太宰治と弘前 №7 旧藤田家住宅 その② 義太夫、芸妓買い

 昭和2年8月頃から芸妓あがりの竹本咲栄(本名・中村ソメ)という女師匠のもとへ通いだした太宰治。『津軽』の中で太宰は弘前のことを『義太夫が、不思議にさかんなまちなのである』と書いているが、なぜ数ある中から、中村ソメを選び、足繁く通ったのかははっきりと分かっていない。太宰研究者の間でも、偶然なのか、中村ソメとどこかで知り合ったからではないか、など意見が出されている。
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 写真は1階中央にある、通り土間。太宰は弘高時代、外出する際「行ってきます」など言いながらここを通ったりしたのだろうか。
 同級の大高勝次郎によると、義太夫を習い、芸妓買いに耽り、服装などに凝っては通人を気取る太宰であったが、Kという生徒が教室でそれを暴露し、太宰に向かって『君は毎週青森に来て、鼻に白粉つけて遊んでいるそうじゃないか、え、へ、へ』と言われ、太宰は見る見る顔を真っ赤にし、顔を伏せて、蹌踉とあたりを歩き廻ったそうだ。
 しかし、太宰もそのまま黙ってはおらず、Kに対して不潔なゴシップを撒き散らし仕返しをした。Kも芸妓買いなどしていたようだから、どっちもどっちに思われる。
 生徒中には、『とかく芸妓買いに走って、中には芸妓に子を産ませたり、女房にしたりする者もあった。』(太宰治の思い出)とあり、今の時代ではあまり考えられませんね。
 大高勝次郎の他に、石上玄一郎という同じく太宰と弘高時代を過ごした友人がいる。石上は太宰と同じ弘高新聞雑誌部のメンバーで、先輩の送別会の時、太宰の発案で芸妓を呼んだのだが、その時の太宰のはしゃぎぶりに驚いたのであった。

こういう場面になると、にわかにはしゃぎ出し、芸妓相手に洒落は言う、冗談はとばすで、その弾んだ言葉のやりとりは、まさにひとかどの遊び人であった。』(石上玄一郎「太宰治と私」)
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 写真は台所と土間・井戸跡です。そういえばこの藤田家でどんな料理を食べていたのでしょうか。

 当時の太宰の仕送りは月々、70円~100円、多いときは150円などであったと言われているが、その当時のサラリーマンの初任給は20円~25円、課長クラスでやっと7、80円というのが相場だったというから、石上曰く『彼女らを相手にその通人ぶりを誇示しているような津島をみると、私はやはり彼が私とは異邦人であることを切実に感ぜずにはいられなかった。

 太宰はその遊蕩をかくして青森の料亭『おもたか』などに足を運んでいた。その理由は、下宿させてもらっている藤田家への配慮、左翼関係の学生に知られることへの危惧、実家がその青森の料亭、旅館を贔屓にしており、いつでもツケが利いたことなどがあげられている。

 太宰研究者の間では、なぜここまで太宰が芸妓買いなどに熱中したのか、この時期の太宰について色々と議論されてきたが、大高勝次郎は太宰にこんなことを聞いた。
君はどうして、芸妓などに熱中するのかね。君の身分なら、どんな立派な女をも、選ぶことが出来るはずなのに」私はいった。
「頼って来る気持がいじらしくて、しようがなくなるのだよ」津島は答えた。
』(太宰治の思い出)
 研究者の間でも色々議論されている通り、複雑な内面的事情が太宰の中にあったのだと思うが、この発言も本音だと思います。この弘高時代に、後に初妻となる小山初代と出会い、逢瀬を重ねていくことになります。


by dazaiosamuh | 2016-03-24 15:31 | 太宰治 | Comments(0)