太宰治 都新聞社の入社試験受けるも失敗

『どうか頼む!太宰君、帰って来てくれ。今日も私は三浦半島へ君を捜しに行って帰って来たところだ。』(井伏鱒二)

 昭和10年3月16日、太宰治は失踪した。井伏鱒二は、杉並区署に捜索願を出し、長兄文治も打電によって郷里から駆けつけた。
 3月17日付「読売新聞」には『新進作家死の失踪?』の見出しで報じられた。

 太宰はこの事件の数週間前、東京帝国大学の落第が決定していた。帝大に入学してから約5年、卒業の見込みはなく、このままでは生家からの送金は途絶えてしまう。不安と焦燥が彼を襲った。
 それでも太宰は、新聞社に入ることができれば、もしかしたら……、という思いがあった。
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 太宰が入社試験を受けた都新聞社は、現在の内幸町日本プレスセンターにあった。私は、丸ノ内線に乗り霞ヶ関駅で降りて、その都新聞社が当時あった場所、現在の日本プレスセンターに足を運んだ。霞ヶ関で降りるのは今回が初めてであった。ほとんどビジネスマンしか見かけなかったため、私の目には堅苦しい印象に映った。

『今思い直してみると、都新聞の入社試験があったのは、三月前だったような気持がする。しかし、いずれにせよ、私に卒業の準備にと母から百円の金が送られて、太宰の見立てで、六拾円の青色の背広を買った前後のことだった。
 かりに、東大の卒業が駄目になるような事があるにせよ、都新聞にさえ這入れれば、と、太宰のこれは可憐な迄の悲願だった。
 当時、都新聞の学芸部に勤めていた、中村地平ともしきりに打合わせをし、いかにも大事げに、臆病げに、その忠告なぞにきき入っていたのを覚えている。しかし、丁度上泉秀信氏が学芸部長であり、井伏さんのすぐ近所で、今度は案外物になりはしないか、という妄想に大きな望みをかけているようだった。全く甲斐々々しく、太宰は大喧噪で、
 青い背広で心も軽く
 などと、流行歌を妹の前で口遊んで見せたりしながら、私の家から、その青い背広を着込んでいった。口頭試問の時であったろう。
 しかし、見事に落第した。』(『小説 太宰治』檀一雄)
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 上の写真の中央が、内幸町日本プレスセンターです。丸みをおびた上部が印象的です。都新聞社は昭和17年に、国民新聞と合併し「東京新聞」へと変わっています。

 新聞社に入れなかった太宰は、生家から「この春大学を卒業しなければ、以後、いっさい送金しない」などと言われていたこともあり、ショックを受け、負の塊となって、一人、鎌倉へと向かい自殺未遂事件(縊死)を起こしたのであった。
 太宰は、この時のことを『東京八景』に書いている。

『あくる年、三月、そろそろまた卒業の季節である。私は、某新聞社の入社試験を受けたりしていた。(中略)新聞記者になって、一生平凡に暮らすのだ、と言って一家を明るく笑わせていた。どうせ露見する事なのに、一日でも一刻でも永く平和を持続させたくて、人を驚愕させるのが何としても恐ろしくて、私は懸命に其の場かぎりの嘘をつくのである。私は、いつでも、そうであった。そうして、せっぱつまって、死ぬ事を考える。結局は露見して、人を幾層倍も強く驚愕させ、激怒させるばかりであるのに、どうしても、その興覚めの現実を言い出し得ず、もう一刻、もう一刻と自ら虚偽の地獄を深めている。もちろん新聞社などへ、はいるつもりも無かったし、また試験にパスする筈も無かった。完璧の瞞着の陣地も、今は破れかけた。死ぬ時が来た、と思った。私は三月中旬、ひとりで鎌倉へ行った。昭和十年である。私は鎌倉の山で縊死を企てた。』(東京八景)

 新聞社に落ちてしまった太宰ですが、私個人としては、新聞社でどんな働きを見せるのか、少し見てみたかった。正直、太宰の性格上、ちゃんとこなすようには見えませんが……、そんなこと言ったら失礼ですね。

 ちなみに、都新聞は明治から昭和の日刊新聞で1884年発行の夕刊紙(今日新聞)が前身。1888年(みやこ新聞)、1889年(都新聞)と改題している。小説や歌舞伎・花柳業界関係の記事に特徴があり、黒岩涙香の翻案小説、伊原青々園の劇評などが人気をよんだとされている。
by dazaiosamuh | 2014-04-19 16:14 | 太宰治 | Comments(0)