2015年 09月 14日
太宰治 『思い出』めぐり!! №9 中学時代下宿地・豊田家跡
上記にある『遠い親戚にあたるそのまちの呉服店』というが、前回書いた常光寺に隣接し、中学時代の太宰の下宿地である豊田太左衛門家である。
『津軽』にも中学時代、豊田家にお世話になった話が少し出てきます。
『私の世話になった呉服店というのは、寺町の豊田家である。二十代ちかく続いた青森屈指の老舗である。ここのお父さんは先年なくなられたが、私はこのお父さんに実の子以上に大事にされた。忘れる事が出来ない。この二、三年来、私は青森市へ二、三度行ったが、その度毎に、このお父さんのお墓へおまいりして、そうして必ず豊田家に宿泊させてもらうならわしである。』(津軽)
『実の子以上に大事にされた』からこそ、真面目に勉学に励んだり、100m走の練習にも取り組むことができたのかもしれませんね。
さらに、『太宰治と青森のまち』に、豊田太左衛門の孫・鈴木正子さんが、祖父から聞いた話や小さい頃の太宰との思い出を載せています。
『ここに出てくるお父さんとは私の祖父、豊田太左衛門のことである。祖父はこの遠縁にあたる金木の津島家から預かった太宰をことのほか可愛がったということである。(中略)戦災前、寺町の家の座敷には、四号くらいのひまわり二輪をえがいた油絵がかかっていた。それは、太宰が祖父にプレゼントした棟方志功の絵で、焼けていなければ、きっとわが家の宝物のひとつになっていたに違いない。』
そして、太宰は中学時代どんな子だったのかというと、
『真面目でよく勉強したこと、青春のシンボルには悩まされ、ニキビとり美顔水を愛用して部屋には空ビンが一杯並べてあった』らしい。
誰でもニキビには悩まされると思いますが、人一倍、他人の目を気にする太宰には耐え難いことだったことでしょうね。私も10代の頃は、せっせと化粧水をつけたり、ニキビ専用のクリームなどを丹念に塗り込んだものです。
鈴木正子さんは、自身の太宰治との思い出で、
『また「津軽」の取材で来青した時なのだろうが、その時は太宰一人であった。夕食後、夜行で発ったのだが駅まで送っていった。太宰はカーキ色の国民服にゲートルをつけていたように思う。燈火管制の暗い新町通りを「空襲警報きこえてきたら……」と歌いながら帰ってきたのを妙にはっきりと覚えている。』と書いていました。
長いですが、『思い出』めぐり編はまだまだつづきます。