太宰治 小山初代を赤羽駅で迎える! 紅子上京事件

そのとしの秋に、女が田舎からやって来た。私が呼んだのである。Hである。Hとは、私が高等学校へはいったとしの初秋に知り合って、それから三年間あそんだ。無心の芸妓である。私は、この女の為に、本所区東駒形に一室を借りてやった。大工さんの二階である。肉体的の関係は、そのとき迄いちども無かった。』(東京八景
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 昭和5年10月1日、太宰は小舘保、葛西信造とともに、赤羽駅で芸妓こと小山初代を迎えた。その日は、夜明けまでともに街中で過ごし、深夜、小舘保、葛西信造の借家に初代を連れて行き匿った。その2、3日後に、本所区東駒形の大工の2階に一室を見つけて移らせたという。
 初代の失踪を知った「玉家」の女将野沢たまは、直ぐに東京の知人に連絡し、初代の乗った列車を上野駅で待ち受けさせたが、発見することはできなかった。
 それもそのはず、太宰達は、玉家が気づき、上野駅で待ち受けさせるだろうと、事前に読んでいた。そのため、初代に一つ手前の赤羽駅で下車するように便りで指示していたのだ。
 しかし、幾日かして、津島文治は玉家の野沢謙三に電話し、寺町の豊田太左衛門方で対談し、文治の依頼により野沢謙三は上京した。そして、太宰こと修治、初代と会って話をし、その内容を文治に報告した。
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 写真は、現在の赤羽駅のロータリーです。太宰が初代を迎えた当時とは全く違う景色になっています。面影は少しもないようです。
 文治が上京し、11月9日(10月15日頃との説もある)、戸塚の下宿で会談した。
故郷から、長兄がその女の事でやって来た。七年前に父を喪った兄弟は、戸塚の下宿の、あの薄暗い部屋で相会うた。兄は、急激に変化している弟の兇悪な態度に接して、涙を流した。必ず夫婦にしていただく条件で、私は兄に女を手渡す事にした。手渡す驕慢の弟より、受け取る兄のほうが、数層倍苦しかったに違いない。(中略)ただいま無事に家に着きました、という事務的な堅い口調の手紙が一通来たきりで、その後は、女から、何の便りもなかった。女は、ひどく安心してしまっているらしかった。私には、それが不平であった。こちらが、すべての肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみを嘗めさせて迄、戦っているのに、おまえ一人、無智な自身でぐったりしているのは、みっとも無い事である、と思った。毎日でも私に手紙を寄こすべきである、と思った。私を、もっともっと好いてくれてもいい、と思った。けれども女は、手紙を書きたがらないひとであった。私は絶望した。』(東京八景

 会談の末、文治は生家からの分家除籍を条件として、初代との結婚を承諾した。
 そして、分家に際して、財産分与ではなく、大学卒業まで毎月120円の生活費を仕送りすると決め、仮証文の「覚書」に署名させ、初代落籍のため、文治は初代を連れて帰郷したのであった。

 太宰は『東京八景』にあるように、初代に不満があったのかもしれない。文治と交わされた金銭的な条件にも不満、不安があったはず。
 太宰は、同年11月末に、銀座裏のバー、『ホリウッド』の田辺あつみと鎌倉腰越町小動崎の東側突端の畳岩の上で、二人でカルモチン嚥下することになる。

 太宰は初代を赤羽駅で迎えてから僅か2ヶ月後に田辺あつみと心中している。どういう経緯で出会ってすぐの女性と心中することになってしまうのか、不可解な疑問のシコリが残ってしまう。田辺あつみとの心中は、後ほど書いていきます。

 私は赤羽駅の写真を撮るために来たのだが、折角なので腹ごしらえをすることにした。駅中に手頃なうどん屋さんがあったので入り、目にとまった「黒豚うどん」を注文した。
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 葱がこんもり乗られており、豚肉が写真ではあまりはっきり見えません。葱をかき分けて豚肉に辿り着くと、思っていた以上に少なかった。それでも、太宰がいた当時よりは贅沢な食べ物だと、自分に言い聞かせながら、それ以外、何の思案もなく黙々と食べ、そそくさと店を後にしました。





by dazaiosamuh | 2014-09-16 07:39 | 太宰治 | Comments(0)