太宰治と甲府 №7 竪町の寿館跡

 昭和13年11月6日、太宰は水門町の石原家にて婚約披露の宴を催した後、同月16日、御坂峠を降りて、石原くらが見付けてくれた、甲府市西竪町93番地(現・甲府市朝日5ー3-7付近)の素人下宿寿館へと移った。
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 写真は清運寺へとつづく参道で、写真右側の住宅付近に太宰が住んだ寿館がありました。寿館跡から石原家跡までは、徒歩で数分の距離です。ちょうど自宅から女性が出て来たので、一応、尋ねてみると、「ここに寿館がありましたよ」と教えてくれました。返事の様子から、どうやら太宰研究者やメディアの取材などを何度も受けてきた様子が伺えるような慣れた返事でした。

 寿館について、妻・美知子が『回想の太宰治』で書いている。
寿館は下宿屋らしい構えで、広い板敷の玄関の正面に大きい掛時計、その下が帳場、左手の階段を上り左奥の南向きの六畳が、太宰の借りた部屋である。私の母が探して交渉してくれたのだが、勤めももたず、荷物というほどの物も持たぬ、いわば風来坊の彼のために保証人の役もしたのだと思う。御坂にくる迄の彼の荻窪の下宿が西陽のさしこむ四畳半と聞いて、それはひどいと同情した母の声音を記憶している。日当たりのよい窓辺に机を据え、ざぶとん、寝具一式を運び、一家総がかりで彼のために丹前や羽織を仕立てたり、襟巻を編んだりした。

 妻・美知子の母が太宰のために世話した心尽くしはちゃんと太宰の身にも沁みたことでしょう。そして太宰は、『ほとんど毎日、寿館から夕方、私の実家に来て手料理を肴にお銚子を三本ほどあけて、ごきげんで抱負を語り、郷里の人々のことを語り、座談のおもしろい人なので、私の母は(今までつきあったことのない、このような職業の人の話を聞いて)、世間が広くなったようだ、と言っていた』という。
 石原家からはどうやら気に入られて、美味しい手料理にお酒も飲めて、太宰が生きた時代のなかでも幸せな時間だったのではないでしょうか。さらに、妻・美知子の亡兄が、太宰と同じく昭和5年に東京帝国大学に入学していることが分かり、石原家は、『私の実家のものみな太宰との距離が近くなったように感じた』のであった。
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 写真は清運寺側から撮った参道です。左側付近に寿館があった。太宰はこの参道をなんども通った。
 寿館は当時、山梨高等工業(現・山梨大学)の学生や甲府中学(現・甲府一高)の教師などが下宿をしていたという。瓦葺の2階建てで、入口には『高等御下宿寿館』という看板がかけてあったといいます。
 現在、寿館があった当時の写真や資料は全く残っていない。妻・津島美知子の著書『回想の太宰治』で、『寿館の主のKさんの息子さんは事故か病気のせいかで、足が不自由になりM高校を中退して療養中であることを太宰から聞いた。
「人間失格」の終りに近く、不幸な薬局の女主人が登場する。私はこれを読んだとき、寿館の息子さんのことを連想した』と書いているが、寿館の主のKさんというのは、『まちミューガイドブック』によると、塩山市出身の菊島という方で、その後の消息は、全く分かっていないという。

 戦争で甲府も大きな被害を受けた。当時の写真や資料が残っていないのは非常に残念だが、仕方が無い。



by dazaiosamuh | 2018-02-20 13:16 | 太宰治 | Comments(0)