2014年 08月 24日
太宰治 小山初代と住んだ神田区同朋町 №2 石崖下の旧居跡
ちなみに、『男坂』は天保年間に神田の町火消4組が石段と石灯籠を奉献したことからきているらしい。そして眺めがよいことから、毎年1月と7月の26日に観月(夜待ち)がおこなわれたとのこと。また、当時の江戸湾を航行した船の灯台の役割も果たしていたといわれている。
太宰は初代さんの手料理も食べ、平穏に問題なく生活していたように思えたが、同年10月下旬から11月上旬頃、青森の方から足がついて、共産党と青森の組合関係との連絡場所になっていたことを察知され、西神田署に出頭を命じられ、2、3日取調べを受けた。このままでは危険だからと引越しを進められ、神田区和泉町に移転した。しかし、こちらは青森の方の手落ちですぐにバレてしまった。
その後、工藤永蔵は起訴され、刑務所に送られることになる。太宰は神田区和泉町もすぐに転居することになってしまうのであった。
この神田区和泉町の住所は、いくら書籍等で探しても見つかりませんでした。ただ『神田区和泉町』としか記載されていないため見つけることは困難です。
今では面影もなくなっていますが、この場所に太宰が居たのか、ここを太宰が行き来していたのかと思うと、感慨深いものがある。しかし、転居ばかりしていたら執筆にも影響が出るでしょう、初代さんも大変だったと思います。
それにしても、一仕事終えた後(ただ写真を撮っただけですが)の甘酒は美味いですね。甘酒は作り手によってだいぶ味やとろみが変わると思います。美味しかったですが、やはり自分好みの味に自分で作った方がいいですね。