田部あつみと広島 №5 あつみ誕生と市内発展

 田部あつみ(本名・田部シメ子)は大正元年12月2日に生れたが、ちょうどその年の11月、広島城の外堀が埋め立てられ、翌年1912年から1918年にかけて道路(相生通りや鯉城通り)や軌道が整備された。

この年、広島城の外堀を埋めて軌道を敷き、はじめて広島に市内電車が開通。翌年には、繁華街八丁堀の千日前に、西部の中島の世界館につぐ二番目の常設映画館が造られた。千日前の食堂でウドンが一杯二銭だったが、市内電車は五銭、映画館は十銭から二十銭、高いときで三十銭という時代である。シメ子が物ごころつく頃まで育った舟入町の生家は、戦争末期の広島に原子爆弾が投下され、いまは、跡方もない。』(太宰治 七里ヶ浜心中
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 写真は相生通りと鯉城通りの交わる交差点で、奥へ進むと広島城がある。この周辺が全部埋め立てられたということか。埋め立て理由は、日清戦争、日露戦争以降、市内は爆発的に人口が増加していき、ゴミ等の量も増え、広島城の堀の悪臭が目立つようになったからであった。そこで明治40年代になると市により外堀や城下町時代に運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まった。都市開発により広島城周辺は城跡の面影がまったくない。
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 広島城は、別名『鯉城(りじょう)』とも言われているらしい。私は初めて知りました。由来は様々で、広島城があった一体は昔『己斐浦(こいのうら)』と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は、『鯉』であったと言われていることからや、その他の一説には、堀にたくさんの鯉がいたからなど、様々である。

 広島城は軍の敷地であったことから立ち入り禁止であったが、1928年(昭和3年)に天守の一般開放がされている。田部あつみが高面順三とともに広島を発ち、東京へ向かったのは昭和5年であるから、もしかしたら、あつみも見学に足を運んだこともあるかもしれない。


by dazaiosamuh | 2016-08-12 11:52 | 太宰治 | Comments(0)