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太宰治と弘前 №10 弘前のシンボル・最勝院五重塔

 太宰治は小説『津軽』で、弘前のシンボルとして弘前城、そして最勝院の五重塔を挙げている。
弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられている。
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 私が訪れた日はとても天気が良く、まるで五重塔が空まで突き抜けていくかのように、堂々と建っているように見えました。そんな五重塔は、寛文7年(1667)に津軽藩3代藩主津軽信義、4代津軽信政の寄進により、前後10年以上の歳月をかけて建立されました。国の重要文化財の五重塔としては日本最北端に位置している。造りについてwikipediaから一部引用します。
心柱は角柱で、初層天井から立つ。江戸時代建立の塔であるが古式を残し、軸部の逓減率が高く、バランスの取れた優美な塔である。初層は正面のみを連子窓、他3面を丸窓とし、2層以上は窓や構造材の意匠に変化を持たせている。
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 市民からは「五重塔の寺」として親しまれている金剛山光明寺最勝院。脇に鐘があったので思わず、ゴーンと鐘を撞いてしまいました。私以外だれも居らず、静かな境内で鐘の音だけが響きました。

 弘前で青春を送り、『津軽』にも弘前の代表的な存在として紹介しているので、太宰も少なからずここを訪れ、きっと五重塔を見上げたことでしょう。
 私は以前、京都の記事で長篠康一郎が太宰治文学アルバムに『太宰治の死で、憧れの京都移住は実現しなかったが、もし望み叶えられていたなら、その永住予定地は、おそらく醍醐寺の近辺であったと推定できる。』と書いてあったことを載せたが、その京都の醍醐寺には三宝院五重大塔がある。
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 こちらが、京都の醍醐寺にある三宝院五重大塔です。
 故郷に似た建造物があることから、太宰研究に半生を捧げた長篠は、こういった理由なども含めた上で、もし太宰が京都に住むのなら、『醍醐寺の近辺』と推定したのかもしれません。


by dazaiosamuh | 2016-04-10 13:13 | 太宰治 | Comments(0)