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太宰治 船橋時代に入院した芝済生会病院

『このたびの入院は私の生涯を決定した。』(碧眼托鉢

 昭和11年2月10日、太宰は芝区赤羽町1番地の済生会芝病院新病棟に10日間の約束で入院している。その1週間程まえ、2月5日付け、佐藤春夫宛封書で、『芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう。さうして、どんな苦しみとも戦って、生きて行けます。(略)私を、助けて下さい。』と哀願する。そして、折り返し佐藤春夫から、すぐ来るようにと連絡があり、2月8日午後3時に東京市小石川区関口町207番地の佐藤春夫宅を訪問し、パビナール中毒治療のためにわざわざ入院せよという、強い忠告を受けた。
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 私は芝済生会病院に向かうため、JR山手線の田町駅で降りた。そこからは、たしか、徒歩で20分近くは掛かったと思います。
 もともと、この病院は佐藤春夫の実弟・佐藤秋雄が勤務していました。そして、2月11日、伊馬鵜平、山岸外史、2月12日、浅見淵、2月14日、檀一雄、2月15日、佐藤春夫夫妻、檀一雄、小山祐士、2月16日、伊馬鵜平、檀一雄、山岸外史、2月18日、井伏鱒二と、それぞれ見舞いに訪れた。
 しかし、2月14日の夜に檀一雄に円タクに乗せられ、下谷区中坂町四十一番地の浅見淵宅を訪れ、浅草で大酔し、翌15日の夜には、小山祐士と浅草に行き、呑み屋で出会った喜劇俳優清水金一と3、4軒飲みまわるなどして、2月20日に退院した。
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 皆が心配して入院させたのに入院中に抜け出て酒を呑みまわるとは、流石ですね。今の時代なら絶対に引き止めますね。それとも、酒ならいいだろうとでも思っていたのでしょうか。そんなことしているから治るものも治らないのだ。
 また、檀一雄著『小説太宰治にもこの芝済生会病院の時のことが少し書かれている。

『さて、太宰が、佐藤春夫先生のおとりなしで、中毒除去の為に、芝の済生会病院に入院したのはいつのことだったろうか。先生の御令弟、佐藤秋夫さんが、病院に居られて、その手引きで入院したものだった。未だ「晩年」は出来上がっていなかった。私は、浅見さんと緑川貢を誘って、見舞いにいった。病室の寝台からムックと起き、太宰はひどく喜んだ。淋しかったのだろう。「いい時、来た。檀君。滅多に人は待たれることないよ。今日は待たれた、俺からねえ。有難いと思えよ」しばらくそんなことを云っていたが、「いまさき、佐藤春夫先生御夫妻が、見舞いに来られたとこだ」そう云って、嬉しげに、布団の下から、奉書紙の包みを取り出した。「御見舞 春夫」と、書かれてあった。太宰は、私達に開けて見せた。参拾円のようだった。』
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 写真、見ずらく申し訳ございません。上手く撮れませんでした。建物はこの横にもあります。
 年譜には、佐藤春夫夫妻が訪れた日は、緑川貢と浅見淵の名前は載っていなかった。省かれたのでしょうか。年譜では、病院を抜け出て、途中、浅見宅を訪れている。さらに、見舞いに来た時、佐藤春夫夫妻からの見舞金でウィスキーを買ったとの描写が書かれている。病人にお酒を飲ませちゃだめでしょう。いくら太宰が飲みたがっていても、引き止めるべきです。
 さらに、年譜には檀一雄が太宰を車に乗せて出かけたように書かれているが、『小説太宰治』では太宰の方から誘ったようです。
『「出かけようか?」と、太宰。
 「ああ」と私は即答した。
 「いいかね? 太宰君。大丈夫かね?」
 浅見さんの逡巡の表情が今でも眼に浮かぶ。しかし、浅見さんも強いて反対はしなかった。「いいんだ、いいんだ」と、太宰は和服を着用しはじめた。慣れたふうでベットの下の下駄を手に抱えて、太宰が先に立、全部、見舞客のふうで、ぞろぞろと出ていった。車に乗った。それから何処で飲んだかは、覚えていない。大酔していた。』

 これでは治る病気も治らない。『小説太宰治』でも『「晩年」は、太宰の希望通りに出来上がった。しかし、太宰のモヒ中毒の方は、勿論の事なおらなかった。』
 当たり前だ。分かっているなら一緒に飲みに出かけるな。無理にでも安静させようとは思わなかったのかな。それとも、檀は太宰のことを分かっているから、無理強いさせなかったのか。

 こうしてまた、船橋での自らパビナール注射を打つ、荒れた生活に戻ってしまうのであった。船橋での生活は「愛着深き船橋時代」の記事で、雑ですが載せてますので、そちらを拝見してもらえればと思います。



by dazaiosamuh | 2014-07-08 02:29 | 太宰治 | Comments(0)