太田静子と愛知川 №3 太田医院跡

私、今、愛知川のことを考えていたの。夜の闇にまぎれて、愛知川の駅におりて、太田医院の跡をひと目、みてくるのもいいなと思ったの

 太田静子は晩年、このように言っていた。時が経てば経つほどその思いは強くなっていったが、24歳で上京してから死ぬまでの45年間、ついに故郷をみることなく病気で亡くなってしまった。母に代わって娘・太田治子が故郷を、そして太田医院がかつてあった跡地を訪ねている。
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 ここがかつて太田医院のあった場所で、現在は別の医院が建っている。太田静子が一目見たかった跡地である。娘・治子はここを訪ねどう感じたのでしょうか。太田家について、娘・太田治子が『母の万年筆』の中で述べている。
太田家は、十数代医師を業として、大分中津藩の御殿医も務めていた。それが、母の祖父の文督の代になって、本家の医者、謙吾一家と共に、縁もゆかりもない近江に引っ越してきたのである。文督は、長崎の医学校で勉強したが、おしゃれが好きな怠け者だったらしい。
 しかしその息子の守、つまり母の父は、いたって真面目、そのために本家の、父のイトコに当たる謙吾からも可愛がられていた。
 大分中学から大阪府立高等医学校(後の阪大医学部)を卒業した守は、同じ村の庄屋の生まれのキサとの間に、長女芳子をもうけた。ほどなく、日露戦争に軍医として応召、除隊後、すでに謙吾が開業していた滋賀県愛知郡愛知川町からほど近い、東押立村大字僧坊というところに開業した。そして謙吾一家が長浜に移ると、そのまま愛知川の医院を引き継いだ。
 大正二年生まれの母は、その愛知川の家で生まれた最初の子だった。
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母の父を、「まんもるさま」とよその人のように呼んでいた母は、二歳年上の兄の馨のことも、「インチョウさん」と呼んでいた。インチョウさんとは、「院長」のことなのだった。まんもるさまが昭和十三年に病死すると、長兄の馨が太田医院の院長となった。ところが、二代目はまもなく東京にでてしまい、愛知川の太田医院は消滅したのである。あのままインチョウさんが愛知川にいてくれたらよかったのだと、母はよく愚痴ともつかぬことをいっていた。』(心映えの記)

 随分変わった呼び方をするなと読んでいてつくづく感じました。さらに太田静子は、母・キサのことを「太田きさ様」とフルネームで呼んでいたという。しかし、娘・治子も『孫の私(治子)が写真でみても、太田きさ様にはそういう威厳といったものが感じられるのだった。』と書いている。
 ためしに私は、自分の母親をフルネームの様付けで呼ぶ姿を想像してみましたが、どうにも滑稽で思わず吹き出してしまった。
 そんな威厳を感じさせる母・太田きさとは対照的に、父・太田守はとても優しかった。その時のエピソードがある。
家中の人が母の顔をおかしいという中で、まんもるさまだけが、
「静子ちゃんは、赤いばらのようだ」
といってくれた。
 まんもるさまは、母にいつも優しかった。小学校に上がる前、お寺の日曜学校で和尚さんから、”ウソをついたら、地獄へいって、エンマさんに舌を抜かれる„ときかされて急にこわくなった母は、家中の一人一人に、”今まで、うちのいったことで、ウソやったことは、こらいてな„と、頭を下げてまわった。だれもが、”静子さんがまた、おかしいことをいうてなはる„といって笑った。しかし、母は”わかりました„という答えが返ってくるまでは、執拗にあやまって歩いた。太田きさ様は、あきれたように母をみつめていた。大きくうなずきながら母の頭を撫でてくれたのは、まんもるさまだけだった。』(心映えの記)

 何とも可愛らしいエピソードですね。太田静子は、母・きさ様が声を上げて笑うのを、一度も聞いたことがなかったという。これらのエピソードなどを見ると、静子の母・きさは、どこかとても冷たい印象を受ける。

 しばらく太田医院の跡地を眺めていると、なぜか小さいころの太田静子の楽しそうな笑い声が聞こえてくるような気がしました。


by dazaiosamuh | 2017-02-16 15:04 | 太宰治 | Comments(0)