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太宰治 小山初代と住んだ神田区同朋町 №2 石崖下の旧居跡

そのとしの夏に移転した。神田・同朋町。さらに晩秋には、神田・和泉町。その翌年の早春に、淀橋・柏木。なんの語るべき事も無い。朱麟堂と号して俳句に凝ったりしていた。老人である。例の仕事の手助けの為に、二度も留置場に入れられた。留置場から出る度に私は友人達の言いつけに従って、別な土地に移転するのである。何の感激も、また何の憎悪も無かった。それが皆の為に善いならば、そうしましょう、という無気力きわまる態度であった。』(東京八景
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 神田明神を参拝した私は、目的である太宰と妻・初代が住んだ場所へと向かった。場所の住所は、当時、神田区同朋町12番地で、現在の住所だと千代田区外神田2丁目11番地付近になるようだ。神田明神から右に行くと、『男坂』と呼ばれる石段の階段がある。そこを下りて、すぐ左側付近が、当時の神田区同朋町12番地付近だ。上記の通り、自身が東京生活を振り返って書いた、「東京八景」にも一応住んだ町について触れている。
 ちなみに、『男坂』は天保年間に神田の町火消4組が石段と石灯籠を奉献したことからきているらしい。そして眺めがよいことから、毎年1月と7月の26日に観月(夜待ち)がおこなわれたとのこと。また、当時の江戸湾を航行した船の灯台の役割も果たしていたといわれている。
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 上の写真の階段(男坂)を下りたすぐ右手付近が、神田区同朋町12番地だったようです。当たり前ですが現代の建物に変わっていますね。共産党の活動をしていたため、逃げるように住居を転々としていました。昭和6年の6月下旬、工藤永蔵の「安全を保つため」というすすめによって、この同朋町12番地に転居してきたのだ。工藤永蔵によると、『小粋な格子戸の家』だったらしい。さらに、工藤永蔵『太宰治の思い出』には、『郷里のこと、文学のことなど雑談に花を咲かせ、初代さんの手料理で津軽の味をなつかしみ、家庭的な空気に浸ることが出来た。砂漠の中のオアシスのようなものであった』らしい。

 太宰は初代さんの手料理も食べ、平穏に問題なく生活していたように思えたが、同年10月下旬から11月上旬頃、青森の方から足がついて、共産党と青森の組合関係との連絡場所になっていたことを察知され、西神田署に出頭を命じられ、2、3日取調べを受けた。このままでは危険だからと引越しを進められ、神田区和泉町に移転した。しかし、こちらは青森の方の手落ちですぐにバレてしまった。
 その後、工藤永蔵は起訴され、刑務所に送られることになる。太宰は神田区和泉町もすぐに転居することになってしまうのであった。
 この神田区和泉町の住所は、いくら書籍等で探しても見つかりませんでした。ただ『神田区和泉町』としか記載されていないため見つけることは困難です。

 今では面影もなくなっていますが、この場所に太宰が居たのか、ここを太宰が行き来していたのかと思うと、感慨深いものがある。しかし、転居ばかりしていたら執筆にも影響が出るでしょう、初代さんも大変だったと思います。
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 『男坂』を下りてしまいましたが、甘酒を飲むために再び階段を上り、来た道を辿り、鳥居のすぐ横のお店で甘酒を買って飲みました。冷甘酒です。

 それにしても、一仕事終えた後(ただ写真を撮っただけですが)の甘酒は美味いですね。甘酒は作り手によってだいぶ味やとろみが変わると思います。美味しかったですが、やはり自分好みの味に自分で作った方がいいですね。
 





by dazaiosamuh | 2014-08-24 22:07 | 太宰治 | Comments(0)