太宰治 愛着深き船橋時代 №5 旧宅跡② 長直登病院 【H28.11.17 修正】

『私が、はじめて船橋に太宰を訪ねていった時は、南の縁側に籐の長椅子を出して腰をおろし、ボンヤリと薄目を開きながら、太宰はビールを飲んでいた。』
『太宰は殆ど食事らしい食事はとっていないようだった。例の鶏卵とビールを交互に同じコップで飲みほしながら、それでも空想は豊富に湧くらしく、次から次へと語り倦かなかた。』(檀一雄著 『小説 太宰治』)
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 船橋時代、友人の檀一雄が太宰家を訪れたときの様子を詳細に書いている。心身共に弱りながらも酒はやはり手放せなかったようだ、いや、辛いからこそ酒を飲むのか。
 太宰は昭和10年7月から長直登病院に通うようになった。「病床日誌」によると「七月七日頃ヨリ腹痛ノ為毎日医師ヨリ麻薬注射ヲ受ケ習慣化スルニ至リ」と書かれている。病院は、太宰宅から徒歩約7、8分、「船橋大神宮」のすぐ横にある。太宰研究家の長篠康一郎が調べ場所が特定さている。
 長篠著「太宰治文学アルバム 女性編」に長直登医師のことが書かれているので引用させてもらう。
『この長先生は、まことに風変りなお医者さまであった。「人間は、その遺伝にも進化にもまた発生にも、医学の力を殆ど必要とはしていない。無医の僻地山漁村にも子供は生まれ、順調に成育し、医薬の恩恵を知らぬまま天寿を全うする人々も多い。言い過ぎ、穿ちすぎだとは思うが、忌憚なく云って、かような人々は、間違った医学からの被害から、免れている点もありはしないだろうか」「医学の理想は、医学、医師、病医院の必要を無くすることであろう。少なくとも、”造病医学”の汚名からは脱却したいものである」 いつもこんな調子なのだから、患者に対してもよほどのことがなければ、薬も多くは与えない。勿論、やたらと注射を打つこともしない。この一事だけでも、おのずから平素における長直登の人柄がしのばれるのではないだろうか。』
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 上の写真が、長直登医院のあった場所です。現在は別の病院になっていますが、建物は中々古く、当時のままではないでしょうか。
 注意平成28年11月17日・補足 長医院がこの場所にあったのは、大正15年から昭和5年にかけてで、その後は別の場所へ移転している。太宰が通ったのは昭和10年のため、移転後の長医院に通ったことになる。
 神宮のすぐ横にあったため、ここは迷うことなく見つけることができました。「船橋大神宮」の境内はとても広く、休日にのんびり散策するにはいいかもしれない。

 太宰は酒、薬等により、どんどん借金は膨らんでいった。そして、精神的にも弱り、それがまた飲酒や注射の回数を増やしていった。
 借金は、保田与重郎、芳賀檀、亀井勝一郎、淀野隆三などから送金嘆願の書簡を受け取っている。
「イノチノツナ」「シヌマデワスレヌ」「テヲアワセル」「タノミマス」等、太宰らしい電文で打たれている。他にも、知友、親戚にも嘆願の文字をつらねた手紙や電報を出していたと見える。

 檀一雄は、一二度、太宰に聞いたことがある。
「君。何か麻薬の注射をやっていやしない?」
「いや、いいんだ。何でもないんだ」
と、太宰はあわてて、云いまぎらすふうだった。(中略)自殺。という疑いが時折、私の心にも頭をもたげた。是非とも芥川賞の授賞にありつかせてやり度いものだ。

 檀一雄の太宰に対する想いやりが伝わってくる一文だ。しかし、太宰の苦しみはまだまだ続くのであった。
 次回は、薬局について載せます。

 重要補足とお詫び】 平成28年11月17日(木曜日)
 親切な方からのブログのコメントで、この記事に誤りがあることが判明。太宰治は昭和10年7月から長医院に通うようになったと書き、当時写真の場所にあった長医院に通ったと載せてしまいましたが、事実は、大正15年から昭和5年までは実際に川久保医院のある場所に長医院があったが、同じく昭和5年に別の場所へ移転し洋館の長医院を開業したとのことです。そのため太宰治が通った長医院というのは、移転後の長医院になります。
 私の調査不足と勝手な思い込み、勘違いが原因です。誤った情報を与えてしまい申し訳ありません。深くお詫びします。

by dazaiosamuh | 2014-03-14 23:20 | 太宰治 | Comments(0)