太宰治 桜桃忌より数日 悲しむ人々

『子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。桜桃が出た。私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾のように見えるだろう。
 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。』(桜桃
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 数日前(19日)の桜桃忌は、感慨深い日であった。昭和23年の6月19日、午前6時50分頃、死体が発見された。太宰の遺体は「千草」で検視のあと、堀ノ内の火葬場で荼毘に付され、午後6時すぎに骨が拾われた。
 そして、20日にお通夜が行われた。亀島貞夫の「太宰治との別れと死」より。
『ほとんどしどろに乱れた田中英光の巨躯や、葬儀委員長がなんで豊島さんか、なんでおれで悪いかと酔余の逆上に発した山岸外史の大声や、それら一切の場景の外に、読経に現われた僧を一瞥し、「珈琲、のみに行こう」と、にべなくという感じで、席を立った石川淳の、幾らかしゃくれた不機嫌な顔』等が印象に残っているという。

 6月21日、太宰宅において、葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二のほか、亀井勝一郎、伊馬春部、石川淳、林芙美子、太田洋子、今官一、小田嶽夫、外村繁、上林暁、丹羽文雄、渋川驍、田中英光、吉田晃、野原一夫、野平健一、石井立、亀島貞夫、青柳瑞穂、小山清、戸石泰一、宮崎譲、山岸外史、末常卓郎、原通久など、文壇、出版界の人間が約300人参列して告別式が行われた。

 6月26日、角田唯五郎が津島の家を角田家住宅として買収した。
 7月18日、三鷹町下連雀296番地、黄檗宗霊泉山禅林寺に葬られ、57日の法要が営まれた。
 7月25日付で、『人間失格』を筑摩書房から、同日付で『桜桃』を実業之日本社から刊行。
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 太宰の亡くなった時期と、『人間失格』の出された時期が近かったため、遺書だという噂、憶測が絶えなかったようです。安易な決めつけでしかありませんし、太宰専門の研究者たちや、当時、身近にいた人々でさえ本当の理由は分かりません。ましてや一緒に心中した山崎富栄も、太宰の真の胸中は分からなかったのではないでしょうか。

『太宰君は自分で絶えず悩みを生み出して自分で苦しんでいた人だと私は思います。…しかし元来が幅のせまい人間の私は、ただ君の才能に敬伏していましたので、はらはらさせられながらも君は悩みを突破して行けるものと思っておりました。しかしもう及ばない。私の愚かであったために、君は手まといを感じていたかもしれません。どうしようもないことですが、その実は恥じ入ります。左様なら』
 井伏鱒二の、悔やんでも悔やみきれない哀切極まる弔辞ですね。

 それから1年後、昭和24年6月、太宰治自筆の著名を写して「太宰治」とだけ刻まれた墓碑が、敬愛する森鴎外の斜め前に建てられた。
 12日、三鷹禅林寺で一周忌法要が営まれた。そして、知友で同郷の今官一の提唱によって、遺体が発見され、誕生日でもあった6月19日を『桜桃忌』と名づけた。
 それ以来、この日に太宰治を偲ぶ会が開かれるようになった。
『桜桃忌』の由来は、死の直前に名作『桜桃』を残していることと、太宰自身が桜桃を好んでいたこと、そして、桜桃の実る頃に逝ったことによります。
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 『桜桃忌』の名前を提案した今官一は、自身の著書『少年 太宰治』でこんな事を書いていた。
 『それを尋ねられたら、このように答えようと、初めから心組みでいるのに、いまだにだれひとり、ただの一度も、尋ねてはくれなかったために、ついに出口を失って、とまどうている答えが、一つだけ、私の心の中に、かすのように、淀んでおります。それは、「太宰の死は、善だろうか、悪だろうか」という、問いかけであります。私は、死の直後に、それを自らに問いかけ、そのときから今日まで終始一貫して、「それは、悪である」という答えを、いつも心の中に用意しておりました。しかし今日まで、だれひとりとして、私に、それを尋ねた人はありませんでしたし、それの答えを、しゃべらせたり、書かせたりしてくれるところはありませんでした。』

 今でこそ太宰は天才作家として、なぜあの若さで死んだのかと思われていますが、当時は、社会的にも衝撃を与え、市民の飲み水であった玉川で、しかも女と心中したことに対する抗議もあり、物議をよんだのでしょうが、今現在、今官一が自身に問うた、「太宰の死は、善だろうか、悪だろうか」という問いには、誰もが口を揃えて「悪である」と答えることは間違いないであろう。
 あの時の太宰は、心身共に弱っていたのかもしれないが、生きていれば、どうとでも、いくらでもなったであろう、しかし、周りの仲間や家族が思っている以上に、太宰は苦しんでいたのかもしれない。

 生きていれば、間違いなく、より多くの名作を残したことは間違いない。

 太宰治 
 明治42年(1909年)6月19日~昭和23年(1948年)6月13日



by dazaiosamuh | 2014-06-22 13:26 | 太宰治 | Comments(0)