太宰治と弘前 №8 旧藤田家住宅 その③ 『細胞文藝』と芸妓紅子

 昭和3年(1928)に入り、太宰はメンバーを集め、同人雑誌『細胞文藝』を5月に創刊した。この時、読書会の責任者の三浦正次と共に太宰は石上玄一郎を誘っている。
津島はやがて、私がそれまで「校友会雑誌」に書いていた二、三の作品を読んだと言い、三浦とともに私に「細胞文藝」へ同人として参加することを勧めた。
『細胞文藝』の『細胞』という言葉は、当時、組織の末端を意味する左翼用語として使われていたらしいが、『題名だけはへんに左翼的だが、その内容たるや、北村小松など二、三、著名な人物の名が見えるのと、三浦の諷刺的な随筆が載っている以外には、巷間よくある、ありふれた同人誌にすぎなかった。』(太宰治と私)

 太宰はその『細胞文藝』に辻島衆二の筆名で『無間奈落』などを書いていたが、県会議員をしていた長兄・文治との関わりや地元紙の批評などがあり、後に『細胞文藝』は廃刊となる。しかし、『細胞文藝』は無駄に終わってはいなかった。太宰は『細胞文藝』への原稿依頼を、東京にいる井伏鱒二に依頼したりなどし、師弟関係へと繋がっていく。『細胞文藝』によって文壇界に自分をアピールすることができたのだ。
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 太宰の藤田家での集合写真が残されているが、上の写真の8畳の座敷で藤田家の人々と一緒に撮っている。同人雑誌の創作、義太夫に凝ったり、芸妓買いをしたりなどした太宰であったが、藤田家の前ではどんなふうに振舞っていたのでしょうか。
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 写真は2階へ通じる階段です。当時のままの木の階段で、太宰も上り下りしたと思われます。そう思うと嬉しくて私は何度もこの階段を上がったり下りたり、手でさすってみたりしました。ちょうど私が訪れたときは案内者の方が1人だけだったのでよかったです。

 青森の『おもたか』などに通い、芸妓・紅子こと小山初代としだいに親しくなっていった太宰であるが、弘前の下宿を出るときは制服制帽にマント姿であったが、『おもたか』を出入りするときは和服姿になっていた。当時太宰に同伴して『おもたか』に出入りしていた小舘保や中村貞次郎などの証言によると、実は太宰は、中学時代に下宿していた豊田家で着替えを済ませ、そこで友人たちと待ち合わせをし、そこから『おもたか』へ通っていたのだ。そして弘前で覚えた義太夫で、田舎芸者を相手に道行きや濡れ場を演じては仲間からの喝采を受けた。
 高校を卒業後、太宰が親兄弟の反対をおし切ってでも初代と結婚しようと思ったその背後には、複雑な内面的事情があり『それは贖罪の意識であろう』と石上は書いている。
生来、人並みすぐれて感受性の鋭い彼のことだ、自分の家の富裕と繁栄とが貧しい小作人たちの搾取と収奪の上に築かれたものであることを知ればこそ、彼はそれに、うしろめたさと罪の意識を感じ贖罪の意味で『無間奈落』や『地主一代』を書いたともいえる。しかも遊里で彼の接触する女たちはといえばほとんど例外なしに、そうした貧しい階級の出身なのだった。もしその貧しい階級の女と結婚し、彼女を幸福にしてやることができるなら、それはいわば一家の罪滅しになるとでも考えたのではなかったか。』(太宰治と私)

 果たして当時の太宰がここまでの考えにおよび、そのために芸妓と無理矢理結婚などするのだろうか、甚だ疑問である。また、石上は当時の太宰の遊蕩は『不安によるものと断定していいであろう』とはっきり書いている。
それは芥川のいう「ぼんやりした不安」ではなくて、彼の場合、不安の様相はあるイメージを伴うほどはっきりしていた。
 それはやがて革命が起って家は破壊され、土地は没収され、一族はみなギロチンにかけられるというイメージである


 太宰の作品を読むとたしかに既に十代の頃から不安に苛まれ、いかに感受性が強いかがうかがえる。太宰の不安は破格の生活として表にだされたのだ。

 次回は藤田家での自殺未遂について書きます。

by dazaiosamuh | 2016-04-01 13:17 | 太宰治 | Comments(0)