太宰治と弘前 №9 旧藤田家住宅 その④ 狂言自殺??

 太宰治は生涯で5度、自殺や心中を試みている。その最初の自殺を図ったのがこの藤田家の部屋になる。だが、実はその前に町の女と心中を図ったという説もあり、年譜などにも曖昧に記載されている。
 昭和4年11月頃、町の娘と郊外の原っぱで、カルモチン心中を図って未遂に終わったと伝えられている、と書かれた年譜があるが、目撃証言もなく信憑性にはかなり欠けるため、太宰の虚言だと思われる。石上玄一郎も、
年譜によればこの年の自殺未遂は十一月某日と十二月十日の二度にわたって行われたことになっているが、最初の「町のメッチェンとの心中未遂」の方は誰もその相手を見ておらず、あるいは太宰が、ある実在の女を心中の相手に想定して行った。「独り芝居」ではなかったかとさえ思われるのである。』と書いているが、実際はどうだったのでしょう。私もこれは「独り芝居」だと思っています。
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 こちらが藤田家で太宰が使用した部屋です。部屋は2階の六畳間で押入れと縁側付きです。手前は八畳間の部屋で、藤田家の長男・本太郎が使っていた。太宰は特に縁側を気に入っていたそうです。大高勝次郎と石上玄一郎は2人とも太宰の下宿先を訪れたことがあるようですが、石上の方が部屋の印象を強く覚えていました。
その部屋は先年訪れたときもそのまま残っていて、六畳間だと分かったが、記憶の中ではそれよりはるかに広く、そして明るい部屋のような気がした。部屋の中央には大きな机があり、その前に敷かれた緋縮緬(ひちりめん)の座布団がなまめしかった。あたりの壁には歌舞伎の隈絵が二、三点飾ってあり、太棹の三味線もかけてあった。何かいきなり女形の楽屋にでもとび込んだような異様な感じだった。

 太宰がいかに歌舞伎、義太夫などに凝っていたかが分かります。そして太宰が自殺を図ったのは昭和4年12月10日の深夜。多量のカルモチンを嚥下して昏睡状態に陥った。自殺の動機は定かではない。藤田家の者が理由を尋ねると、ただへらへらして理由を答えなかったらしいが、それも一種の虚飾のようなものだったのだろう。このことを太宰は『苦悩の年鑑』で触れている。
プロレタリア独裁。
 それには、たしかに、新しい感覚があった。協調ではないのである。独裁である。相手を例外なくたたきつけるのである。金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金の無い一賤民だけが正しい。私は武装蜂起に賛成した。ギロチンの無い革命は意味が無い。
 しかし、私は賤民でなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった。クラスでは私ひとり、目立って華美な服装をしていた。いよいよこれは死ぬより他は無いと思った。
 私はカルモチンをたくさん嚥下したが、死ななかった。


『苦悩の年鑑』を読むと、大地主に生れたことに対しての理由になっているように思われるが、様々な要因が推察されている。高額な仕送りを遊蕩費に費やし、紅子こと小山初代とは結婚の話までするほどの仲になっていることや、左翼活動、議員である兄を思わせる『地主一代』を書いたことや、他にも可愛がっていた弟・礼治の死も、心に心的ショックを与えていたことから、複雑な要因が重なったのかもしれない。しかし、この自殺未遂事件は第2学期試験のはじまる前夜だったことと、この時の太宰は成績があまり芳しくなかったことから、生家の手前、試験の結果を危惧しての打算的な狂言自殺だったのではないかとも言われている。
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 写真は太宰が特に気にいっていた縁側。ここで学校の勉強などをしていたのだろう。この六畳間の部屋で、芥川龍之介のポーズを真似る写真がいくつも残っている。
 太宰は処女短編集『晩年』の『』に、
また兄は、自殺をいい気なものとして嫌った。けれども私は、自殺を処世術みたいな打算的なものとして考えていた矢先であったから、兄のこの言葉を以外に感じた。』と書いている。これが太宰の本音だとすれば、やはり、藤田家でのカルモチン嚥下は狂言自殺だったものと思われる。

 太宰の自殺未遂に驚いた藤田家は、弘前市元長町の斎藤内科医院に急報し、津島家へすぐに打電した。
 津島家からは『急遽次兄の英治がやってきて看護にあたったが、翌十一日の夕刻になってしだいに昏睡状態からさめ、自殺をはかった者とは思われぬほどの明るい表情を取り戻したという。』(太宰治と私
 そして4、5日のうち、金木から母・たねが来て、翌日、たねに伴われて弘前郊外の大鰐町大鰐温泉のヤマニ温泉客舎に行き、冬休み最後の日まで静養した。その時、温泉客舎の2階の二間を占有し、身の回りの一切の世話を、母・たねが受け持ったとのことであったが、幼少時、本当の母の愛情を受けなかったため、子守のタケを本当の母親だと勘違いし、母の愛に飢えていたと言われており、小説等にはこの時の体験は書かれていないようだが、この時の母・たねの世話を、太宰はどう思っていたのだろうか。
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 写真は太宰が愛用した机で、実際に太宰が使用したものだ。年季が入っており、この机を太宰が使っていたのかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。思わず手でさすったり、頬杖をついてみたり、また自分の顔を横にして机にくっつけては……。やりすぎですね。

 昭和5年3月13日~15日、東京帝国大学の入学選抜試験を受ける。同じく3月15日、文科甲類一組二組併せた生徒71名中、第46席の成績で、官立弘前高等学校を第7回卒業生として卒業した。23日、帝国大学文学部の入学者氏名が発表され、4月17日、東京帝国大学文学部新学年が開始。

 今日の学生からみれば、太宰の高校時代は甚だ異様だが、しかし、それでいてとても魅力にあふれてもいる。あくまで私見で、私のような平凡な学生時代を送った者からしたら嫉妬に近いものも、正直、少なからずある。自由に遊蕩に使える金もなければ、歌舞伎や義太夫、芸妓などにも興味などなかったし、無論、高い矜持など持ってなどいなかった。
 太宰のことは好きだが、作品を読むと共感できる部分もあれば、彼の人となりを知る程、嫉妬や僻みも生まれる。まだまだできた人間ではないので、しょうがない、と自分に言い聞かせる。


by dazaiosamuh | 2016-04-06 19:28 | 太宰治 | Comments(0)