太宰治が絶対の確信を持てる『味の素』!!

 1933年(昭和8年)7月、檀一雄は友人古谷綱武から勧められて太宰治の作品『思い出』『魚服記』を読み、『作為された肉感が明滅するふうのやるせない抒情人生だ。文体に肉感がのめりこんでしまっている』と心惹かれた。檀は古谷に『太宰治に会いたい』と言い、数日後、古谷の家で会う事ができ、その時は簡単な挨拶で終わりまた三人で会う約束をし太宰はすぐに帰宅する。しかし、檀は家に帰ってから落ち着かなかった。再度『魚服記』『思い出』を読み、『耐えている文脈が、甘美で、不吉だ』と、居てもたってもいられずにその日のうちに太宰を追いかける決心をした。
 前もって渡されていた手書きの地図を頼りに、太宰治の住む飛島家の自宅を探し当てた。
 太宰治は飛島家と共に杉並区天沼1丁目136番地の家で暮らしていた。太宰治と小山初代は同年2月に杉並区天沼3丁目741番地に飛島家が母屋に、太宰夫妻は離れに住んでいたが、荻窪駅から徒歩20分以上かかることから、飛島家の飛島定城の通勤や太宰が通学に不便なために駅に近い場所に移った。太宰夫妻が二階二間に、飛島家家族が階下三間に住んだ。
 檀が太宰の居る二階へ上がると、太宰は緑色の火鉢に手をかざしていた。檀に目をやると、意外だという表情をした。太宰夫人が一升瓶を提げてきて、徳利に移した。

鮭缶が丼の中にあけられた。太宰はその上に無闇と味の素を振りかけている。
「僕がね、絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ」
 クスリと笑い声が波立った。笑うと眉毛の尻がはげしく下がる。
「飲まない?」
私は盃を受けた。夫人が、料理にでも立つふうで、階段を降りていった。
「君は…」
 と、私はそれでも、一度口ごもって、然し思い切って、口にした。
「天才ですよ。沢山書いて欲しいな」
 太宰は暫時身もだえるふうだった。しばらくシンと黙っている。やがて全身を投擲でもするふうに、「書く」
 私も照れくさくて、ヤケクソのように飲んだ。
 人はキザだと云うだろうか。然し私は今でもその日の出来事をなつかしく回顧出来るのである。』(小説太宰治 『檀一雄著』)

 檀一雄が太宰治と出会ったばかりの頃の印象的な場面だ。ここから太宰治と檀一雄は親密になり交流は盛んになっていく。
 それにしても、太宰が『絶対、確信を持てるのは味の素だけ』と発言したのは、どのような意味だろうか。食料品に対することなのか、人間関係や世間、社会を含めてのことか、それとも全てをひっくるめての意味なのか。この時太宰は24歳。3年前の昭和5年に共産党支持者の組織への参加や小山初代の上京事件、それに伴う分家除籍、さらに田辺あつみこと田部シメ子との鎌倉心中など、人間関係に慌ただしかった。
 時代が流れても変わらぬ美味しさをもつ『味の素』に妙な安堵感を持ったということか。
 そこで『味の素』がいつ頃から販売されるようになったのか気になり調べたところ、『味の素』がうまみ調味料として生活者向けに一般販売されるようになったのは1909年(明治42年)5月で、『薬品用のガラス瓶』に入れて薬種問屋を通じて薬の小売店に販売を委託したのが始まりとのこと。創業時の『味の素』は純度85%位で、色は褐色がかった粉末状であった。
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 写真は味の素株式会社のほんだし。私は味噌汁(インスタント)などに入れています。(料理を普段しないので味噌汁ぐらいしか使う場面がない)
 それにしても『味の素』がこんなに歴史が古いとは知りませんでした。しかも1909年と言えば太宰治(本名・津島修治)が生れた年(太宰は6月生まれ)と同じではないか。
 1927年(昭和2年)には、宮内省の買い上げ品の指定を受け毎年3回製品を上納するようになり、特別に精製し上納した。その後すべての製品を上納品と同じ品質に向上させるために取り組み、1933年(昭和8年)には、『味の素』の全製品が100%結晶として生産できるようになった。
 ちょうど1933年(昭和8年)は檀一雄が太宰治のいる家に行き、『絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ』の発言を聞いた年です。つまり太宰が鮭缶を丼にあけ、その上からかけた『味の素』は純度100%の『絶対、確信を持てる』完璧なものだったのです。『味の素』が世間に普及し始めたころ、類似品(それも品質的にも問題の多いもの)が多く出回っていたとのことで、もしかしたら太宰の、
『僕がね、絶対、確信できるのは味の素だけなんだ』の発言は、
『僕がね、絶対、確信できるのは、他社商品ではない!!これなんだ!!味の素だけなんだ』という意味だったのかもしれませんね。



by dazaiosamuh | 2018-11-02 12:43 | 太宰治 | Comments(0)