太宰治 愛着深き船橋時代 №7 叶わぬ芥川賞

『晩年』の出版はぐずついた。(中略)太宰の方は、モヒ中毒のせいか、あの頃は全くこらえ性が無かった。やきもきと私に督促する。即刻、自殺でも決行しかねないような、電報、書簡の間断のない連続である。』(小説 太宰治)
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 砂子屋書房の主人が株にも相当手を出していたようで、それが2・26事件の株価の変動に会い、遅延の理由だと、檀一雄は言われたようであった。それでも何とか『晩年』の出版の話は着々と進んで言った。
 
 太宰は佐藤春夫らの勧めで済生会芝病院(後程、詳しく書きます)を10日間の約束で入院、退院後の昭和11年3月12日に第2回芥川賞が発表されるが、該当者は無かった。同年の6月には『晩年』は完成し25日に刊行された。『小説 太宰治』には、『「晩年」は希望通りに出来上がった。しかし、太宰のモヒ中毒の方は、勿論の事なおらなかった。』と書かれている。
 そして、太宰はその初刊行本を川端康成に寄贈し、その礼状への折り返しに『第二回の芥川賞 くるしからず(中略)労作 生涯いちど 報いられてよしと 客観 数学的なる正確さ 一点のうたがい申しませぬ 何卒 私に与えて下さい (中略) 早く、早く、私を 見殺しにしないで下さい』と記して投函した。
 『晩年』の出版記念祝賀会は、昭和11年7月11日に上野精養軒にて、豪華な顔ぶれで行われた。
 
 8月に入り、『晩年』が第3回芥川賞の有力な候補に上がっていることを、佐藤春夫から聞かされて有頂天になる。8月7日には、パビナール中毒と肺病を癒すため、群馬県の谷川温泉に行き投宿した。
 有力な候補に上がっていながら、しかし、檀一雄らの懸命な働きや、川端への泣訴状もむなしく、8月10日過ぎ、第3回の芥川賞に落ちたことを知らされて強い衝撃を受けた。
 
 その後、パビナール中毒の太宰を心配した妻・小山初代は、井伏鱒二に相談。相談を受けた井伏も他の友人たちと話し合い、太宰に麻薬中毒の治療を強く勧め説得し決意させた。そして、昭和11年10月13日に板橋区の武蔵野病院(後程、詳しく書きます)に入院し、入院中に船橋の自宅は引き払い、太宰の船橋時代は終わるのであった。
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 太宰の船橋時代の写真に、お稲荷の像が写っている写真があるのですが、どうやらネットや書籍で調べたところ、御蔵稲荷のことらしい。川奈部薬局を後にした私は、その御蔵稲荷神社へと向かいました。
 この稲荷神社も、旧宅跡から5、6分の場所にありましたが、お稲荷の像も新しく造り直されていました。小さい神社ですね。横は公園でした。
 
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『保田与重郎が、一度、太宰を語って、「船橋時代とか、甲府時代とか、住みついている場所によって、その作家の時代と環境を劃して意味があるのは、今日もう、太宰をおいて他にないだろう」という意味のことをいっていたが、私も同感であった。』(小説 太宰治)

 太宰にとって、船橋時代は病気、麻薬との戦いであったか。病気、薬で弱る中での芥川賞落選は、心身共に負担であったはず。いくら心配していたとはいえ、小山初代では、太宰を支えるには力量不足だったのではないかと思われた。
 
 この船橋時代に行った、済生会芝病院、武蔵野病院は後でじっくり書きたいと思っています。
 船橋時代の記事は、あと一回で終わりになります。

 

by dazaiosamuh | 2014-03-24 22:10 | 太宰治 | Comments(0)