太宰治 小山初代と住んだ神田区同朋町 №1 神田明神

 昭和6年6月、太宰(当時23歳)は神田明神の石崖下の家に小山初代と生活を始めた。共産党活動のために、そして、その活動の安全のためにだ。

 同年、1月11日、芸妓紅子こと小山初代の引取り披露宴が、青森市新浜町2町目の料亭玉家で行われた。同月27日、津島文治と津島修治(太宰治)との間に、「小山初代ト結婚同居生活ヲ営ム限リ昭和八年四月其ノ生活費用トシテ毎月壱百弐拾円ヅツ支給スル」との条項を含む覚書が交わされた。さらに、「単独生活ヲ行フトキハ支給生活費ハ月額八拾円也」とし、また、「昭和八年四月限リ年額四百弐拾円ノ割ヲ以ツテ」修治の「生活費用トシテ」文治が「保管シ」、修治の「生活上支出ノ止ムヲ得ザルモノ」と、文治が「認メタルトキハ随時」修治に「支給スル」、というものであった。
 ただし、帝国大学より処罰を受ける、理由なく大学を退く、学業の放棄、刑事上の問題を犯す、操行の乱れ、社会主義運動への関わりなどをしないことを生活費支給の条件として、これに反した時は、「額ヲ減ジ或ハ停止及ビ廃止ヲスル」と記したのであった。

 しかし、太宰は共産党の活動へ参加。のちに出頭することになってしまう。
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 神田明神は、御茶ノ水から徒歩5、6分の場所にある。私はここへ来るのは初めてだ。ビルの建ち並ぶ中、大きな鳥居があった。すぐ脇には甘酒を販売するお店がある。甘酒は帰りに買って飲むとしよう、ひとまず神田明神へと向かった。

 神田明神の歴史は古い。歴史のほんの一部をホームページから紹介させてもらう。
社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。(中略)慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行いました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川家康より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。(中略)大正12年(1923)、未曽有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど鳥有帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。
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 徳川家康から認められていたとは知りませんでした。長い年月、人々の祈りがここで捧げられてきたのですね。私もお賽銭を入れ、お祈り(どちらかと言えば我儘なお願いですが)をしました。
 私が訪れた時は中々混んでいました。皆さん、どんな思いで手を合わせていたのでしょうか。少なからず太宰もここへ足を運んだことに違いありません。太宰なら、「日本一の作家になれますように」とかでしょうか。まさか「一生、酒と煙草と女と文筆に困りませんように」、なんて願いは頼んでいないとは思いますが。いや、しかし、ことによると……。

 太宰が妻・小山初代と住んだ神田同朋町の旧居跡は神田明神から右わきに進んだ「男坂」と呼ばれる階段を下りたところにあります。次回の№2で書きたいと思います。







by dazaiosamuh | 2014-08-21 13:12 | 太宰治 | Comments(0)