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太宰治と深浦町 №7 兄たちの勢力を思い知る…

 太宰は料亭二葉で一人さみしくお酒を飲み、ふたたび秋田屋旅館へ帰ってきた。そして、翌日、朝食を食べていたら主人がお銚子を持ってきて、あなたは津島さんでしょう、と言った。宿帳には筆名の太宰を書いていたはずなのだが、
そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので」
「でも、あれは、偽名でもなのです」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです」
 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。

 鮑のはらわたの塩辛とは美味しそうですね。私はイカの塩辛くらいしか食べたことがありません。あとになって知ったのですが、鮑のはらわたの塩辛は、円覚寺前にあるお店で買えるそうです。私はたしか円覚寺前にあるお店で蕎麦を食べたのですが、鮑のはらわたの塩辛があるとは気づきませんでした。腹が減っていたため、蕎麦にしか目がいきませんでした。味見してみたかったです。
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 太宰は秋田屋旅館にきたとき、『津軽へやってきて以来、人にごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら…』と意気込んでいたが、『こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしお腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。』と、ただただ津島家の力を思い知るのであった。

 その翌年の昭和20年7月30日には一家で深浦の秋田屋旅館に泊まっている。一夜で焦土と化した甲府から逃れて、金木へ向かう途中に、深浦へ寄ったのだ。その理由については、『太宰の深浦泊りの目的が何にあるのかが察しがつくので仕方なく同意して…』と妻の津島美知子が『回想の太宰治』で書いている。
 到着したときはすでに夜で、懸命に太宰は戸をたたき、やっと二階へ上がらせてもらえたのだが、『前年の「津軽」の旅のとき、主人から特別のもてなしを受け、やまげんの勢力がここまで及んでいることを感じたことを太宰は記しているが、その主人は現れない筈、長患いの床に就いているとのことであった。』とあり、17、18歳の娘さんが給仕してくれたのだが、『手もとが僅かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。甲府で罹災して以後も毎夜焼跡で飲んできていたが、甲府出発以来アルコールが全く切れていた。これではなんのためにまわり道して、深浦に泊ったのかわからない。』とある。そう、太宰は酒が飲みたくて、わざわざ妻子を連れまわして深浦へ来たのだ。『津軽』の深浦の場面で、『子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り…』とあんなに妻子を心配していたのに、アルコールが切れると酒優先になってしまうのは、酒飲みのなんとも悲しい性だと思います。

 太宰が泊まった秋田屋旅館(現・ふかうら文学館)ですが、実は太宰は、秋田屋旅館の経営者が、兄・英治の友人(島川貞一)であることを事前に知っていたのではないか、という説もありますが、分かりません。

 深浦の記事はもう一度だけ書きます。


by dazaiosamuh | 2017-10-26 10:07 | 太宰治 | Comments(0)