太宰治 お伽草紙『カチカチ山』 №5 泥舟でぶくぶく!

狸の不幸は、まだ終わらぬ。作者の私でさえ、書きながら溜息が出るくらいだ。

 今さら言うまでもないが、いよいよ狸の最後を見届ける時が来た。もちろん、柴に火をつけられるのと同様で有名な、泥舟を沈められてしまう場面だ。
 狸は、火傷した箇所だけでなく、全身に仙金膏を塗られ地獄を味わったにも関わらず、『十日も経たぬうちに全快し、食慾は旧の如く旺盛で、色慾などもちょっと出て来て、よせばいいのに、またもや兎の庵にのこのこ出かける』のであった。
 太宰の描く狸は、つくづく下品で気持ちが悪い。
遊びに来ましたよ。うふふ。」と、てれて、いやらしく笑う。
「あら!」と兎は言い、ひどく露骨にいやな顔をした。


 しかも、狸は『や、ありがとう。」とお見舞いも何も言われぬくせに、こちらから御礼を述べ』る始末なのだ。
 そして狸は、そこら辺の小虫を拾って食べながら、兎に『こうしてまた二人でのんびり話が出来るんだものなあ。ああ、まるで夢のようだ。』などと、嫌われているとも知らずに自分勝手な話をするのであった。しかし、兎は狸に対する嫌悪と憎悪を増大させるばかりで、瞬時にまたもや悪魔の一計を持ち出す。
ね、あなたはこの河口湖に、そりゃおいしい鮒がうようよしている事をご存じ?」

 狸はたちまち眼を輝かせ、一緒に鮒を捕りに行ってくれることにほくほく顔になる。ここでも、船を漕げるの? との問いに、『その気になりゃ、なあに。』などとまた見苦しい法螺を吹く。兎は、自分が持っている船は小さいから、一緒にもう一隻、船を作りましょう、と言うのだが、狸は図々しくおまえひとりで作ってくれないかと言い、『ああ世の中なんて甘いもんだとほくそ笑む。』のであったが、この瞬間をもって、狸の悲運は決定的になってしまう。
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 波ひとつ無い白い河口湖に出て来た兎と狸。
 狸は、ここでもまた、舟の漕ぎ方において自分は昔名人と言われたものだ、などと見え透いた法螺を言う。挙句の果てに、『きょうはまあ寝転んで拝見という事にしようかな。』と泥舟の底に寝そべり、兎はふんと笑う。
さて兎は、その鸕鷀島(うがしま)の夕景をうっとり望見して、
「おお、いい景色。」と呟く。これは如何にも奇怪である。どんな極悪人でも、自分がこれから残虐の犯罪を行おうというその直前に於いて、山水の美にうっとり見とれるほどの余裕なんて無いように思われるが、しかし、この十六歳の美しい処女は、眼を細めて島の夕景を鑑賞している。まことに無邪気と悪魔とは紙一重である。

 
 狸を沈めて殺そうとする兎の、直前のこの「おお、いい景色。」という発言には、読んでいて私もゾッとする。狸もとんでもない兎を好きになってしまったものだ。
 そして、狸はついに最後の時を迎えることになる。
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ひゃあ!」と脚下に奇妙な声が起る。わが親愛なる而して甚だ純真ならざる三十七歳の男性、狸君の悲鳴である。「水だ、水だ。これはいかん。」
「うるさいわね。泥の舟だもの、どうせ沈むわ。わからなかったの?」
「わからん。理解に苦しむ。筋道が立たぬ。それは御無理というものだ。お前はまさかこのおれを、いや、まさか、そんな鬼のような、いや、まるでわからん。お前はおれの女房じゃないか。やあ、沈む。少なくとも沈むという事だけは眼前の真実だ。冗談にしたって、あくどすぎる。これはほとんど暴力だ。やあ、沈む。…(中略)…白状する。おれは三十七なんだ。お前とは実際、としが違いすぎるのだ。年寄りを大事にしろ! 敬老の心掛けを忘れるな! あっぷ! ああ、お前はいい子だ、な、いい子だから、そのお前の持っている櫂をこっちへ差しのべておくれ、おれはそれにつかまって、あいたたた、何をするんだ、痛いじゃないか、櫂でおれの頭を殴りやがって、よし、そうか、わかった! お前はおれを殺す気だな、それでわかった。」と狸もその死の直前に到って、はじめて兎の悪計を見抜いたが、既におそかった。
 ぽかん、ぽかん、と無慈悲の櫂が頭上に降る。狸は夕陽にきらきら輝く湖面に浮きつ沈みつ、
「あいたたた、あいたたた、ひどいじゃないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」と言って、ぐっと沈んでそれっきり。
 兎は顔を拭いて、
「おお、ひどい汗。」と言った。


 狸を沈める前の『おお、いい景色。』と沈めた後の『おお、ひどい汗。』
 まるで一仕事を終えた肉体労働者のようだ。太宰はこの話の後、『好色の戒めとでもいうものであろうか。』『礼儀作法の教科書でもあろうか。』などと書いているが、自身で、『いやいや、そのように評論家的な結論に焦躁せずとも、狸の死ぬるいまわの際の一言だけ留意して置いたら、いいのではあるまいか。
 曰く、惚れたが悪いか。

 と、書いている。
 この太宰版『カチカチ山』は、人間社会の男女を兎と狸を使って、皮肉とユーモラスを混ぜて描いてると思います。
 太宰が言いたいことは、実は最後の数行に書かれていると言える。

女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでいるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかってあがいている。

 次回は、『カチカチ山』にある太宰の文学碑を載せます。

by dazaiosamuh | 2015-02-22 20:56 | 太宰治 | Comments(0)