太宰治 愛着深き船橋時代 №1

 『私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった。』(十五年間)
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 太宰が亡くなったのは39歳の時だが、その2年前、37歳の時に書いた短編「十五年間」には、千葉県船橋町の家が最も愛着が深かったと書いている。三鷹、船橋等は有名だが他にもどこで生活していたかと言うと、これもまた「十五年間」の中で自身が書いているので、紹介しよう。

 『私はたいてい全部を失い、身一つでのがれ去り、あらたにまた別の土地で、少しずつ身のまわりの品を都合するというような有様であった。戸塚。本所。鎌倉の病室。五反田。同朋町。和泉町。柏木。新富町。八丁堀。白金三光町。この白金三光町の大きい空家の、離れの一室で私は「思い出」などを書いていた。天沼三丁目。天沼一丁目。阿佐ヶ谷の病室。経堂の病室。千葉県船橋。板橋の病室。天沼のアパート。天沼の下宿。
甲州御坂峠。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
 忘れているところもあるかも知れないが、これだけでも既に二十五回の転居である。いや、二十五回の破産である。』

 この挙げられた二十五箇所の中には、転居とよべるのかは分からないが病室等も含まれている。
 では、この中で船橋での生活は太宰にとってどのようなものだったのか、なぜ船橋が最も愛着が深かったのかを見ていきたい。

 昭和10年4月初旬、急性盲腸炎の手術で阿佐ヶ谷の病院(篠原病院)に入院。手術を受けるも、腹膜炎を併発し、患部の鎮静のために、ほとんど毎日パビナール注射を受ける。(この時からパビナール中毒の魔の手が忍び寄る)
 その後「血痰出デシ為」、五月上旬、世田谷区経堂町の経堂病院(現・児玉経堂病院)に移り、1ヶ月ちょっと入院。7月1日に予後療養のため、妻の初代と共に千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿1928番地に転居した。船橋では、京成電車の線路を渡り海老川の方へと散歩することも多かったようだ。
 太宰は、神戸雄一宛に自身の船橋の自宅案内図入りの葉書を書いている。今回は、その葉書を元に太宰の住んでいた旧跡地へと進んでみようと思う。下のイラストが、太宰が書いた案内図入りの葉書だ。

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 この案内図を見てどうでしょうか。少し、大雑把過ぎやしませんか。しかも見にくいですね、というより字が読めないです。太宰はこれでも真剣に書いたのでしょうか。聖地巡り泣かせです。当時の船橋は、現在の船橋とは町並みも少し違うはずです。区画整理もされていると思います。葉書の上の方に「ハガキが汚くて失礼です。おゆるし下さい。」と書かれています。分かっているなら丁寧に書きなさいよ、太宰さん。本当に失礼な案内図です。ただでさえ私は方向音痴なのに。

 果たして! 私は無事に太宰の自宅跡に辿り着けるのか!


by dazaiosamuh | 2014-02-23 22:04 | 太宰治 | Comments(0)