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田部あつみが憧れた松旭齋天勝のお墓

 以前、あつみと広島について書いた記事で、あつみが天勝に熱狂的に憧れていたことを書いたが、その天勝とは何者か、少し書いてみようと思います。

 松旭齋天勝(しょうきょくさい てんかつ)は、1886年(明治19年)に、東京都神田松富町で質屋を営んでいた中井栄次郎の長女(5人兄妹)として生れた。本名は、中井かつ子。
 温もりのある家庭で育っていくが、『父の事業の失敗から家運次第に傾き、米屋に転業したのはかつ子が八歳の頃で、そのころから世の中のつらい波は彼女の身辺を浸しはじめていた。』(太宰治 七里ヶ浜心中)
 学校から帰ると中井かつ子は懸命に仕事を手伝った。その仕事に対しての手先の器用さなどが、そのうち周囲に知れ渡り、また驚かせたという。それは『近くに住んでいた日本奇術界の先駆者、松旭齋天一師』をも感嘆させるほどであった。その頃、かつ子の父は米屋も失敗し小さな酒屋を開業したが、傾いていくばかりであった。松旭齋天一がかつ子の器用さを見込んで弟子にしたいと思っていたときでもあり、やむなく父・中井栄次郎は、天一師匠にかつ子を任せることを承諾したのであった。
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 東京都台東区にある光照山・西徳寺。ここに松旭齋天勝こと中井かつ子が眠っている。西徳寺は寛永5年(1628年)に江戸の金助町(東京都文京区本郷付近)に建立されたと伝えられてる。現在の竜泉(現在の台東区)に移ったのは天保3年(1683年)であるというが、それまでに3度も火災で焼け出されているという。それがあり移転したと思われる。
 後、大正12年(1923年)の関東大震災により本堂が全壊した。その後再建に取りかかり、昭和5年(1930年)に鉄筋コンクリート造の寺院を完成させ現在に至っている。
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 正門のすぐ脇に、第17代目中村勘三郎墓所と刻まれた石碑が建っていた。中村勘三郎の墓がここにあることを私はこの時初めて知りました。
 
松旭齋天一の仕込みかたは、厳格を極めた。生来負けず嫌いのかつ子は、氷を割り水を浴びて厳しさに耐える、芸道への精進を続けた。その頃のかつ子は、「泣かずの勝」と異名を取ったほどの気の強い少女だったが、それでも十一、二歳の感じやすい年ごろ、人なき部屋の隅とか暗い手洗いの中で、泣いて泣いて泣きぬいて、涙をふいて笑顔で人前に出て来る彼女であった。
 その後、数度に渡るアメリカ興行も大成功させ、次第に師匠の天一を凌ぐまでになっていった。帰国後、洋装スタイルに加え欧米風なマジックショーを披露し、拍手喝采となった。その頃師匠の天一は病により舞台から身を引くようになった。
 明治44年(1911年)、27歳のときに独立し天勝一座を名乗るようになり、浅草、大阪、京都と活動範囲を広げ、また『高橋内閣のとき、首相官邸にて英国のコンノート殿下来日歓迎会が催された際にも、摂政の宮殿下、皇族重臣の御前公演をおこなうなど、目まぐるしいほど天勝の活動は輝かしいものであった。
 あまりの人気に、それにあやかったニセモノの天勝一座も複数現れたほどであったそうだ。
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 松旭齋天勝(本名・中井かつ子)のお墓です。華々しく活躍した当時とは対照的に、現在はその疲れを取るかのようにひっそりと静かに眠っています。何の面識もない私は、何と声を掛けたらいいのか、何だか照れ臭くあいさつし、「あつみさんを弟子に出来なくて残念でしたね。一座に入っていたらどんな活躍振りを見せてくれたのでしょうね。」と心の中で話かけました。少し残念そうな顔が浮かんで見えました。

天勝一行が再度米し巡業の途にのぼったのは、関東大震災で私財の大半を失った直後の、大正十三年一月のことである。米国ではサンフランシスコ、タコマ、シャトル、カナダに入ってバンクーバー、ビクトリア、また戻ってソートレイク、デトロイト、セントルイス、ミルウォーキイ、シカゴ、ニューヨーク等の各地で公演。海外の大先輩とも堂々の技術を競い、大正十四年二月にアメリカのジャズバンドを率いて帰朝した。これが今日のジャズの基を開くことになったのである。広島の歌舞伎座に出演した頃は、松旭齋天勝一座のまさに全盛時代であった。

 すごいですね。記事を書きながら、田部あつみはこんなすごい人のもとに弟子入りしようとしていたのかと思うと、あつみの度胸に改めて関心しました。二人に共通する、負けず嫌い、気が強い、洋装スタイルを好む点、舞台が好き、などを考えると、あつみが天勝を憧憬の的とするのも無理はないと思ってしまう。
 天勝は1936年に引退し、二代目天勝の名を姪に譲っている。
 余談になるが、女流イリュージョニストである二代目・引田天功(プリンセス・テンコー)は相関図を遡れば「松旭齋一門」である。

後年、父の島吉は、もしあつみの望みを叶えて天勝師匠に任せていたら、あんなこと(津島修治と鎌倉腰越で心中)にはならなかったろうにと、そのことばかりいつまでも悔やんでいたという。

 あつみの父・島吉のこの苦しみを思うと、読んでいてこちらも胸が苦しくなります。本当に残念でなりませんね。

by dazaiosamuh | 2017-01-20 16:53 | 太宰治 | Comments(0)