太田静子と愛知川 №10 太田家の墓を探すが…

 愛知川での太田静子のゆかりの地は、大雑把だがある程度は回った。そしてこの旅の目的の一つに、太田静子の父・『まんもるさま』こと太田守の墓参りを予定していた。
十数代医師を業としていた太田家の先祖は、大分中津藩の御殿医を務めた時期もあったがその後宇佐で開業した。長崎の医学校をでた祖父・文督の代になって、本家の医者の一家と共に近江へやってきた。それぞれ別の湖東の町で開業したのである。
「日本の一番真ん中で、大水も地震もないところ」というただそれだけの理由で、縁もゆかりもない近江に一家族揃っての移住を決めてしまった。およそ土地というものにこだわりを持つことのない自由な一族のように思われる。…中略…母の父親の太田守は、現在の大阪大学医学部の第一回卒業生だった。「医は仁術なり」という言葉通りの至って温和な性格であった父親のことを、母は「太田まんもるさま」と読んでいた。「守」という名前に、「ん」を付けたのである。』(明るい方へ)

 長篠康一郎著『太宰治文学アルバム 女性編』の中に太田守の墓と共に写る著者の姿が載っている。太田本家の墓はここ愛知川にあるにはずだ。気合を入れて、レンタサイクルで走り回り、太田家跡近辺だけでなく少し離れた墓所などを訪ね、探し回るが、いくら探しても見つからない。まさか、と嫌な予感がしはじめる。これは広島で田部あつみの墓を訪ねたときと同じで、墓はすでに無くなっているのでは? という不安が脳裏をよぎる。
 そこで私は、再び勝光寺を訪ね、住職が何か詳細を知っているかもしれないと思い、在宅であることを祈り、インターホンを鳴らしました。
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 住職の野田暁春さんは在宅で、自己紹介し、太宰治のファンで云々……と、わけを説明し、太田家の墓を知らないか尋ねてみると、私の嫌な予感は、やはり的中してしまいました。
 野田曉春さんの話だと、野田さんが数年前に村の人々と一緒にひさしぶりに太田本家の墓を訪ねると、墓はすでに引き下げられ、その太田本家の墓のあった場所にはすでに全く関係のない別名義の墓が建てられていたそうです。どこか別のお寺に移されたのかと尋ねると、それも今では分からないとのこと。野田さんの話だと、太田守の孫で太田静子の娘・太田治子も、太田本家の墓は分からないようです。数年前に太田治子が愛知川を訪れ、野田さんのもとへ来た時に、墓はすでに無関係の別名義になっていると伝えると、それでもいいから太田本家の墓のあった場所へいって手を合わせたいといい、案内したそうです。
 広島の田部あつみの墓を訪ねた時と全く同じパターンになってしまいました。残念です。しかし、こうして太田静子に小さい頃可愛がってもらった野田曉春さんにお会いすることができて良かった。野田さんは小さい頃、毎日のように太田家へ遊びに行き、可愛がってもらったと懐かしみながら話してくれました。蓄音器でクラシックを聴いたことがとても印象深く思い出に残っていたそうです。この蓄音器でクラシックを聴いたエピソードは、太田静子の娘・治子著『明るい方へ』の中にも載っていた話だったのですが、直接本人から聞くことができて非常に嬉しかったです。さらに野田さん曰く、愛知川沓掛で、太田静子に直接あったことのある人間で、現在現存するのは自分だけだと思う、と仰ってました。非常に貴重な人物で、お会いできて良かった。
 野田さんが、近所で太田家と親しかった方の家があるから、後でそこに行けば何か分かるかもしれないといい、名前と場所を教えもらい、いざ訪ねてみましたが、やはり墓所は分からないようでした。


 残念ながら太田守、太田本家の墓はなくなっていた。しかし、娘・治子が書いた本に母・静子の墓所が書かれていたので、少なくとも太田静子のお墓のあるお寺は分かります。あとでお墓参りに行きたいと思います。
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 今回、太田静子の故郷をざっくりとですが歩いてみました。野田さんを訪ねた際、『沓掛のあゆみ』という本を教えてもらい、野田さんが直接、本の編集元へ連絡し、購入させていただきました。折角購入したので、次回、愛知川を訪れる際は、太田静子の故郷をさらに詳しく調べ、理解し、じっくり散策してみたいです。

 太田静子と愛知川は、これで終わりになります。


by dazaiosamuh | 2017-03-18 21:39 | 太宰治 | Comments(0)