太宰治 奥多摩の御嶽へピクニック!! №8 玉川屋

ハイキングを終えた一行は、御嶽近くの玉川屋という蕎麦屋に上がった。大正四年に創業した玉川屋は、明治時代の民家を生かした茅葺き屋根の家で、二階の窓からは多摩川の渓流をみおろすことができる。』(青柳瑞穂の生涯

玉川屋』は、青梅線御嶽駅を左手から青梅方面へと向かうと、玉川屋の看板が見え、さらに左手の坂を少し上ると玉川屋に辿り着きます。下の写真の左側の坂を上って行くとすぐに玉川屋があります。
c0316988_22304928.jpg
 玉川屋は、大正4年創業、茅葺屋根で思わず一息つきたくなるような純和風の造り。太宰を含めた阿佐ヶ谷会一行は、この玉川屋の暖簾をくぐったのだ。以下、赤文字は全て『青柳瑞穂の生涯』より引用。
c0316988_20582876.jpg
 私が暖簾をくぐった時は、開店時間を少し過ぎたぐらいであったためお客は年配の男女の一組だけであった。店内は畳の部屋で、ゆったりとしている。
将棋盤が一台あったので、まず勝ち抜き戦で一局ずつやったあと、飲食した。「酒のサカナは、ふきのつくだにと、鯉のあらいであった。なんだか、妙なとりあわせであったが、一同たらふく飲んで、いまは太平洋戦に報道班員として徴用されて、不在の、井伏鱒二、小田嶽夫、中村地平の、三会員に寄せ書きをしたためて、何だか物足りない思いの遠足の感想を、こっちからも報道したのである」

 将棋盤は一台も置いてはいなかった(たとえ置いてあっても相手がいないが)。
 当時書いた寄せ書きは、今でも玉川屋の店内に掛けてある。もちろん直筆だ。ただ、一応、店員の女性に「この太宰の寄せ書きは直筆なのですよね?」と聞くと、「はあ、そうです…」と別段興味なさそうな返事であった。どこに行ってもそうだが、太宰に興奮する私と、別段、太宰に興味のない店員さん達との温度差は相当離れているようだ。
c0316988_22311261.jpg
 上の写真が太宰が書いた寄せ書きです。
太宰一人が「川沿ひの路をのぼれば赤き橋 またゆきゆけば人の家可奈」と気取っている。
 
 うっとりしながら、「ああ、直筆だ。これが太宰が書いた直筆の寄せ書きなのか」と、じーっと眺めていると、店員さんがお蕎麦を運んできた。
 私が頼んだのは鴨汁蕎麦で、しかも、大盛りだ。鴨汁蕎麦は千百円、大盛りはプラス二百円の合計千三百円でした。
 3月に来たため外はまだ肌寒い。しかし、その肌寒さもあり、より一層食欲が湧くというものだ。
c0316988_22305939.jpg
 上の写真が鴨汁蕎麦です。写真を見ているだけで、よだれが出てしまうのは、言わなくともわかる。(ちなみに鴨汁そばを食べるのはこの時が初です)阿佐ヶ谷会の一人、木山は8杯も蕎麦を平らげたらしいのですが、腹が空いていても蕎麦を8杯も食べる気は、流石に起こりませんね。
ところで太宰は、食べ物に関心がないどころか、井伏や浅見淵と三宅島に合宿に行ったとき、朝食の味噌汁を毎日六杯ずつ飲んだという逸話の持ち主だった。
 味噌汁6杯は飽きるでしょう。食べ物に関心がある、ない、ではなく美味しい食べ物はただ何杯も飽きずに食べただけであって、実際、太宰は食べ物に関心など無かったと思います。

 阿佐ヶ谷会一行は、夜9時ごろまで居たようです。
三時から九時までしたたかに飲んで、九時二十六分の御嶽発の電車に乗った。上林によれば、車内で、太宰は弁当に持ってきたにぎり飯を食べていた。木山は、車内で岩波文庫を読んでいる太宰をみたと書いている…
 この当時、太宰は三鷹に家を持ち、美知子夫人と暮らしている。おにぎりは美知子夫人のお手製だと思われます。太宰の心身共に安定した時期だったのではないでしょうか。
 御嶽からの太宰たちの寄せ書きは、マレー攻略後シンガポール入りした井伏のもとに無事に届けられました。

 折角、ここまで来ましたが、太宰たちのようにしたたかに飲むこともなく(それどころか一滴も飲まず)、御嶽から電車に乗って帰りました。

 玉川屋は大正4年の老舗。太宰が実際に訪れたゆかりの場所でもあり、直筆の寄せ書きも残っています。ここからの多摩川の景色は見応え十分、多摩川沿い散策の後に、もしくは太宰に少しでも興味のある方は是非、寄ってみるのもいいかもしれません。
 これで奥多摩の記事は終りになります。

by dazaiosamuh | 2014-08-16 22:42 | 太宰治 | Comments(0)