遠い空の向こうへ

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太宰治と甲府 №16 甲府空襲により朝日小学校へ避難

 昭和20年(1945)7月6日。甲府市街はアメリカ空軍機B29型重爆撃機による空襲を受けた。
蒸し暑い夜で寝苦しく、漸く眠りについた午後十一時過ぎ、警戒警報、続いて空襲警報、灯火管制のくらやみがにわかに、真夏のま昼どきのように明るくなった…』(回想の太宰治)
 午後11時40分過ぎ、市街北方の塚原地区と東北の愛宕山付近に照明弾が落とされ、次いで131機のB29から焼夷弾が投下された。B29が甲府市街の上空から姿を消したのは、日付が変わって午前1時半過ぎであった。この焼夷弾により、石原家は全焼、昭和13年に住んだ寿館、昭和14年に新居とした御崎町の住居も焼失した。
 この時、太宰一家は朝日国民学校(現在の朝日小学校)へ避難した。

私たちは、まちはずれの焼け残った国民学校に子供を背負って行き、その二階の教室に休ませてもらった。子供たちも、そろそろ眼をさます。眼をさますとは言っても、上の女の子の眼は、ふさがったままだ。手さぐりで教壇に這い上がったりなんかしている。自分の身の上の変化には、いっさい留意していない様子だ。私は妻と子を教室に置いて、私たちの家がどうなっているかを見とどけに出かけた…(中略)…家の黒い板塀が見えた。や、残っている。しかし、板塀だけであった。中の屋敷は全滅している。焼跡に義妹が、顔を真黒にして立っている。』(薄明)
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 現在の甲府市立朝日小学校。当時、小学校の周辺は草原だったようで、『私たちは東の町はずれに向かって逃げた。のどがいりつくように乾いて苦しかった。小学校の校庭に続く草原まで逃げて一息ついた。』(回想の太宰治)
 またこの甲府空襲の時、妻・美知子は妹にばかり大変な思いをさせた胸の内を語っている。
夜が明けて太宰が水門町の焼跡に行って妹と会い、妹が小学校の教室で休んでいる私たちのところへやってきた。全然消火活動もしなかったくせに、万一の僥倖をたのんでいたのだが、全焼であった。妹はあのとき、茶の間の前の小池に、ミシンを頭からつっこんだりなどしてから、ひとり蒲団をかぶって千代田村の親戚に向かったという。千代田村には荷物が預けてあったから行ったのだろうが、七キロの夜道を若い女一人でよくも辿ったものである。親戚でおむすびをもらってそれを私たちに届けてくれたのだった。この当時のことを回想すると私は良心がとがめる。とにかく妹ひとり置き去りにして私たち一家四人逸早く逃げ出したのであるから。私たちは婚約者が出征中で手のあいていることをよい倖にして、随分この妹の世話になり、生葡萄酒入りの一升瓶を何回も運ばせ、妹が栽培している椎茸を食べ、利用できるだけ利用してきた。その揚句である。一夜乞食となった私たちは、宿無しというものがどんなに肩身の狭いものか実感した。』(回想の太宰治)

 妻・美知子の妹・愛子は、七キロの夜道を蒲団をかぶって一人で親戚の久保寺家へ助けを求めに行ったのであるが、久保寺家の長女・福子は、母・りゆうに愛子が、『おばあちゃん、全部焼けちゃって何もないさ』と泣きながら話しているのを見たという。
 しかし、太宰の『薄明』を読むと、上記の『薄明』の続きで…
兄さん、子供たちは?」
 「無事だ。」
 「どこにいるの?」
 「学校だ。」
 「おにぎりあるわよ。ただもう夢中で歩いて、食料をもらって来たわ。」
 「ありがとう。」
 「元気を出しましょうよ。あのね、ほら、土の中に埋めて置いたのものね、あれは、たいてい大丈夫らしいわ。あれだけ残ったら、もう当分は、不自由しないですむわよ。」
 「もっと、埋めて置けばよかったね。」
 「いいわよ。あれだけあったら、これからどこへお世話になるにしたって大威張りだわ。上成績よ。私はこれから食料を持って学校へ行って来ますから、兄さんはここで休んでいらっしゃい。はい、これはおむすび。たくさん召し上がれ。」
 女の二十七、八は、男の四十いやそれ以上に老成している一面を持っている。なかなか、たのもしく落ちついていた。三十七になっても、さっぱりだめな義兄は、それから板塀の一部を剥いで、裏の畑の上に敷き、その上にどっかとあぐらを掻いて坐り、義妹の置いて行ったおにぎりを頬張った。まったく無能無策である。』と、義妹・愛子は非常に前向きで頼もしい姿を見せている。
 親戚宅へ行ったときは、もしかしたら焼夷弾ですべて無くなってしまったと思っていたために泣いてしまったのかもしれない。それが翌日焼跡を見に来たら、案外に埋めておいたものが大丈夫だったために希望が持てたのか。それとも姉・美知子の一家の前では、心配させないために泣きたいのを堪えて、元気な姿を見せるように努めていたのかもしれない。

 妻・美知子にしても、妹・愛子にしても石原家の人々は実にしっかりした人たちであることが、この甲府での太宰について調べたり、ゆかりの地を歩いて改めてよく分かる。そして、だからこそ太宰も戦時中でも執筆活動を続けることができたのだと思う。


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by dazaiosamuh | 2018-05-07 13:55 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)