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田部あつみと東京 №15 浅草で語らう二人

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歌舞伎座を出てから、こんども地下鉄で浅草へ行くことにした。終点で下車して表に出る。陽はまだ高かった。吾妻橋を渡って隅田川の川べりを上流に向かって歩き、人通りのほとんどない提上に腰を下ろした。あつみが言い出しかねている要件は、修治にも充分すぎるほど判っていた筈だ。先に喋りはじめたのは修治のほうだったが、「勘当されてしまった」との一言があつみを驚かせた。暫くは信じられない思いであった。

 現在の吾妻橋。外国人観光客が非常に多く賑わっています。吾妻橋から写真を撮っていると、後ろから声を掛けられ、振り向くと会社の同僚で驚いた記憶があります。以前、神谷バーの記事を書いたときにそのときのことを少し書きました。
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 あつみと太宰がこの日来たのは、昭和5年11月26日。すでにこの時、太宰は小山初代の件で長兄・文治と対談し、初代との結婚を条件に分家除籍されている。分家に伴う財産分与はなく、大学卒業まで仕送りするとのことだけであった。
記録によると、このとき結納の品を持参した人物として、津島市三郎と豊田太左衛門の名前が記載してある。つまり、あつみが新橋で修治と逢った二日前には、すでに青森では結納が滞りなく交わされていたのである。』(太宰治 七里ヶ浜心中)

 この二日後の28日に、太宰とあつみは鎌倉腰越町小動崎の海岸東側東端の畳岩の上で、カルモチンを嚥下し、あつみだけが亡くなることになる。どの時点で二人が心中する話を持ち出したのか、そして動機は、薬はいつ用意したのかなど、なぞが多く残っている。

 次回も25日~27日にかけての行動を載せようと思います。


by dazaiosamuh | 2017-01-08 12:21 | 太宰治 | Comments(0)