遠い空の向こうへ

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太宰治と甲府 №6 太宰治の妻・美知子の実家 石原家跡

 太宰治が荻窪から、夏の和服一揃いを出して着飾り、淡茶色の鞄を一つ提げて、思いをあらたにする覚悟で、天下茶屋にいる井伏鱒二のもとへ向かったのが、昭和13年9月中旬。そして井伏が探してくれた結婚話の相手である石原美知子と見合いをするために石原家へ訪問したのが同月18日午後。太宰は二度と破綻しない旨を記した契約書を井伏へ送っている。
 同年11月6日、石原家で、井伏鱒二、斎藤文二郎、せいの立ち合いで、石原美知子の叔母二人を招いて、婚約披露の宴が催された。その後は、石原家が見つけてくた、竪町の寿館に止宿、そして御崎町の新居(借家)へと移った。
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 こちらが石原家跡です。写真の病院付近にあったようで、しかも『石原家は現在は広い駐車場になっており、その一画には小沢クリニックが建っている。当時は駐車場南の道路まで石原家の私道だった』ということなので、なかなか大きな家だったのかもしれない。

 太宰夫婦は東京三鷹へと落ち着くが、昭和20年3月10日夜、東京市中の大空襲があり、小山清の強い勧めにより、3月下旬、妻子を先に甲府の実家へと疎開させた。それに続いて太宰も疎開してくるのだが、4月2日の下連雀の空襲では三鷹の太宰宅をほぼ中心として北と南とそれぞれ100mくらの区域に、爆弾が落とされたという。太宰が『俺をねらって爆撃したに相違ない』と言っていたことに対して、妻・美知子は『太宰のような人が、自分をねらったのだと本気に考えたのも無理はない』と自身の著書(回想の太宰治)に記している。
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 写真は、甲府で手に入れた『まちミューガイドブック』の冊子に記載されていた、石原家の間取図です。なかなか広い屋敷だったことが分かります。

 せっかく妻・美知子の実家へと逃げて来たのであったが、美知子曰く、『甲府では焼夷弾に見舞われる日を待っていたようなもので』あった。昭和20年7月6日、アメリカ空軍機B29型重爆撃機による空襲を甲府も受け、太宰一家と美知子の妹はなんとか無事に逃げるも、石原家は全焼。昭和14年の新婚時代に住んだ、御崎町の住宅も焼失した。この時のことを、太宰は作品『薄明』で詳細に書いており、その中で、子供が二人とも結膜炎に罹ってしまったことを、『早く眼が見えるようになるといい。私は酒を飲んでも酔えなかった。外で飲んで、家へ帰る途中で吐いた事もある。そうして、路傍で、冗談でなく合掌した。』と心から心配する様子が描かれている。事実、このとき子供たちは結膜炎に罹り、長女のほうが、両目が塞がるほどであった。妻・美知子によると、甲府に疎開して、しぜんに緊張がゆるみ、駅前の温泉に通って遊んでいるうちに、その温泉で感染したという。

 太宰の『薄明』で、火の雨から『蒲団をかぶれ!』と妻に指示し、家族を守る姿はなんだか頼もしくみえるのは私だけでしょうか。
直撃弾は、あたらなかった。蒲団をはねのけて上半身を起こしてみると、自分の身のまわりは火の海である。
「おい、起きて消せ、消せ!」と私は妻ばかりでなく、その付近に伏している人たち皆に聞えるようにことさらに大声で叫び、かぶっていた蒲団で、周囲の火焔を片端からおさえて行った。火は面白いほど、よく消える。背中の子供は、目が見えなくても、何かただならぬ気配を感じているのか、泣きもせず黙って父の肩にしがみついている。
「怪我は無かったか。」
だいたい火焔を鎮めてから私は妻の方に歩み寄って尋ねた。

 子どもを負ぶって焼夷弾から逃げるのはなかなか容易なことではなかったと思います。まして、蒲団などの荷物もあるなかで、ここは父としての責任をしっかり果たしていると思うのだがどうだろうか。
 その後は、国民学校(現・朝日小学校)へ避難し、さらに石原家の人々の安否を気づかって見に来た、山梨高等工業専門学校教授である大内勇の家にやっかいとなる。太宰はそんな中でも、机に向かって原稿を書きつづけ、同月28日、妻子を連れて、太宰の故郷である津軽へと向かった。
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 石原家の跡地を撮っていると、道路を挟んで反対側の駐車場のブロック塀に、オニヤンマがいた。普通は近づくとオニヤンマはすぐに逃げるのに、まったく微動だにしなかった。指で触れて見ると、かすかに反応した。寿命がせまっているようだった。オニヤンマを近くの植木鉢へとそっと移してあげて、しばらくの間、石原家の跡地を眺めていました。


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by dazaiosamuh | 2018-02-15 14:08 | 太宰治 | Comments(0)

by 黒森 富治大(くろもり ふじお)