太宰治と水上 №3 太宰は『金盛館』に宿泊したのか?

 太宰の文学歌碑、心中場所付近を通り、ひたすら真直ぐ歩いていると、次第にお腹が空いてきたのでとりあえず目に付いたお店に入ることにした。今回宿泊することになっている『旅館たにがわ』のすぐ傍まで来ていることは分かっていたが、チェックインには1時間も早かったためだ。
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小さなレストラン 彩絵』という本格イタリアンのお店に入った。写真がそのお店で、中はアットホームな造りになっており、空腹だったことと、外が非常に寒かったため暖房のきいた店内に入ったときは、思わず安堵の声が漏れてしまった。
 私はリゾットグラタンを頼み、食べていると、すでにご高齢の女性が「これから上毛高原に行かれるのですか」と訊いてきたので、「いえ、太宰ゆかりの宿に泊まるためだけに来ました。」というと、一瞬、驚いた様子を見せたがすぐに、「あ、そうですか」と言い、今年は雪が降るのが早いですねえ、などとありふれた、言わば初対面に対して言う恒例の世間話をした。店内には昭和初期から中期にかけての谷川の写真が掲載された本があり、太宰が訪れた当時の風景写真などもあり、また、どこそこの道路の開通を祝う写真、ベーゴマ、ゴム飛びで遊ぶ子供の写真もあり、移り行く時代の流れを、今の私に感じさせた。
 空腹も満たされ、身体も心も温かくなった私はお礼を言い、お店を後にした。

 太宰治が初めてこの水上を訪れたのは、昭和11年8月7日、当時28歳。パビナール中毒と肺病を癒そうとして、一人で群馬県谷川温泉を訪れた。なぜ谷川温泉なのかと言うと、作家であり、芥川賞審査員でもある川端康成の勧めで、この土地へと療養も兼ねてやってきたのだ。『姥捨』から。
自動車を棄てて、嘉七もかず枝も足袋を脱ぎ、宿まで半丁ほどを歩いた。路面の雪は溶けかけたままあやうく薄く積っていて、ふたりの下駄をびしょ濡れにした。宿の戸を叩こうとすると、すこしおくれて歩いて来たかず枝はすっと駈け寄り、
「あたしに叩かせて。あたしが、おばさんを起こすのよ」手柄を争う子供に似ていた。
 宿の老夫婦は、おどろいた。謂わば、静かにあわてていた。
 嘉七は、ひとりさっさと二階にあがって、まえのとしの夏に暮らした部屋にはいり、電燈のスイッチをひねった…


『まえのとしの夏に暮らした部屋にはいり…』というのは、太宰が初めて訪れた昭和11年8月のことでしょう。実は、太宰が訪れた水上での宿泊先はどこなのか、曖昧な部分が多くあった。太宰は、初めて訪れた昭和11年8月に、宿泊した宿で『創生記』を書いている。その『創生記』の中の『山上通信』には、自分の苛立ちの感情をぶちまけような、乱れた文章で、そこで突然旅館名が登場する。
いやだ。いやだ。こんな奴が、「芥川賞楽屋噺」など、面白くない原稿かいて、実話雑誌や、菊池寛のところへ、持ち込み、殴られて、つまみ出されて、それでも、全部見抜いてしまってあるようなべっとり油くさいニヤニヤ笑いやめない汚れものになるのであろうと思いました。今から、また、また、二十人に余るご迷惑おかけして居る恩人たちへお詫びのお手紙、一方、あらたに借銭たのむ誠実吐露の長い文、もう、いやだ。勝手にしろ。誰でもよい、ここへお金を送って下さい、私は、肺病をなおしたいのだ。(群馬県谷川温泉金盛館)ゆうべ、コップでお酒を呑んだ。誰も知らない。
 八月十一日。ま白き驟雨。

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 突然『金盛館』という旅館名が登場しますね。こちらが現在の『金盛館せせらぎ』になります。太宰死後、昭和時代に出された書籍の年譜には、「金盛館に宿泊」などと記載されていた本もあったようです。小説を鵜呑みにしたためでしょう。
 では、太宰は本当に『金盛館』に宿泊したのか、それとも別の旅館だったのでしょうか。
『姥捨』には、『ほとんど素人下宿のような宿で、部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて、すぐ隣りの大きい旅館にお湯をもらいに行くか、雨降ってるときには傘をさし、夜なら提燈かはだか蝋燭もって、したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければならなかった。』と書いている。
 しかし、長篠康一郎は『太宰治水上心中』に、『…谷川温泉の金盛館といえば、古くから名の知られている有名な旅館である。谷川温泉なら金盛館、東京ならさしずめ帝国ホテルというところか。(中略)そのような立派な旅館に、内湯も無いというのは、ちと頷けない話に思われる。』と疑問視している。

 果たして、太宰が本当に泊まった旅館はどこなのでしょうか。次回に続きます。

by dazaiosamuh | 2015-01-14 13:47 | 太宰治 | Comments(0)