由緒ある神社なのですね。写真中央付近にあるのが厳島神社。

太宰はもう饒舌らなかった。私と伊馬の後ろから、とぼとぼついて来ていたが、折々、丁度、かすかに光り始めた星などを、いぶかしそうに仰ぎ見たりしていた。が、私達が振り返って、しばらく待つと、あわてて微笑を浮かべながらやってきて、
「ナポリを見てから、死ね」
 畔の溝を一つ跳びこし、ワハハハと、夕暮に金歯を閃めかせながら、意味もなくそう笑った。これらの日の太宰の面影は、今、たくまぬ明暗の美しさで私の眼の中に浮かんでくる。遠い稲妻に折々反照される、不可思議な孤独の立像としてだ。

 太宰治との深い友情も含め、檀一雄にとって、思い出深い日となった。この思い出をきっかけに、檀は石神井に移り住むようになる。檀一雄は1942年(昭和17年)より、戦中の不在期間を除いて、生涯を石神井で過ごした。
『青春五月党』の石神井・三宝寺池での集合写真は、書籍等に掲載されており、確認することができる。

 石神井公園は、自然にできた天然の三宝寺池と人工のボートで遊べる石神井池(ボート池)を中心に構成されている。都内とは思えないような豊かな自然を味わうことができる。石神井公園には他にも、記念庭園や石神井城址、氷川神社、石神井松の風文化公園、旧内田家住宅など見所が多くある。石神井は多くの文士が住んだ場所としても有名で、檀一雄は中心的存在であったという。文士だけでなく、俳人、歌人、詩人やまた学者や芸術家も多く住んだ土地で、名前を挙げるのが大変なほどで、それだけでも魅力ある土地であることは言うまでもない。
 季節の花や生物、四季の景観を楽しむことができる。今度訪れる時は、花見で賑わう春に訪れてみたい。


by dazaiosamuh | 2018-12-08 12:20 | 太宰治 | Comments(0)