2014年 03月 20日
太宰治 愛着深き船橋時代 №6 川奈部薬局
この『東京八景』に書かれている薬屋とは、太宰が通っていた長直登病院から徒歩4,5分の所にある『川奈部薬局』のことだと思われます。川奈部薬局から薬を買っていたことも、長篠康一郎著「太宰治 文学アルバム」に書かれていました。どうやら、長直登医師が名刺の裏にパビナールの処方を書いて渡していたとのこと。この時、川奈部薬局で太宰に薬を渡していたのは、川奈部薬局の当主新之助の長男・川奈部真佐雄であった。
文学アルバムには、『船橋地区におけるパビナールは、川奈部薬局が当時一手で各病医院に納入していた関係で、在庫量、使用量はつねに正確に記帳されており、川奈部薬局以外からの入手は考えられない。』と書かれている。川奈部薬局であったことは確かなようだ。
太宰は、パビナールを一日に、二本又は三本を用いていたとされている。苦しみの中、昭和10年に東京帝国大学を授業料未納により、9月30日付で除籍されている。
翌年の昭和11年(1936)2月には、佐藤春夫宛の封書で、「芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう。さうして、どんな苦しみとも戦って、生きて行けます。(略)私を、助けて下さい。」と哀願した。受け取った佐藤春夫は、井伏鱒二らから太宰の現状を聞かされていたこともあり、パビナール中毒治療のために、入院を強く勧めた。
同じ頃、太宰を非常に心配していた人物がいた。それが、前の記事にも書いた檀一雄である。
『あの頃太宰は。よく泣いた。(中略)太宰も自分の苦悩の来源の薄弱さに、しばしば疑いの心を持つようだった。しかし、落ち込んだ妄想を、是正するというよりは、その妄想と心中しようという、太宰らしい純情に生きるようだった。(中略)おそらく太宰は自殺を選ぶだろう。だから、何としても、「晩年」を今の中に上梓しておきたいと思った。大きい封筒に入れられた儘、「晩年」の原稿は、早くから私が預かっていたからである。』
太宰に芥川賞を取らせてあげたいために、砂子屋書房に掛け合い「晩年」の刊行に向けて尽瘁する檀一雄や、太宰の体を心配し病院を強く勧める佐藤春夫、井伏鱒二らの苦労は計り知れない。薬の使用量は増える一方で、太宰の知らないところで多くの友人たち作家仲間が、太宰を助けるべく行動を起こしていたのだ。
ちなみに、妻の小山初代が川奈部薬局へ薬を求めに来たことは、一度も無かったという。
小山初代については、後程、詳しく書こうと思っています。