太宰治と弘前 №3 弘前大学 その① 弘前高校跡

 昭和2年(1927)4月、太宰治(本名・津島修治)は旧制弘前高等学校(現在の弘前大学)文科甲類に入学した。第一志望は第一高等学校であったが、得点の面で叶わず、第二志望の弘前高等学校となった。第二志望といっても、弘前高校は秀才たちが集うエリート高校であった。
 文科甲類1年1学級41名中、成績上位から並べた席次で第14席であった。当時の官立高校の席順は、成績順である。
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 現在の弘前大学で当時、太宰治こと津島修治が通った旧制弘前高等学校跡になります。当時、弘前通学者以外は寮生活をする規則となっていたが、幼少時からルーズで病弱であった太宰の身を案じて、母・たねが「病弱の為」と偽って入寮させず、遠縁にあたる弘前市富田新町にある藤田豊三郎方(後ほど紹介します)に寄宿させたのであった。

 弘前高校は左翼活動の盛んな学校の一つで、当時、バンカラな風を吹かす生徒が多いなか、太宰は通学では編上靴に新調のマントで周りから変わり者として見られていた。入学当初は比較的規則正しい生活を送っていたが、芥川龍之介の自殺に衝撃を受けたり、歌舞伎や義太夫に凝り、同人雑誌の創作など、自分の世界を作り上げていく。その反面、英語の授業では英作文の才能を発揮し、外国人教師を驚かせたりもした。
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 太宰と共に弘高時代を過ごした友人に大高勝次郎という人がいる。
私が津島修治を知ったのは昭和二年四月、弘前高等学校(旧制)文科一年に入学したときのことであった。(略)津島が学校近くの親類筋の家に泊っていて、そこを根城に小説を書いたり、義太夫の女師匠の許に通ったり、青森、浅虫へ芸妓買いに通ったり、芥川龍之介に心酔し、その自殺に衝撃を受けたりしていたことを私が知ったのは二年になってからのことであった。』(太宰治の思い出

津島と井伏氏との密接な関係は人の知るところであるが、高校時代の津島の口から、一番多く出るのは、芥川龍之介の名であった。芥川の病的な鋭い神経、懐疑、革命の風潮に対する恐れを含んだ関心、自殺癖、等に対して、津島は深い共感を感じていたように思われる。幼いときから津島は身体が弱く不眠症に苦しみ、睡眠剤を用い、鋭利な神経や感受性をもて余していた。人間や世間に対する深い懐疑の店においても、津島は少年にしてすでに芥川と同じ道を歩いていたように思われる。だが、彼等の異常に鋭敏な感受性、狂的なまでに繊細な神経や体質は、当時の私には理解に苦しむものであった。』(太宰治の思い出

 太宰が学生時代、芥川のポーズを真似た写真は数枚残っており、出版物やネットで確認することができる。いかに太宰が芥川龍之介を敬愛していたかが窺われる。大高勝次郎の『太宰治の思い出』は、太宰の弘高時代を知る上で、とても貴重な資料だ。

 太宰治と弘前は、まだまだ続きます。


by dazaiosamuh | 2016-02-25 13:53 | 太宰治 | Comments(0)