太宰治 新潟『みみずく通信』 №4 旧制新潟高等学校跡

 前回のドッペリ坂を上り、左にどんどん直進していくと、右手にとても広い校庭が見えてくる。ここは現在、新潟大学教育学部付属小学校、新潟大学教育学部付属新潟中学校、新潟大学教育学部付属特別支援学校があり、かつて、旧制新潟高等学校があった場所です。太宰治は、1940年(昭和15年)11月16日、案内役の野本秀雄と上野を発ち、新潟高等学校に招かれ、「友情」について講演をした。

正門前で自動車から降りて、見ると、学校は渋柿色の木造建築で、低く、砂丘の陰に潜んでいる兵舎のようでありました。玄関脇の窓から、女の人の笑顔が三つ四つ、こちらを覗いているのに気が附きました。事務の人たちなのでありましょう。私は、もっといい着物を着て来ればよかったと思いました。玄関に上る時にも、私の下駄の悪いのに、少し気がひけました。
 校長室に案内されて、私は、ただ、きょろきょろしていました。案内して来た生徒たちは、むかし此の学校に芥川龍之介も講演しに来て、その時、講堂の彫刻を褒めて行きました、と私に教えました。私も、何か褒めなければいけないかと思って、あたりを見廻したのですが、褒めたいものもありませんでした。
』(みみずく通信
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 上の写真が、新潟高等学校跡の石碑です。道路を背にして建てられていました。太宰は新潟高等学校で、自身の作品「思い出」「走れメロス」の一節を紹介しながら「友情」について、かなり熱を入れて話したという。
「青春は、友情の葛藤であります。純粋性を友情に於いて実証しようと努め、互いに痛み、ついには半狂乱の純粋ごっこに落ちいる事もあります。」と言いました。理想は捨てるな、と言いました。精一ぱいのところでした。私の講演は、それで終わりました。一時間半かかりました。つづいて座談会の筈でありましたが、委員は、お疲れのようですから、少し休憩なさい、と私にすすめてくれましたが、私は、「いいえ、私のほうは大丈夫です。あなた達のほうがお疲れだったでしょう。」と言いましたら、場内に笑声が湧きました。』(みみずく通信
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 校庭は中々広いですね。太宰は自動車の中で、「浪の音が聞えるだろうね」と生徒に行っていましたが、生徒が答えた通り、聞えませんでした。「砂丘の陰に潜んでいる兵舎のようでありました。」とありますが、現在、周りは住宅地となっています。当時は、どのような風景だったのでしょうか。

質問は、あまりありませんでした。仕方が無いから、私は独白の調子でいろいろ言いました。ありがとう、すみません、等の挨拶の言葉を、なぜ人は言わなければならないか。それを感じた時、人は、必ずそれを言うべきである。言わなければわからぬという興覚めの事実。卑屈は、恥に非ず。被害妄想と一般に言われている心の状態は、必ずしも精神病でない。自己制御、謙譲も美しいが、のほほん顔の王さまも美しい。どちらが神に近いか、それは私にも、分からない。いろいろ思いつくままに、言いました。罪の意識という事に就いても言いました。やがて委員が立って、「それでは、之で座談会終了いたします。と言ったら、なあんだというような力ない安堵に似た笑い声が聴衆の間にひろがりました。
 これで、私の用事は、すんだのです。いや、それから生徒の有志たちと、まちのイタリヤ軒という洋食屋で一緒に晩ごはんをいただいて、それから、はじめて私は自由になれるわけなのです。
』(みみずく通信
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 講演会後、新潟高等学校の生徒たちの間で、太宰の人気が急上昇したという。ちなみに、新潟高等学校の設立は、1919年4月15日で、1930年には、左翼学生処分に端を発するストライキがあり、翌年の1931年6月には学生籠城ストが起きている。そして、1949年5月、新制新潟大学発足にともない同大学に包括され、1950年3月に廃止となる。太宰が講演に訪れたのは、1940年(昭和15年)だから、僅か10年後に新潟高等学校は廃止となったということですね。

『みみずく通信』に書かれている通り、講演後、イタリア軒に生徒たちと夕食を共にするのですが、その前に、生徒たちと一緒に日本海を見に行っています。その後にイタリア軒に向かいました。
 私も新潟高等学校跡を見た後、太宰と同じように日本海を目指しました。
 次回は、太宰が見た新潟の日本海の記事を載せます。



by dazaiosamuh | 2014-12-11 22:55 | 太宰治 | Comments(0)