田部あつみと広島 №9 あつみの母校・広島市立第一高等女学校

大正十四年四月、田部あつみは女学生として、広島市立第一高等女学校の門をくぐった。優れた先生が多く集まっていて、女学生に対する躾けも実にきびしく、学生が新天地に出入りすることなど、絶対に許されなかった時代である。日清、日露の戦役における靖国の母、軍神乃木大将の妻に範をとり、良妻賢母の大和撫子の訓育を主眼として子女を教導した。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 かつて、あつみの通った広島市立第一高等女学校は現在、広島市立舟入高等学校となっている。1921年に広島市立第一高等女学校として設立されたが、1945年8月、原爆により教師・生徒あわせて676名が亡くなっている。これは市内の学校の中では最多の犠牲者である。
 その後、1948年、学制改革により広島市立二葉高等学校に改組、1949年に学校再編成により、広島県広島舟入高等学校になり、この時から男女共学になった。現在の広島市立舟入高等学校に改称したのは1980年である。
『優れた先生が多く集まっていて、女学生に対する躾けも実にきびしく…』とあるように、当時から今も変わらず罰則は厳しいようで、『2007年に携帯電話の持ち込みが許可された。しかし電源を切ることが条件であり、見つかった場合の罰則は厳しくなっている。』(Wikipediaより)また、『遅刻に対しては月に規定回数を超えると反省文を求めるなど厳しい指導が行われており、遅刻者がいなかった場合にはアルルの女が校舎で流されるなど、特徴的な運動を行っている。』(Wikipediaより)
 私が通った学校とは大違い……。携帯電話の着信がなっても一言注意を受けるのみ、なかには別に注意しない教師もいるほど……。厳しく窮屈そうで、私にも無理かも。
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 現在の広島市立舟入高等学校。あつみの通った女学校から変わらず名門校として有名である。校章は、他の市内6校が校樹をモチーフにしているのに対して、舟入高校は「舟」をモチーフにしているらしい。
その頃、広島第一高等女学校三年の田部あつみは、ときどき学校を欠席することが次第に多くなっていた。次兄の影響をつよく受けて、迅くから自由の身についたあつみには、厳格な校風が合わなかったし、女学校を出てもただお嫁にゆくだけなら、あまり意味がないように思えてきた。家族にも内緒で、大胆にも髪を半分切ってしまったのである。
 父は激怒したが、既にあとの祭りで姉たちが何とかとりなしてくれた。それでも父の怒りは中々おさまらなかったが、あつみのほうも、その点では驚くほど強情であった。髪を切った件がどうやら落ち着いたころ、こんどは、洋服を作りたいと言い出した。
 その時代に、一般の女性が洋服を着て街を歩くなどは、広島ではまさに破天荒なことであったのである。もちろん父が許すはずがなかった。それでもあつみは、臙脂の襟のついた真紅の洋服をこしらえてしまった。当時、二円だった女学校の月謝を流用したのでなければ、兄が父に内緒で仕立代を出してくれたのかも知れない。』(太宰治 七里ヶ浜心中

 時代や風潮に逆らい、自由に生きようとする田辺あつみ。あつみは常に周りに惑わされず時代の先端を行こうとしていたのではないか。それでもやはり、家族はあつみに頭を抱え何かと苦労したことを思えば、親不孝でもあったか。せっかく成績優秀で女学校に入学したのに、のちにあつみは女学校を中退することになる。もったいないですね。

 高等女学校原爆慰霊碑は、1948年8月6日に母校で建立されましたが、その後、1957年に平和公園寄りの平和大橋のすぐ近くに移されました。後ほど載せたいと思います。


by dazaiosamuh | 2016-08-30 17:35 | 太宰治 | Comments(0)