太宰治の住んだ町 荻窪紀行 №3 井伏鱒二宅

 前回は別の記事(ゴールデンバット)を書きましたが、また荻窪紀行に戻ります。
 私が鎌滝跡の次に訪れたのは、井伏鱒二宅です。もう今さら言うまでもありませんが、太宰治の師です。鎌滝跡からそう離れていないです。
 今でもご家族、親類が住んでいるようで、人の出入りがありました。しかも、表札にも「井伏」と書かれていました。表札は文字が薄くなっており、近付かないとよく分かりません。載せた写真では見えないですが、門の右上の方に「井伏」と書かれています。
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 井伏宅から女性が一人出て来て、自転車に跨った所で、「あの、すみません。こちらが、井伏さんのお宅ですよね」と、思わず聞いてしまった。表札に「井伏」と書かれているのにわざわざ聞くのもどうかと自分で思った。女性は少し驚いた様子で「あ、はい、そうです。」と言って、私のことを少し不審に眺めながら自転車で去って行った。
 この出入りしていた女性に何か少しでも話を伺おうと思って、咄嗟に話しかけたのであったが、何も言葉が浮かんでこなかった。ただ不審に思われて終わってしまった。

 井伏鱒二は太宰に会った初対面のときのことを、『荻窪風土記』に書いていた。
『月日のことは覚えないが、筑摩書房の現代文学大系「太宰治集」の年譜で見ると、昭和五年(1930年)太宰治二十二歳、四月に大学仏文科に入学し、下戸塚の諏訪に下宿してゐるときで、四月か五月頃の見当である。太宰は赤っぽい更紗の下着に久留米の対の蚊絣を着て、紬の袴をはいてゐた。連れの青年は有りふれた紺絣の上下に袴をはいてゐた。私はこの初対面のときのことを、後になつて随筆で二度も書いたので、割合にこまごましたことまで覚えてゐる。』

 太宰はこの時、自分が書いた短編を赤い細いリボンで綴じて井伏に渡し、今読んでくれ、と言った。井伏はこれを読むがひどいものであった。それは、井伏が中村正常と合作で「婦人サロン」に載せた「ペソコとユマ吉」というナンセンス読物に似せて書かれていたからだ。井伏は太宰に言った。
『きみ、こんなペソコ・ユマ吉の真似をしちゃ、毒だ。こんなことをする前に、プーシキンやチェホフを読んだらどんなものかね』
 太宰は素直に頷き、新聞紙に原稿を包んで懐に入れた。
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 また、井伏は太宰の服装についてもふれていた。
『私は太宰の身なりを気にして、貸衣裳屋で借りて来たのではないだらうかと思った。今どき更紗の下着なんか身に着ける文学青年もないものだ。「きみは、兄さんがあるんだらうね」と訊いた。「あります」と答へるので、「その更紗の下着や蚊絣は、兄さんからの拝領ぢゃないのかね」と訊くと、太宰は咄嗟に、図星だと言わんばかりに頷いた。うまく調子を合わせ、我が意を得たと言ふかのやうに見えた。(中略)ところが後に太宰が亡くなって、津軽五所川原の中畑さんといふ太宰の後見人に会ったときその話をすると、「とんでもない。修ッつあんといふ人は、人のお古なんか着る人ぢゃごわせん。私は津島家出入りの呉服屋ですが、あの更紗の下着も揃ひの蚊絣も、私が見立てて送った覚えがごわす」と言った。』

 太宰は自身の作品のなかでも、自分の服装に就いて書いていたりと、やはり見栄坊な一面がちらちらと伺える。しかし、オシャレの度を過ぎてちぐはぐな印象を人に与えることもしばしばあったようだ。それでも、それが太宰のある意味、一種の特徴というのか、初対面の人間に「この男はなんだろう、何者なのだろうか」と思わせていたことは事実ではある。

 井伏は長くここ荻窪に住んだ。「荻窪風土記」には、井伏が荻窪に移り住んだ時のことや、戦時中のこと、太宰と出会った時のことも書かれているので太宰に興味のある方や昭和の荻窪について知りたい方は読んでみるのもいいかもしれない。



by dazaiosamuh | 2014-05-28 21:42 | 太宰治 | Comments(0)