太宰治生誕祭前日 №5 叔母キエの孫・津島廉造さん

 中畑家を後にした私は、津島廉造さんに会うためその自宅へ向かおうと思ったのだが、念のため場所を確認するため、途中、蔵のスタッフに聞こうと思い「思い出」の蔵の入口へ行くと、スタッフの女性と目が合い、「廉造さん、こちらにいますよ」と言ったので蔵の中へ入ると、廉造さんは既に椅子に腰かけていた。隣には私のためにもう1つ椅子が用意されており、廉造さんに連絡してくれた男性スタッフといい、この女性スタッフといい、何と親切な人たちなのだ。これが津軽人の人情なのかと驚嘆したほどでした。
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 写真のどこに太宰治、津島廉造さんがいるか分かるでしょうか?
 津島廉造さんは1926年(大正15年)9月22日生まれで今年で91歳になりますが、現在も五所川原の津島歯科医院で院長として現役で働いています。文字通り、太宰治「思い出」の蔵で、当時の思い出を語ってもらいましたので、ここでもほんの少しだけ載せようと思います。

 太宰は昭和20年7月28日に妻子を伴って金木へ疎開し、翌年昭和21年11月12日までの約1年3,4カ月ほどを故郷で過ごしました。その間、太宰は度々、五所川原の叔母キエの家を訪れ、泊まっていきました。廉造さんは叔母キエの長女・リエの息子(四男)で、太宰と五所川原のこの蔵で会った当時は東京日本歯科大学の学生でした。なぜ蔵で生活したかというと、昭和19年に市内の中心部すべてを焼き尽す大火があり、叔母キエ宅も被害を受けたが、蔵だけは奇跡的に助かり、一家はその後住居として蔵で生活するようになったのです。

 廉造さんは小学校から中学校まで、太宰の小説は一度も読んだことがなかったそうです。太宰が作家であったかどうかを知っていたかも定かではないと言っていました。それは、太宰が幾度となく繰り返してきた自殺未遂や心中未遂、借金、薬などにより生家の体面を汚してきたため、同じ身内として太宰の話題を出す事はタブーとされてきたからでした。太宰の名前すら話題に出なかった。
 そして昭和20年から21年にかけて、太宰一家が疎開し、叔母を慕って蔵へ泊まりに来た時に初めて廉造さんは太宰と会い、蔵の中で酒を酌み交わしました。太宰が蔵へ来た回数は記憶が曖昧のようで、5,6回~10回くらいは来たかなと言っていました。

 太宰はマタイ伝を中心に話をしたそうです。他にも自身の作品などを話したそうですが、太宰が話してくれた中で廉造さんが強く印象に残っている話は、
優しさとは、人の辛さに敏感であること。人の辛さに敏感になれる人間になりなさい。これが本当の愛だ。これがないと教養人ではない
 と言っていたそうだ。とても強調して話したそうである。
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 「思い出」の蔵には、写真の人物が誰か分かるように番号と名前が記載されていました。太宰治は⑥番で、津島廉造さんは⑩番で、叔母キエに抱きかかえられています。写真と見比べてみてください。
 廉造さんが教えてくれたのですが、現在、写真の中でご存命の方は、⑩番の廉造さんを含めて3人で、後の2人は⑲番・慶三さん(93歳)、㉑番・光代さん(95歳)だけになります。
 
 当時、蔵には常に一升瓶が用意されていて、太宰は7合飲んだそうです。太宰には適量を飲んだときのある反応があり、一定量を飲むと必ずくしゃみをしたそうです。それが適量である7合なのだろうです。そして必ず少しだけ残していた。廉造さんが言うには、残した分は翌朝飲んでいたのではと、笑いながら言っていました。

 この後、私と廉造さんは外に出て『奥津軽虫と火まつり』の始まる様子を見ていたのですが、私は弘前に宿をとっており時間も既に18時半を過ぎていたため、電車の時間の都合上もあり、廉造さんにお礼を言い、駅へ向かいました。

 祭りの始まる様子を眺めていたとき、廉造さんがボソッと、「太宰は愛に苦悩した人だと思います」と言った言葉が、私にはとても印象に残っています。

 遅くなりましたが、次回にようやく生誕祭を書きます。

by dazaiosamuh | 2016-07-05 18:15 | 太宰治 | Comments(0)