遠い空の向こうへ

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太宰治と甲府 №10 充実した生活を送った御崎町の新居跡

 昭和14年の1月6日、太宰と美知子は寿館から甲府市御崎町56番地(現・甲府市朝日5‐8‐11付近)の新居へと移った。この新居にいたころのことを、太宰と美知子はそれぞれ書いている。
 太宰は『畜犬談』で『ことしの正月、山梨県、甲府のまちはずれに八畳、三畳、一畳という草庵を借り、こっそり隠れるように住み込み、下手な小説をあくせく書きすすめていたのであるが、この甲府のまち、どこへ行っても犬がいる。おびただしいのである。』と甲府に蔓延る犬について書いている。太宰が大の犬嫌いなことは有名で、『畜犬談』の冒頭で、『私は、犬に就いては自身がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。私はきっと噛まれるにちがいない。自身があるのである。』といきなり笑わせてくれる。
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 写真は太宰と美知子が昭和14年1月から約8カ月間暮らしたことを示す『太宰治僑居跡』の石碑とその付近です。
 太宰は『畜犬談』で、『草庵を借り、こっそり隠れるように住み込み…』としているが、てっきり太宰が例によって大袈裟に書いているものだと思っていたが、妻・美知子の『回想の太宰治』を読むと、『大家は鳶職の秋山さんという、彫り物をちらつかせたいせな人で、借りるについてうるさいことは何も言わなかった。色白のおかみさんは表通りに面した店先に糸針駄菓子などを並べて小商いをやっていた。店の左手、木遣りの柱が渡してある大家の軒の下の路地を入ると庚申バラなどの植込を前に、平家が二軒東向きに建っていて、奥の方がこんど借りた家である。大家さんが鳶だから、持ち地所に半ば自分で建て、外まわりもまめに手がけた家作という感じであった。隣は相川さんといって主人は通いの番頭さんのような風体の人、おかみさんも働きに出ていて全く交渉が無かった。』とあり、新居は道路沿いではなく、道路沿いにある大家の家から南に二軒目が太宰と美知子の新居であったから、奥まった場所にあったようだ。

 山梨県立図書館に『御崎町の太宰治碑』と書かれた冊子を発見した。石碑を建てた太宰治記念碑建立実行委員会が作成した冊子で、その中に見取り図が記載されていた。
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 写真は昭和14年頃の太宰が新居を構えた御崎町界隈の見取り図で、よくみると、妻・美知子が書いている通り、道路沿いの『穐山』(あきやま)から『相川』を挟んで『津島』の姓が確認できる。
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 やはり、新居は太宰治僑居跡の石碑がある道路沿いではなく、実際の新居は写真正面の白い建物の奥の方にあった。
 さらに妻・美知子は間取りについても詳細に記載している。
この家の間取りは八畳、三畳の二間、お勝手、物置。八畳間は西側が床の間と押入、隅に小さい炉が切ってあった。東側は二間ぜんぶガラス窓、その外に葡萄棚、ゆすら梅の木、玄関の前から枝折戸を押して入ると、ぬれ縁が窓の下と南側にL字型についている。この座敷の南東の空には御坂山脈の上に小さく富士山が見えた。南側のぬれ縁近く、南天を植えた小庭を前に太宰は机を据えた。
 隣の三畳間は、障子で二畳の茶の間と一畳の取次とに仕切ってあった。縁も玄関の格子戸もお勝手の板の間も古びてはいるが、洗いさらしたようにきれいで、この小家は一言でいえば隠居所か庵のようなおもむきだった。』とあるので、太宰が『こっそり隠れるように住み込み…』と書いたのも別段大袈裟でもなかったようだ。そして太宰は、6円50銭という安い家賃を何より喜んだという。
 妻・美知子は『引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利よかった』と書いている。太宰のため、必要不可欠なその3つのために遠くまで買い出しに走り回る必要がなくて良かったですね。
 しかし、そのかわり、『この家は、家賃が廉い筈で、ガスも水道もなく、一日に何回も井戸端まで往復して水を運んで、ドタバタしなければ手も洗えなかった』とあるので、結局大変な思いをしなければならなかったようです。
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 太宰治僑居跡の石碑は平成元年6月11日に建立。碑文に『太宰治は昭和十四年一月から八カ月間ここ御崎町五十六番地で新婚時代を過ごした 短期間であったが充実した想い出の多い地であった』と書かれてあるとおり、この新居で太宰は、『黄金風景』『続富嶽百景』『女性徒』『葉桜と魔笛』『八十八夜』『春の盗賊』など精力的に執筆活動をし、また夫婦で上諏訪や蓼科へ遊びに出かけたりなど、充実した生活を送った。

『畜犬談』では、太宰の犬嫌いなようすがよく分かるが、妻・美知子も太宰の犬嫌いについて『犬のことでは驚いた』と書いている。少し長いが引用させてもらう。
一緒に歩いていた太宰が突如、路傍の汚れた残雪の山、といってもせいぜい五十センチくらいの山にかけ上がった。前方で犬の喧嘩が始まりそうな形勢なのを逸早く察して、難を避けたつもりだったのである。それほど犬嫌いの彼がある日、後についてきた仔犬に「卵をやれ」という。愛情からではない。恐ろしくて、手なずけるための軟弱外交なのである。人が他の人や動物に好意を示すのに、このような場合もあるのかと、私はけげんに思った。恐ろしいから与えるので、欲しがっているのがわかっているのに、与えないと仕返しが恐ろしい。これは他への愛情ではない。エゴイズムである。彼のその後の人間関係をみると、やはり「仔犬に卵」式のように思われる。がさて「愛」とはと、つきつめて考えると、太宰が極端なだけで、本質的にはみなそんなもののように思われてくる。
 なんて鋭い洞察力、観察力なのだろうか。太宰の性格、いや、太宰治という人間の本質を完璧に見抜いているように思われる。妻・美知子は、太宰と結婚するまで山梨県都留高女で地理・歴史の教師として教壇に立ち、同時に女子寮の舎監をも務めていたという。職業病というのか、まるで生徒をしっかり観察、分析するかのように、夫である太宰のことも冷静に客観的に観察していたのだろう。

 太宰は自分が死んだあと、まさか妻が自分について書いた本を出すとは思っていなかったであろう、空の上で、ハンカチで冷や汗を拭いているはず。


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by dazaiosamuh | 2018-03-20 17:08 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)