田部あつみと広島 №10 新天地界隈を闊歩!!

あつみが小学校三年生のころ、八丁堀の南の堀川町に、新しい歓楽街新天地が出現した。もと中央勧商場のあったところである。新天地の東隣りにつづく東新天地を含めると、中央の広場を中心に新天座、日進館、映画俱楽部などの大きな劇場が立ちならび、カフェー、バー、レストラン、小料理屋、撞球場などが周辺にひしめいて、新天地は、広島の盛り場の代名詞になった。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 夜のアリスガーデン。新天地ができたのは大正10年ごろ、あつみが小学3年生くらいのころだが、新天地という正式の町名ができたのは戦後のことになる。父や兄が芝居が大好きだったので、新天地が出現すると、あつみはよく新天地界隈に連れて行かれ、大いに楽しんだ。

 そして高等女学校に入ると、あつみはますます大胆になり、髪をバッサリ切ったり、当時はありえない、洋服で街中を闊歩するようになる。
八丁堀千日前、本通り、新天地界隈を闊歩するあつみの可憐な洋服姿は、道行く人々の注目を一身にあつめた。たちまち評判になったあつみに、噂をきいた写真館からモデルの依頼がきた。新天地のワンダス写真館は、新天座や泰平館(のちの帝国劇場)の前にあって、そのころの広島で一番大きな写真館であった。モダンな洋服姿のあつみの写真は、大きく引伸ばされて、写真館のショウ・ウィンドウに長いあいだ飾られて、道行く人々の注目を惹いたという。この時代に一般家庭の娘で、そのような洋装スタイルで市内を闊歩した娘は、おそらく、田部あつみが初めてのことではなかったろうか。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 写真は中央がワシントンホテル、右がパルコで、あつみがいた当時、新天地にあった新天座、泰平館はこのワシントンホテル、パルコ付近にあった。
新天地の中核をなしていたのは、広場の西側の新天座であった。その巨大な小屋組千鳥破風造りの豪壮な構えは、京大阪へ出しても充分に通用するほど立派だったのである。新天座で観劇したり、新着の活動写真を映画俱楽部で見たかえりには、本通り入口の革屋町の喫茶店にはいった。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 パルコのすぐ近辺に、『永井紙店』があるが、そこの現在の社長である永井健二氏の祖父・永井林太郎が新天座や泰平館を経営した。ちなみに泰平館はもとは映画館「映画俱楽部」で、大正13年に泰平館になり、昭和5年に帝国座、昭和15年に帝国劇場と名を変えました。
 ワンダス写真館は新天座、泰平館の前にあったということなので、同じく写真の近辺に当時あったようですね。今では当たり前ですが、洋服を着慣れない時代に洋装スタイルで颯爽と歩くあつみの姿は、ひときわ人目を惹きつけたことでしょうね。
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 ちなみにこちらが、永井紙店で社長の永井健二氏からお話しを伺うことができ、永井紙店の背負ってきたものや原爆の話など、色々と貴重な話を聞くことができて良い体験になりました。永井氏は「人はみな互いに手をとりあって、助け合って生きていかねばならない」という言葉を何度も強調し話され、被爆二世であることもあり非常に説得力があり、とても印象に残っています。貴重な話、ありがとうございました。

※9月19日、追記
 ・さらに調べたところ、新天座は現在の中央通りにあったようです。


by dazaiosamuh | 2016-09-04 15:04 | 太宰治 | Comments(0)