太宰治 『思い出』めぐり!! №5 逢瀬の舞台『おもたか』跡

 昭和2年4月に弘前高校に入学した太宰は、芥川龍之介の自殺に衝撃を受けたり、義太夫を習い初め、芸妓買いなどをしていた。この時、出会ったのが紅子こと小山初代である。当時太宰19歳、紅子16歳である。
 紅子は小学校を卒業すると、青森の置屋『野沢家』に住み込みで芸妓として働いた。太宰の長兄・文治も花柳界で遊んでおり、その野沢家と姻戚関係がある料亭『玉家』を贔屓しており、太宰は長兄・文治と会わないように、小さな料亭『おもたか』に幾度も紅子を呼び、2人は少しずつ親しい仲となっていき、次第にこの『おもたか』が逢瀬の場となっていった。
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 前回の桟橋跡から真直ぐ歩き、交差点を渡ってすぐの場所、写真の駐車場になっている場所が、当時料亭『おもたか』があった場所です。言うまでもなく面影はありません。
太宰は週末には弘前から青森へでかけ、青森中学校時代の下宿先の豊田太左衛門宅で学生服を結城紬と角帯に着替えて、料亭「おもたか」へ行き、昼は中村ソメ師匠から義太夫を習い夕方には紅子を呼び寄せた。
 紅子は半玉から芸者になりたてで「小柄で眼のぱっちりした豊頬で、赤い襟や赤い鼻緒の下駄の似合う人」だった
』(新編 太宰治と青森のまち

 当時の旧制高校では、花柳界や遊郭で遊ぶことは普通に近く、太宰に限ったことではなかった。弘前高校、東大時代を一緒に過ごした大高勝次郎は、『津島の芸妓買いを私が知ったのは二年生になってから間もなくのことであった。』と自身の著書『太宰治の思い出』に記している。
 太宰は、一つ年上の同級生から、『君は毎週青森に来て、鼻に白粉をつけて遊んでいるそうじゃないか、え、へ、へ…』とにやにやしながら言われ、『彼はいたたまれぬように面を伏せて、蹌踉とあたりを歩き廻った。
 大高は、こんな太宰の姿を『私はかつて、そんなに恥じた津島を見たことがなかった。』と書いている。

 太宰は弘高時代は弘前に下宿していたのですが、仕送りが多少ばらつきはあると思いますが、毎月120円だったとか。現在の金額にすると何と、約50万円ほどと言われています。
 普通の人からすると考えられないですし、羨ましいですね。毎月自由に使えるお金がそんなにあったら、夢が広がりますね。
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 写真の右を真直ぐ行くと、桟橋跡になります。
 この『おもたか』跡は、書籍等に詳しく載っているので、簡単に見つけられると思います。
弘前高校時代に芸妓・紅子こと小山初代(太宰の最初の妻)と逢瀬を重ねた料亭「おもたか」は、市内の浜町(現・本町二丁目)にあったが、今では建物は失われ、駐車場になっていた。』(太宰治と旅する津軽 新潮社
 また、『新編 太宰治と青森のまち』にも、手書き風のイラストで地図(70、71P)が載っていますので、本を片手に芸妓買いをしていた頃のゆかりの地をまわるのも面白いかもしれまん。


Commented by tarukosatoko at 2015-08-22 20:46
仕送りが月に50万円というのは、うらやましいことですね。

dazaiさんのブログに影響され、まだ読んでいない『津軽』を読み始めました。去年『斜陽』などを読んだんですが、前よりもずっとおもしろかったんです。わたしは、ですが、太宰は年をとるほど、おもしろくなる気がします。
Commented by dazaiosamuh at 2015-08-23 17:14
tarukosatokoさん、『津軽』は太宰の作家仲間や太宰文学研究者から、とても高く評価された作品ですよ!評論家の亀井勝一郎は、『太宰の全作品中で太宰の本質を一番よくあらわした代表作』と言っていたそうです。
 私もタルコフスキーさとこさんと同じ気持ちです。『津軽』の、「元気でいこう、絶望するな、では失敬」という最後に出てくる台詞は、太宰らしい名言ですよ。
 後で感想を聞かせてくだざい。
by dazaiosamuh | 2015-08-22 14:24 | 太宰治 | Comments(2)