太宰治 『思い出』めぐり!! №12 太宰が渡った橋はどれ?

 太宰治は毎日、豊田家から堤川に架かる橋を渡り中学校に通った。しかし、現在はその堤川に5本の橋が架かっているが、はたして太宰はどの橋を主に渡ったのでしょうか。

私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。』(思い出

 現在の5本の橋というのは、『石森橋』『青柳橋』『旭橋』『うとう橋』『堤橋』の5本である。
 さて、『朱で染めた橋のまるい欄干』というのは、どの橋なのでしょうか。実際に5本の橋を見てみると、現在、まるい欄干で朱で染めた橋はありません。
 しかし、『太宰治と青森のまち』に『青森中学時代、寺町の豊田のふとんやに下宿しながら、朝晩堤川にかかる旭橋(俗称、弁慶橋)を渡って通学した筈である。
 旭橋は、京都五条大橋を模して作られた、擬宝珠つき朱塗りのしゃれた橋であった。俗に弁慶橋といって子供たちは、牛若丸と弁慶の一騎討ちがこの橋で行われたという話を本気で信じこんでいたのである。
』とあり、『新編 太宰治と青森のまち』にも『太宰が通学によく通った旭橋や青柳橋、古茶屋町の通り…中でも弁慶橋ともよんでいた旭橋は、朱塗りの欄干と擬宝珠がトレードマークでもあった。』と書かれていたので、『思い出』に登場する『朱で染めた橋のまるい欄干』というのは、『旭橋』で間違いないようです。
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 こちらが現在の『旭橋』です。頑丈な橋に変わってはいるものの、川を眺めて黄昏るような橋ではなく、特になんの感慨もありませんでした。
 一番多く利用し思い出に残っているのが『旭橋』だったようですが、太宰は同級生たちと一緒に『青柳橋』も渡っていた。
中学一・二年生の頃、彼はよく家族のことを私に話した。遠く郷里を離れて懐しかったのだろう。私は駅前の親類にいたので、私達は学校の裏通りを編上げ靴にマント姿で、松並木をぬけ、相馬町、青柳橋を渡って帰った。』(新編 太宰治と青森のまち 坪田淳)
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 こちらは『青柳橋』です。あまり写真を撮らなかったのでいい写真がありませんでした。
 なぜ太宰にとって『旭橋』が『思い出』の一部として印象に残っているかというと、ただ単にまるい欄干に朱で染めた洒落た橋だからではない。太宰はこの時ひそかに、作家になることを決意していたのだ。その時の橋がまるい欄干で朱でそめた『旭橋』なのだ。
橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。(中略)そしてとうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であった。ここにはたくさんの同類がいて、みんな私と同じように此のわけのわからぬおののきを見つめているように思われたのである。
 作家になろう、作家になろう、と私はひそかに願望した。
』(思い出

 ここから太宰の創作活動がスタートするのである。『思い出』は昭和8年、同人雑誌『海豹』に発表されましたが、それからおよそ11年後の昭和19年に書いた『津軽』の冒頭部分に『思い出』を書いた時のことが書かれています。
隅田川に似た広い川というのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川というものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのように流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬え方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であったのであろう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとって忘れがたい期間であったとも言えるであろう。』(津軽

 現在の『旭橋』はなんの名残も残っていませんが、『思い出』『津軽』にもあるように、のちの日本の昭和の文豪と呼ばれる一人の作家が、青春時代、作家になろう、作家になろう、と決意した大事な場面、ゆかりの地なのだ。
 いつかここに文学碑を作ってもらいたいですね。


by dazaiosamuh | 2015-10-01 12:15 | 太宰治 | Comments(0)