太宰治 上野舞台『美男子と煙草』

『私は、独りで、きょうまでたたかって来たつもりですが、何だかどうにも負けそうで、心細くてたまらなくなりました。けれども、まさか、いままで軽蔑しつづけて来た者たちに、どうか仲間にいれて下さい、私が悪うございました、と今さら頼む事も出来ません。私は、やっぱり独りで、下等な酒など飲みながら、私のたたかいを、たたかい続けるよりほか無いんです。
 私のたたかい。それは、一言で言えば、古いものとのたたかいでした。ありきたりの気取りに対するたたかいです。見えすいたお体裁に対するたたかいです。ケチくさい事、ケチくさい者へのたたかいです。』


 この太宰らしい文章は、昭和23年1月8日ごろから書かれた『美男子と煙草』の冒頭部分で、先輩作家や批評家たちから酷評された時のことをこの作品で取り入れている。『古いものとのたたかい…』、この言葉の意味には、生家との関係や自分のドロドロとした過去の体験も含まれているのでしょうか。さらに『見えすいたお体裁に対するたたかいです。』とも書いています。これもまた生家の父・源右衛門、後を継いだ長兄・文治との確執などの体験も意味していると思われます。太字は全て『美男子と煙草』から引用。

 『私は、負けそうになりました。先日、或るところで、下等な酒を飲んでいたら、そこへ年寄りの文学者が三人はいって来て、私がそのひとたちとは知合いでも何でも無いのに、いきなり私を取りかこみ、ひどくだらしない酔い方をして、私の小説に就いて全く見当ちがいの悪口を言うのでした。私は、いくら酒を飲んでも、乱れるのは大きらいのたちですから、その悪口も笑って聞き流していましたが、家へ帰って、おそい夕ごはんを食べながら、あまり口惜しくて、ぐしゃと嗚咽が出て、とまらなくなり、お茶碗も箸も、手放して、おいおい男泣きに泣いてしまって…』

 気の弱い太宰の泣く描写は定番ですね。『ぐしゃと嗚咽が出て』の『ぐしゃ』という表現は太宰特有で他の作品にも出てきます。太宰好きの読者なら、この表現がたまらないでしょう、太宰の上手い表現が発揮されています。
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「上野の浮浪者を見に行きませんか?」
「浮浪者?」
「ええ、一緒の写真をとりたいのです。」
「僕が、浮浪者と一緒の?」
「そうです。」

 こうして太宰は、『なぜ、特に私を選んだのでしょう。太宰といえば、浮浪者。浮浪者といえば、太宰。何かそのような因果関係でもあるのでしょうか。』と思いつつ、くやし泣きの日から、数日後に、雑誌者の記者に連れられて、上野駅の地下道へと行きます。下の写真は、現在の駅構内と地下道。太宰がいた時代とはだいぶ変わってしまっていると思います。特に駅構内は違うのではないでしょうか。地下道はどうだったのでしょうか。
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『私は、地下道へ降りて何も見ずに、ただ真直に歩いて、そうして地下道の出口近くになって、焼鳥屋の前で、四人の少年が煙草を吸っているのを見掛け、ひどく嫌な気がして近寄り、「煙草は、よし給え。煙草を吸うとかえっておなかが空くものだ。よし給え。焼鳥が喰いたいのなら、買ってやる。」
 少年たちは、吸い掛けの煙草を素直に捨てました。
 これでも、善行という事になるのだろうか、たまらねえ。私は唐突にヴァレリイの或る言葉を思い出し、さらに、たまらなくなりました。
 私は風邪をひいたような気持になり、背中を丸め、大股で地下道の外に出てしまいました。
 四五人の記者たちが、私の後を追いかけて来て、
「どうでした。まるで地獄でしょう。」
 私は声を出して笑いました。
「地獄?まさか。僕は少しも驚きませんでした。」
「実は、僕なんにも見て来なかったんです。自分自身の苦しさばかり考えて、ただ真直を見て、地下道を急いで通り抜けただけなんです。でも、君たちが特に僕を選んで地下道を見せた理由は、判った。それはね、僕が美男子であるという理由からに違いない。」
 みんな大笑いしました。
「いや、冗談じゃない。君たちには気がつかなかったかね。僕は、真直を見て歩いていても、あの薄暗い隅に寝そべっている浮浪者の殆ど全部が、端正な顔立ちをした美男子ばかりだということを発見したんだ。つまり、美男子は地下道生活における可能性を多分に持っているということになる。君なんか色が白くて美男子だから、危いぞ、気をつけ給え。僕も気をつけるがね。」』
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 太宰は、地下道を出て公園前の広場に行きます。すると先ほどの四、五人の少年たちが外で遊んでおり、太宰はふらと近寄ってしまい、記者たちに写真を撮られてしまいます。
 そして、後日、家に届いた写真を妻に見せるのですが…。

『「これが、上野の浮浪者だ。」と教えてやったら、女房は真面目に、「はあ、これが浮浪者ですか。」と言い、つくづく写真を見ていたが、ふと私はその女房の見詰めている箇所を見て驚き、「お前は、何を感違いして見ているのだ。それは、おれだよ。お前の亭主じゃないか。浮浪者は、そっちの方だ。」
 女房は生真面目過ぎる程の性格の所有者で、冗談など言える女ではないのである。本気に私の姿を浮浪者のそれと見誤ったらしい。』

 この『美男子と煙草』は、前年の昭和22年12月22日に「日本小説」の雑誌記者と上野に行った時に見た浮浪児を元に書かれた。僅か10数枚の短編小説なのだが、5枚目以後は、取材に同行した記者の口述筆記になっているらしい。
 日本は敗戦後、上野駅、盛り場、公園などには、戦災で両親を失った浮浪児たちが多数うろつき、上野の地下道は、家を失った人々、家も両親も失い住む場所もない浮浪児が住み着いていて、2列か3列になり、ムシロや炭俵などを敷いて寝ていた。およろ1千人以上がたむろしていたと言われている。

 太宰は、この地下道での光景を見て、どう思ったのでしょうか。というのも、『美男子と煙草』を書くため、上野に取材に行った年の3月に、次女・里子が生まれており、同年11月には、愛人・太田静子の娘・治子が誕生している。戦災で親を失い、行き場を失った子供を見て、自分の収入で、果たして家族を路頭に迷わせることなく養っていけるのか、太田静子の子供まで生まれてしまった中、このまま表沙汰にならずにやっていけるのか、という思いが太宰の心のなかにあったはず。
 その後、執筆した昭和23年1月8日から約2か月後の3月に『美男子と煙草』を発表した。
 それから僅か3ヶ月後に、愛人・山崎富江と玉川にて心中するなど、誰もが夢にも思わなかったことだろう。

by dazaiosamuh | 2014-02-14 12:52 | 太宰治 | Comments(0)